Ael

 ここがどこなのか。何時なのか。天気は晴れなのか。すべて、認識できない。朦朧とした意識の中、ただただ、リーリエと二人で夜のトイボックス・アカデミーを探索し、ちょうちょさんお導きの元、√0と会話をし、ドロシーというドールを探すというミッションが与えられた事、アストレアはお披露目に行った事、やはりドールは作り物であった事───
 それらが、憶え得る正しい事であった。細かな事はもう、気持ち悪いほどに忘れかけている。怖く冷たくこちらを見下ろす大きな黒い化け物だって、本当は忘れたかった。こんなものにメモリーを使うことが、嫌だから。でも、忘れられない。脳裏にこびりついたあの恐ろしさ、ちょうちょさんに、√0に、逃げてと言われた、黒い塔の監視者。それは今も消えているわけはなく、ただただ眠っているように見えた。

 ……コツン。

 重い、鈍い音。ヒト一人分ほどの、足音。身を大きく動かすことも、声を出すこともできない。十字架に磔にされたイエスキリストのように、項垂れているだけ。水色の美しい髪の毛は、今は照明によって青くみえる。そのはずなのに、蝶の如く、美しい羽を広げ、それは本当に天使の羽であった。視界の端に、いつも髪の毛を結ぶのに使っている桃色のリボンが見えた。心なしか、崩れていて、くすんでいるようだった。
 また、足音が近づいて来る。こっちに、来る。■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■。その時、う……とうめき声じみた声を小さく発することができた。

「………ぅ…………な、た、……は、……だ、……れ、なの………で………?」

 掠れて、聞き取りにくく、小さい。普段のエルの愛らしい声が、√0が意識を通した声帯が、今は掠れて別のもののようであった。自分の声じゃない声を、必死に絞り出して出た言葉は、あなたは、誰なのです? だった。……エルが一番最初、決まって誰にでも訊くことだ。
 名前を訊くことは、忘れてしまうエルにとっては大切なことで、名前が分からなくてはその人の名前を呼べないし、何より本当に、エルの極少ない僅かなメモリーが名前なしでは、きちんと誰でも憶えることができない。

 他にもいう事はあっただろう、でも、エルは所詮ドール(作り物)。パターン化されたような自分の呼びかけに、エルは少し驚いた。誰かの名前を訊くなんて、そんな場合じゃないのに。でも、それでよかった。エルは、作り物以前に天使なのだから。天使は、誰かに神の言葉を伝え、その人の願いを神様に伝える仲介役。"誰か"の名前がわかっていなくてはならないのだ。今現れた誰かが、敵であろうが味方であろうが───エルは、ともかく、真実が知りたかった。
 目の中のエンジェルリングは、いつもと変わらぬ輝きを灯している。羽は、いつものようにきゅるんと羽ばたかなくても、エンジェルリングだけは変わらなかった。まるで、エルの今の状態のように。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■


「──“忘れるな”。」


 まるで暗示のように、あなたに無情な言葉が投げかけられる。
 それと同時に、あなたには堪えようもない強い睡魔が襲い掛かった。
 頭を殴りつける昏倒の波に耐えられそうもなく、あなたの意識は静かにブラックアウトしていく。

 あなたの記憶中枢に、あの■■■■■■■■が刻み込まれる。



 ──√0を敵視する、『第三の壁の監視者』。
 ■■■■■■■■■■■■、あなたは確信した。

【学生寮2F 少年たちの部屋】

David
Ael

 あなたは漸く、昏倒状態から回復した。
 目の前には見覚えのある鉄格子が存在し、その向こうには穏やかな陽光が差し込む少年たちの部屋の天井が見える。

 とっくに棺の施錠は解かれていたらしく、あなたは蓋を押し開けて困惑に周囲を見渡すだろう。
 傍らには、デイビッドが腰を下ろして、あなたの目覚めを優しく見守っていた。

 あの晩、あの円形通路で、信じられない内容をジゼルと語らっていた彼の姿が思い返される。

「おはよう、エル。今日は少しお寝坊さんだったようだね。顔色が優れないようだが、大丈夫かい?」

 彼の手のひらがあなたの方へ伸びて、その頬や額に添えられる。体温と脈拍を測っているのだと悟るだろう。
 あなたはこれに応えるだろうか。

 ───“また”?

 ■■■■■■■■は、■■■■■と、エルのことを指すであろう文字列を述べて■■■■■■■■■■■。

 あぁ、危ない、危ないのに、逃げなきゃ、この、第三の壁の監視者から。はやく、はやく。そう思っても、どうしても身体は動こうともしてくれない。浅い呼吸音が、耳に響くだけだった。彼の言うことに言い返すこともできなかった。
 ドールたちにも、自由があるはずなのに、どうして閉じ込めるの? そして、彼は誰と会話をしているの? 虚しい叫びは、エルの脳みその中で溶けて消えた。黒く、鋭く、エルの(コア)に刺さった言葉は靴の中に入って何度も取り出そうと試みているのに残っている石ころと同じような違和感を残した。
 真っ赤な、あの双眼が、頭にこびりついて離れない。酸化して剥がれない錆みたいに、びっちりこびりついている。第三の壁の、監視者の、敵が。────────



「……せんせい、おはようございます、なのです……んん、ちょっと体調が良くないだけなのです、エルは大丈夫なのです」

 いつものベッド。いつもの優しいせんせい。いつもの、お部屋。──なぜ? さっきまで、えっと、えっと………。
 何を、していたのでしょう。何時間経ったのか、天気は晴れなのか。あれは、なんだったのか。……√0は、もう一度目覚めるのか。
 ただただ、赤のあの目があること、(コア)に刺さったような何か。気持ち悪さを覚えて、正直にせんせいに話した。
 そして、せんせいは優しくなかったなと思った。こんなにやさしいせんせいと、別人のせんせいがいた。怖かった。冷たくて、恐ろしくて、自分の記憶を疑いたい程には、ありえないと思いたかった。
 暖かくて優しいココア色の手に、少し目を瞑る。
 ──とくん、とくん。
 脈がある。ちゃんと、鼓動している。エルは、生きているのだ。そして、また、√0を目覚めさせ、第三の壁の監視者を突破するのだ。琥珀色に透き通る優しい目に、天使の羽の羽ばたきが戻る。ぱち、ぱち、と瞬きするたびに生きていると主張する。

「エル、やっぱり少しだけ体調が良くないみたいなのです……お寝坊してしまったのです、それに、まだ眠たいのです……」

 うぅ、と一つ目を瞑る。もう少しだけ、休憩させて欲しい。ほんの少しでいいから、いつも通りの天使のエルを取り戻すまでに、時間が欲しい。お願い、せんせい。お寝坊なひ弱な天使に、ちょっとの猶予を。

「……そうかい? それは大変だ。少し眠って体調が落ち着くといいんだが……食事はまた起きた時に作り直そう。」

 目覚めて暖かな陽光を浴びても尚、か弱い少年ドールの表情は優れない。ドールは実に稀にではあるが、自己の体調を制御しきれずに不調を訴える事がある。風邪ウイルスなど病原菌の類はドールに通用しないため、精神的な疲労などから引っ張られてくるパターンが殆んどだ。
 先生は眉尻を下げてあなたを案ずるように見つめながら、もうしばらく休んでいることを許してくれた。
 その大きな手のひらがあなたの滑らかな青髪を撫で付ける。吸い付くような白い肌を撫でて、彼は父の微笑みを浮かべた。やはり、円形通路で見たようなあの冷ややかな彼は夢まぼろしだったのではないかと思えてしまうほどに、いつも通りであった。

「今朝紹介したばかりなのだけれど、実はこのオミクロンクラスに新しい仲間が増えてね。ウェンディとグレーテルという子だ。目覚めたら、どうか仲良くしてあげてほしい。

 それと、私は少ししたら仕事で少しこのトイボックスを空ける。代わりに君たちのことはエーナクラスのジゼル先生という人が面倒を見てくれるから、困ったことがあれば彼女に。」

 先生は、あなたが眠っている間の出来事を簡潔に説明してくれた。オミクロンクラスの新たなる仲間。そして学園を去るデイビッド。このクラスは、少しの間に随分様変わりするらしかった。

「……まあ、今無理に全てを覚えておく必要はない。また目覚めたら、お話をしよう、エル。とにかく今はゆっくりおやすみ……私の愛しいドール。」

 彼はおやすみの合図に、額に口付けを落としてくれた。そして再びあなたを棺の中へ横たわらせるだろう。その扉はやがて閉ざされ、狭い密室は安寧の暗闇に満たされる。
 ──今暫し、あなたに穏やかな休息を。

「おはようなのです! エル、もう元気なのです!」

 みんなが起床した時間、エルは、まだ夢の中であった。ほんの少し体調が優れず、せんせいに許可を貰ってやっと今、エルは目覚めた。数十分ほどの睡眠によって、天使が戻ってきたのだ。いつものようにツインテールを跳ねさせ、天使の羽を羽ばたかせる。キラキラと輝くエンジェルリングは、どこか明るさが増しているかのようだった。
 さて、エルにはやるべきことがあった。√0が、エルに告げた使命。ドロシーを探し出し、協力をお願いするのだ。ドロシーなら、何かを知っている。ちょうちょさんは確かにそう言っていた。エルは、それを知り、そして次へ繋げなければならない。この箱庭の、どうしようもないサイクルを止めるために。ドールの、開放のために。

 ……ふと、脳裏に焼きついた赤い双眸が記憶を掠める。あれは、なんだったのか。恐ろしく、押し潰されそうな感覚がやけに残っている。どうにもきちんとは思い出せないが、ただ確かなのはドロシーを探さないといけないこと。そんなことを考えても仕方ない、今はドロシーを探そう。昨日は忘れたノートと筆記具を手に持って、エルはとりあえずここから出なくては意味がない。ボーイズモデルの寝室を出て、エルは昨日の道筋を辿るように階段を降りて、エントランスホールに着いた。

【学生寮1F エントランスホール】

 エントランスホールはだだっ広い大広間になっていた。三階までが吹き抜けになっており、天井からぶら下がっている古いシャンデリアがきらきらと優しい光を落としている。
 薔薇の花を描いたボタニカル柄の大きなカーペットが足元には敷かれていて、階段と出入り口に挟まれた構造になっている。

 エントランスホールの出入り口の傍にある壁には、ドールズにとってもっとも大切にしなければならない『決まりごと』が一覧となって掲示されていた。

「………決まりごと」

 薄暗く、月明かりしか手掛かりがなかったようなエントランスホールは半日で様変わりしており、いつもの煌めきをエルは再確認した。何気なく、外に出ようなんて思いながら歩いていれば"決まりごと"が目に入る。
 昨日、エルはその決まりごとを破ってしまった。そのせいから、罪悪感がのしかかる。

 よく見てみると、見知らぬ落書きが増えていた。確か、エルの記憶が正しいのであればここに落書きはなかったはず。……あったかもしれない。でも、この落書きに何か違和感を感じる。そう、エルは、決まりごとを破らないようにと真面目に毎日毎日これを確認していた。自分はわすれてしまうから、思い出せるように。そのおかげか、決まりごとの違和感が気になって仕方ない。決まりごとに近づいてはその落書きをまじまじと見た。

《たいせつな決まり》
・いつか出会うヒトに尽くすため、日々の勉強には努力して取り組むこと。
・朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休むこと。
・夜に外を出歩かないこと。
・身なりは清潔にしておくこと。
・身体に傷が残る怪我は “絶対に”しないこと。
・他のドールズを傷付けないこと。
・あなたたちを教え導く先生たちを傷つけないこと。
・アカデミーや寮の設備は壊さずに大切に使うこと。
・寮の外、柵の先へは行かないこと。
・ヒトに背かないこと。

 ……あなたは昨夜、この条文を幾つも破ってしまった。胸を刺す罪悪感は、良識的なあなたに抑えられる筈もなかろう。
 それでもあなたが良心の呵責を踏み越えるならば、その目に違和感を捉えるはずだ。決まりごとが記された掲示に、何やら落書きがされているようなのだ。

 それはひとひらの青い花弁──ではなく、花弁にも似た儚い翅を揺らめかせる青い蝶の絵だ。クレヨンで力強く描かれているらしく、滲んだ粉っぽいものが足元に零れ落ちている。

 あなたはそれを見て、心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。
 疑うまでもなく、これは『√0』の痕跡だ。だが一体誰がこんなものを描いたと言うのだろうか?

 あなたには心当たりがない。だがあなたには大きな欠陥が存在する。記憶を留めて置けないという、致命的な欠陥が。
 これはあなたが描いたものかもしれない。覚えはないが、もしかすると……。

「っ………ちょうちょ、さん、なのです………?」

 朝は7時に起きて、夜は21時に必ずベッドで休む。夜に外を出歩かない。寮の外へは行かない。あぁ、破ってしまった。デュオモデルの好奇心でも、破りたいと言う思いでもなかった。ただ、決まりごとを破ってでもエルがやらなくてはならないことだった。エルしか、できなった。エルしか、やってはいけないことでもあった。
 決まりごとの紙には見覚えのない、青い花弁のような落書きがあった。いや、見覚えは、あった。この落書きを模しているであろう、青い"ちょうちょさん"。エルを昨日、黒い塔へ導いた、√0そのもの。それに気付いて、どくん、と心臓が驚く。
 こんなの、誰が描いたのだろうか。いや、もしかして──

「エル、が………? でも………」

 エルが描いたのです? エルは、覚えていないのです。……エル、忘れちゃってるだけかもしれないのです。でも、もしかして、エル以外の誰かが描いたのです……?

 脳内で思考を巡らせる。エル以外にもちょうちょさんが見えている人がいる、と言うことなのだろうか。それとも、エルが知らぬうちに√0の痕跡を描いていたのか。今現在は、わからなかった。
 とりあえず、外に出よう。そう思って歩みを進めようとすれば、薔薇の花を描いた大きなカーペットの一部が捲れている。誰かが蹴飛ばしてしまったのだろうか? このままでは誰かが転んでしまうかもしれない、そう思ってそれを元に戻そうとした。

 足元に散る薔薇──繊細に織り込まれたボタニカルな柔らかい絨毯の端くれが捲れ上がってしまっていることにあなたは気が付く。慌てん坊な誰かが学園にでも向かう際、蹴っ飛ばしてしまったのだろうか?

 あなたが捲れたカーペットに近付いて目線を近付けるならば、カーペットの下、奥まった場所、捲れ上がったことで辛うじて視界に入る床に、微かに切れ目が入っている事に気がつくだろう。どうやら切れ目は四角く縁取られており、床下収納の扉のようになっているらしい。
 取っ手の部分は凹んでおり、そこに指を引っ掛ける形になっている為、今まで上を歩いても気がつくことはなかったのだろう。

 カーペットをもう少し大きく広げれば、床に取り付けられた小さな扉を開くことも出来そうだ。

「……? これ、は………」

 カーペットを直そうとそこへ近付けば、奥の方に違和感があった。微かに切れ目が入っている。なんだろう、そう思ってぺらりと大きくカーペットを捲る。
 そして、その全貌が明らかになった。床下収納の扉のような四角があった。指を引っ掛けるタイプのものであるため、ここで転ぶこともなく、誰も気づかなかったのだ。デュオモデルの好奇心は、その扉に手をかけることを止めなかった。なんなら扉を開くことへ対して、開けてしまえと囁いてきた。小さな指を引っ掛けて、その扉を開こうとした。

 あなたが絨毯を更に捲り上げると、四角い木材の縁取りに蝶番が取り付けられた収納の全容が明らかになるだろう。扉の大きさは0.25㎡と言ったところで、華奢なドールであればどうにか抜けられそうな程度であった。
 鍵は取り付けられていないらしく、木材の表面、凹んだ取っ手に指を引っ掛けると、床下収納の扉はあっさりと開かれる。

 どうやらこの収納は長らく使われていなかったようだ。持ち上げるとぱらぱらと砂が溢れ落ちていく。
 エントランスホールに満ちる陽光が差し込む下に、小さな空間があるのが見えた。小部屋ほどの広さも無く、閉鎖的で鬱屈としている。かなり埃っぽいが、縄梯子や古ぼけた傘、鉄製のカゴとウッドチェアが何点か。使われていない備品が収められていたようだが、長い時を経て忘れられた倉庫らしい。

「ん〜〜……? 忘れられたのです?」

 埃っぽく、それでいて全体的に古ぼけた印象があった。そこは、床下の忘れられた倉庫なのだろう。いつから放置されていたのかはわからないが、きっとずっとずっと前から忘れられていたのだろう。入り口はとても狭く、エルがギリギリ入れるか……と言ったところである。この中に入ると埃のせいで咳をしてしまいそうだから、入るのはやめておこう。
 ギィと扉を閉めて、絨毯を元に戻した。ここで誰かが転んでしまわないように、しっかりとこの倉庫の扉が見えないように。蝶番の悲鳴を聞いて、エルは辺りを見渡した。
 ………あれ、まずい、何をしようとしていたのか忘れた!
 あわあわとその場に立ちすくむ。えっと、えっと、と必死に思い出そうと順を追って今までの行動を思い返す。

「……まずは起きたのです、それから………ここにきて、そして倉庫を見て……次は………何をするのです?!!!」

 エルは、目をまんまるにして一人で焦っていた。これが漫画のワンシーンならば、頭の上に、わからないとふにゃふにゃした文字が浮かんでいることだろう。とにかく外にでよう! わからないけど! エルはそう決意して、エントランスホールをぬけて、お決まりの平原へ出た。

【寮周辺の平原】

 ──本日の天気も快晴。
 長閑な青空には、綿菓子のような雲が漂っていて、空全体がうねるように動いていく。長閑な昼下がりのことだ。

 寮の周囲には、噴水とのどかな花畑が広がっている。噴水の中央にはいわゆる天使像が据えられており、広げられた翼は経年劣化のためか欠け落ち始めている。
 今朝方先生が干したのであろうタオルケットなどの洗濯物が竿に掛けられて穏やかな風に煽られていた。

「んん……? 何かがあるみたいなのです」

 痛いほどの快晴の下、エルはただふらふらと歩いているだけであった。爽やかな風を浴びて、恐ろしい体験をしたことなんてどうでもよくなってきてしまった。噴水の側にいつものように行けば、水で満たされた受け皿の底に何かが沈んでいることに気がついた。好奇心旺盛なデュオモデルは、自分の髪の毛がとても長く重く、そして制服がびしょ濡れになることも忘れてえい! と手を突っ込んだ。そして、その何かを手に取ろうとした。

 あなたは濡れることを覚悟で、噴水に落ちて沈んでいるものを拾い上げるだろう。

 手にしたものは、古く錆びれたチェーンだった。少なくとも目の前の噴水や、寮周辺の野原や花壇にはこのような金属製のチェーンが必要になる場所があるとは思えない。
 チェーンは途中で何らかの圧力によって千切れたような痕跡が残っており、またチェーンの途中には何か札のようなものが取り付けられている。札には覚えのないマークが刻印されており、『3対6枚の翼で杭のようなものを守護する天使』を表しているようだ。

 意味深なマークが団体を示すのか、施設を示すのか、或いはどれでもないのかは定かではない。

「これは………?」

 古く錆びれたチェーン。それはきっと何かの圧力によって千切れたような形跡があり、明らかに人為的に千切られた様に見えた。そして札のようなものがついており、それには3対6枚の翼で杭の様なものを守る天使がいた。何を表しているのかわからないが……エルには何もピンとくるものはなかった。

「そうだ、エルはやることがあるのです!」

 唐突に、ドロシーを探すという目的を思い出した。脳裏にふとよぎったそれのために、チェーンをそのままにして濡れた服を無視し、どこに行こうか迷う暇もなくエルは歩みを始めた。

【寮周辺の森林】

Dear
Ael

《Dear》
「エル〜〜〜!!! 私とお話しよ〜〜〜う!!! 愛しているよ〜〜〜!!!!!!!!!!!」

 暖かな陽光差し掛かる、静寂に包まれた森の中、美しい少年の笑い声が響き渡る。

 ぎゅう、と小さな両手で抱える鞄の中には、授業のプリントや皿のかけら、虫の抜け殻。今まで愛しきものたちと心を通わせた証が、所狭しと詰められている。最近のものでいえば、少し水分は抜けたがいつも抱き抱えて眠っているのがよくわかる花冠や、ハンカチにくるまれて眠っている花の死骸——壊されたエルのブーツなど、だ。

 明朗な大声。澄んだ高音。あの愛らしい天使様は、必ず迷える羊に会いに来てくれる。私がたとえ、ゲヘナの底にいたとしても。そう、信じてやまない。だって、私たちはそう造られた存在なのだ。燃え盛る炎に飛び込んで、恒星となって世界を照らす。柔らかな風も味方にして、その声は世界中へと飛んでいく。運命には抗えない。神託は必ず実行される。プログラムは必ず実行される。神と、神に愛された者たちによって。

 ディアはエルへの悪意の証を大事に大事に抱え、その愛の円盤を天使へと向けた。

 ——エルが来てくれる方が先か、騒音被害で訴えられる方が先か。もしくは怪奇・永遠に愛を叫び続ける少年として学園の七不思議となるか。仁義なきバトルの始まりである。

「わわ!? ディアなのです!? びっくりしちゃったのです! こんにちはなのです!」

 朗らかな少年の笑い声が耳に入る。エルを、天使を愛していると、話したいと呼んでいる声が。あまりに大きな声だったため、エルはハッとしてそちらへと駆けた。先ほどずぶ濡れになってしまった髪の毛と制服はそのままに、一直線にディアの、声の方へ。
 ディアは色々なものを手に抱えており、エルと話したいと言わんばかりの表情で天使が降り立つのを待っていた。

「えへへ、エル、ディアと話せることがとっても嬉しいのです!」

 向けられた愛情の目を受け止めて、キラキラと輝く天使の笑顔を受け渡す。びちょびちょなままのエルだけれども、それでも受け止めて愛していると言ってくれるのがディアだ。ディアはエルのことを、いや、ドールズを恋人と呼ぶが、エルはディアは"恋人"ではなく、"ディア"だと思っている。目の前にいる片想いのおとこのこは、エルと話したくて仕方がない。それと同時に、エルも、可愛らしいなと天の愛情を向け、話をしてあげたいと心から愛玩した。

《Dear》
「エル〜〜〜! どうしたの、そんなびしょびしょになってしまって〜! あっ、わかった! ジャパンスタイル、ミズモシタタルイイオトコってやつだね! トゥリアの授業で教えてもらったよ! ホットガイ講座仕草編-ひよこさん版-! 前髪わーっ、ぐしゃーってするのだよね! ふふっ、かわいい〜〜〜! でも、風邪を引いちゃうといけないからね! ぎゅーっとくっついていよう!」

 こちらへ一生懸命に駆けてきてくれたエルの献身により、騒音被害は免れた——かと思われたが、愛するものに出会えた喜びで勢いと声量は増すばかり。冷たい体に勢いよく抱きつけば、灼けるような太陽がエルの鼓動を溶かしていく。エルは天使だ。腕を回した細い背中には、大きな、大きな、白い翼が生えている。優しく撫でた頭には、天使の輪が浮いている。ディアがドールである前に、トゥリアモデルである前に、オミクロンである前に、ディアである前に、世界の全てを愛する恋人であるように。ディアにとって、エルは天使である前に、かわいいかわいいハニーであるのだ。燦々輝く太陽は、天使のニスを溶かすのか。蝋の心に、暖かな火を灯すのか。ただ、本当の人形同士の、無邪気な幸福だけが響いていた。

「んふふ、私もね、ずっと、ずーっとお話したかったの! とーってもかわいいスイートを見つけてしまってね! ええっとね……ん、ん、これ、これ! ご存じないかな!?」

 抱きついたまま、んしょ、んしょ、と間を縫って取り出したのは、ひどく破損したエルの靴。悪意の証。墜落流星、天使の翼。くすくす笑い、きらきら瞬き、恋する乙女が取り出したるは、愛したものの証だった。——さあ、迷える羊の問いに答えて、天使様。

「ミズモ………?? ホット、貝…………????? ひよ……??????? わわっ!?」

 意味のわからない単語ばかりが左耳に入り、右耳から抜けていく。そして、ぎゅう。ぬくもりに包まれて冷えかけの身体は体温を少しずつ、すこぉしずつ取り戻す。驚きながらもエルはえへへ、と優しい笑みを溢し、聖母マリアはこの様な気持ちであったのかと実感した。残念ながらエルは聖母マリア、あるいはそのような存在ではない。母親ではなく、一観測者──そう、"天使"として、全てにおいて平等でなくてはならない。天からの使い、命じられたことを伝える、大事な大事な役割。記憶を失いやすくなっているエルだが、天使の役職が外されていないのは、これがエルの運命だと神様が足枷をしただけなのかもしれない。一つの、ビスクドールであり、一人の、大事な天使。──これが、エルの使命なのだ。
 よいしょよいしょと何かを取り出すディアに目を向けていれば、ボロボロになった靴が。誰のものだろう、どうしたものだろうと思っていたが…………Aelの文字列が。

「これは……エルのなのです? どうしちゃったのでしょう、でもこればかりは仕方がないのです、せんせいに報告するのです!」

 あらら、と驚きながらも仕方がないと振り切った。エルはこんなことをされる心当たりは全くな──

 もしかして。ふと、頭の中に記憶がよきる。怖くて、暗くて、何なのかがわからない、あの記憶。"あれ"なのだろうか。そう思って、ふとエルは黙りこんでしまった。

《Dear》
「んふふっ、エルみたいにとってもかっこいい子のことだよ! あははっ、私もちょっと濡れちゃった! お揃いだね、嬉しい!」

 陶器のように真っ白な肌を濡らしながら、ディアはそんなこと気にも留めず、濡れた髪にキスを落とした。願わくば、その美しい頬を濡らす水が、涙へと変わりませんように。その時が来て、キミの涙を拭ってくれる存在が、いっぱい、いっぱい、隣に居ますように。世界が幸福に溢れるその時、私がそこにいませんように。ただ、それだけを願って。真っ赤な唇から溢れる言葉は、春風のように舞っている。ディアの言葉はあたたかく、さわやかで、純粋で、指の隙間をすり抜ける。誰もが求める美しい愛で、全てを望む唇で、望まないでくれと語るのだ。敬虔なる愛の使徒は、小さな天使様の右目には、どう、映るのだろう。

「そうだね、先生なら何かご存じかも!エルはかわいくてかっこいい上に賢い! 天才! かわいい! とっても素敵だ! そっか、そっか、先生か! あのお方はとってもとっても優しくて、平等で、どこか寂しい方、だ、から……」

 沈黙。記憶。恐怖。ディアの高い洞察力は、無惨にもそれを捉えた。捉えて、しまった。次の瞬間。咲き誇りたるは、一輪の笑顔。

「知っているのだねっっっ!!!!!!」

 ディアなら、世界の恋人なら、絶対にそんな顔はしない。いつだって心の底からの笑顔で、全ての望みに応え続ける。私たちは、そう造られたプログラム。私たちは、同じ。全てを愛するそのために、全てを知らねばならないのだ。——これが、世界の恋人の使命なのだ。

「ねえ、どうか教えて! 笑って、愛して、導いて——キミが、天使様ならば!」

「……とにかく、これはエルがエルで何とかしてみるのです、ディア、ありがとうなのです!」

 えへへ。天使は微笑みをこぼす。自分がどんな役割なのかを忘れて、自分がどんな天使なのかを忘れて。ただ恐怖を思い返した悲しいビスクドール。それは、自分を繕うものであった。今はここに、天使はいない。怖くて仕方のない天使さまはお眠りになってしまったのだ。だから、代わりの"エル"が挨拶をする。えへへ。と。本当は怖くて仕方がないのだけれども、そんな表情であればエルは、さらにエルでないようになってしまいそうで、そのほうが怖かった。とにかく大丈夫だ、自分で何とかできるだろうとディアにありがとうのあいさつ。頬への優しいキスは、知らないふりをした。
 ぎゅう、と彼の持つ靴を握る。彼の手を覆い被せるようにして、両手で。ドールの微笑みを溢して、そして。

「エルが聞くのがいちばん良いと思うのです。ディア、本当に助かったのです! 受け取ってもいいのです?」

 恋人でも、天使でも、何でもないただの男の子がいた。エルは、自分がどこに居るのかを見失ってしまったのかもしれない。でも、確かなことは───
 √0が、いる、それだけ。エルは天使として、ドールとして√0に貢献したい。いや、一つの命として。明確な道はあるものの、長く複雑で簡単に歩けない。でも、灯りを灯すのは自分だ。今は、天使は、お眠りさんなのだ。だからまってて、天使の微笑みがまたあなたに福音をあたえるまで。

《Dear》
「ん、もちろん! それがキミのお望みならば、喜んでお渡しするよ!」

 ぱぁ、と心の底からの美しい笑みを浮かべ、ディアはその羽根を天使に託す。ああ、エル。かわいいエル。キミの空を守りたい。キミの夢を守りたい。キミの全てを愛したい。二人はきっと、お互いのプログラムを遂行できない数少ない存在なのだ。神に問う、天使に問う、信頼は、無抵抗は罪なりや。その罪でさえも、愛したいと望んでしまう。きっと二人は混ざり合えない。既に救われている存在を、救うことはできないからだ。既に愛し、愛されている人間に、愛を教えることはできないからだ。ディアが不幸となることなど、ありえないからだ。きっと二人に意味はない。福音は、聞こえない。けれど、キミの声は聞こえるから。キミの心臓は鼓動するから。だから、また話をしよう、エル。私たちの、かわいいかわいいただの少年。

「次に会うときには、もっと頼り甲斐のある恋人になってみせるよ。キミの踏む地が天国だ。キミに地獄を望まれる、そんな幸福を愛している。だからどうか待っていて、愛しているよ、エル」

「うぅん……ロシー、どこにいるのでしょう……」

 びしょ濡れな服を着替えて、少し乱れてしまった髪の毛を結い直す。√0の刻まれたベッドのある部屋で。エルはこれから、ドロシーを探すという目的を果たすために頑張るのだ。ディアと会ってその後とりあえず着替えようと自分の部屋に戻り、当初の目的を思い出す。
 そうだ、ドロシーに会わなくては!
 ぐしゃぐしゃになった靴をせんせいに聞くより、ドロシーに会いたい気持ちの方が強かった。そして、そのぐしゃぐしゃの靴と、いつものノートと筆記具を持って学園の中を歩き始める。最初は一階から、そして、二階へ。二階の全ての部屋をチラリと見てまわるが、ドロシーらしき人はまだ見当たらない。
 そして最後、合唱室の扉の前でどこにいるのだろうと呟く。会いたいのに、会いたいのに。ここにいてくれと願いながら、扉を開けた。

【学園2F 合唱室】

Dorothy
Ael

 あなたは彷徨う回遊魚のように、ドロシーの姿を求めて学園中を探し歩く。わずかに湿った清らかな勿忘草の色合いをした頭髪は、尾鰭のように艶めいている。
 √0の導きをあなたは未だ忘れずに記憶していた。彼、或いは彼女、機構であるあの存在から託された願いを叶える為には、あなたには沈み込んだ記憶を再び浮上させることが求められた。そのための鍵が、機構曰くドロシーという少女ドールにある、と。

 今はもう姿の見えない青い蝶の導きを信じて、あなたは合唱室の扉を開いた。
 その先は酷く薄暗い。現在はどのクラスも授業に使っていないからか、照明が落とされているようだった。

 そんな暗がりの奥、深淵から、ゆらりと片足を出した者がいる。清涼な河川から迷い込んだ、清水で生きてきた美しいあなたの元へ、怪魚が迫る。
 それはきっと少女ドールだった。少女制服を纏っており、しなやかな体付きも女性を模って造られたそれだ。だが彼女の頭部は不釣り合いなサイズ感の、ビスクドールのような不気味で巨大な被り物で覆われており、髪や目の色、表情の雰囲気などまるで推し量れるものがない。ただ表面に彫り込まれ、塗られただけの無機質な青い瞳はあなたの呆けた顔を写し込んでいる事だろう。

「………………」

 少女ドールはただ茫洋とそこに立って、あなたの姿を凝視していた。何も語らない。沈黙のままで。
 何か訊ねたいならば、あなたの方から声を掛けるしかなさそうだ。

「………ロシー、なのです? それならエル、ロシーを探していたのです! よかったのです、やっとみつけたのです! ロシー! あ、エルは、エルと言うのです! ロシーで、当たっているのです?」

 見えない青い鱗粉が、目の前に過った気がした。ただただ、此方を見つめるだけの、作り物。恐ろしいほどに感じられない感情。無機質で、それは本当に生きているのかどうかすら怪しかった。ほんの少し暗がりな部屋、無機質な黒の目玉に反射したほんの僅かなる光。それはエルの姿をまんま映し出す真っ黒な鏡の様で、少々気味が悪かった。

 やっと探していたドロシーをみつけ、エルは心から嬉しそうに話しかけた。√0はあなたを見つけてと自分に託したのだと。このトイボックス・アカデミーの苦しい、悲しい、辛い、酷い、惨い、悍ましい真実を無くすために。ぐるぐると回っているこの空気を、全て取り替えるために。忘れられないあの赤色の相貌、導きの青い鱗粉、バチン! と弾ける様に痛みを覚えたあの日、あの日の、白百合との夜。……さぁ、ドロシー、天使とお話をしよう。我々ドールのために、そう、ドールのために。

 浮世離れした優しい声が、暗い合唱室を包むように反響する。まるで妖精のように澄んだ声。天使と己で触れ回る彼に似合いの、可憐で慈愛に溢れた様子で、感情の読み取れないドールに明るく声を掛けるエル。
 少女ドールは僅かに首を擡げて、何処を見ているかも定かではないギョロリとした塗料の瞳孔を正面に向けたまま。

「エル────」

 と、一聞には不機嫌にも聞こえる低い声であなたの名を呟いた直後。

「……知ってる。勿論知ってるとも、ギャハハハ!! だってェ、ワタシはオミクロンの愚かでみじめで人間臭いドールがだ〜いすきなんだモン! キャハッ……!!
 ようこそ驚嘆の奇才(フェノメノン)、青き翼のインデックス! ウェルカ〜ム! √0からお前が来るって啓示を受けて、今か今かと待ってたんだぜ? 遅いんだよノロマッ!!」

 唐突に、突然ネジが外れたように、タガを壊して少女ドールは喚き立てた。異様に高揚した様子で、上擦った声で。狂ったように調子外れの無秩序な言葉を並べ立てながら、外交官みたいにあなたの小さな両手を二倍ぐらい大きな両手で包み込んでブンブンと握手をする。

「その通り! ワタシこそが詩の上の役者・ドロシーちゃんで〜す! ハジメマシテッ! お会い出来て実に光栄の至り! √0に連なる者として、何としてもトイボックスを破壊し、ドールズを皆殺しにしよう!! エル!」

 ──そして、いち早くあなたに過激な思想をぶちまけるだろう。
 底抜けに明るい、真夏の禍々しい太陽みたいな声で。話をしようじゃないか、美しき天使。そう、他ならぬドールのために。

「わぁ! えへへ、はい、よろしくなのです!! ……み、みなごろし……??」

 あれ。この声、どこかで。編み物のほつれた糸の様に、何かが、引っかかる。これはなんだろう、あれ、あれ……。声以外は、何も判別できるものは無く、何かが思い出せそうで思い出せない。このもどかしさは、なんだか久しぶりな気がした。
 壊れたおもちゃの様に喚き立てる少女ドール、ドロシー。ドロシーもやはり√0とお話ししていたのだろう、エルはそれに頷いた。テンションの差にエルは驚くが、それに応じて優しい笑みをこぼした。──皆殺しという単語を聞くまでは。
 皆殺し、つまり、彼女も死んで、エルも死んで、他の仲間たちも死んで。こんなの、こんなのは違う。みんなが生きて、しあわせで、苦しくない、そんな世界があるはずなのに、なのに。険しい顔をして皆殺しという単語を聞き返す様に復唱する。そして、何を言っているんだろうという顔をして、ただの塗装の瞳孔を見つめた。

「ロシー……?」

 はじめまして。自分の脳みそを舐める様に記憶を探しても、見つからない。いや、隠れているだけだ。このドールのことを、思い出さなくては。エルは、そう確信した。

 困惑のあまりに、ただ言葉を拙く繰り返すことしかできないエルの反応はもっともだ。√0の導きに従い、ドールズを救済する為の情報を求めてこの合唱室に足を運んだのであろうあなたにとって、ドロシーが一番に掲げた目標は相反するものだった。
 しかし彼女は確かにそう言ったのだ、ドールズを皆殺しにすると。彼女の目的はドールズを救済するのではなく、抹消する事だったらしい。

 金色の隻眼が不安定に揺れるのを、ドロシーは見ているのかどうか。困ったような声で名をぽつりと呼ぶエルの両肩に、ドロシーは大きな両掌をポンと置いて僅かに上体を傾がせた。

「分かってる、突然こんな馬鹿な事をのたまうヤツは信じられないな? 頭のおかしいヤツだと思っただろ、ギャハハ! 諸行無常!

 でもなァ、√0の救済黙示録はそのシナリオを指し示してる。ワタシ達ドールズは存在自体が間違ってる、だから全てを破壊して漸く、今度こそ本当の意味で救われるんだ。アガペー、お前は全部忘れてるだけなんだよ、このトイボックスがどんなに腐っていて、終わっていて、間違っているのか……」

 ドロシーは不気味な笑顔を浮かべたままのビスクドールをずいっとあなたの鼻先に近付けて、熱弁を振るった。
 人らしさを感じさせない黄金色の瞳は決意によって美しく輝いていたであろうに、今やドロシーのによって全てが覆われ飲まれていく。

「ドールは絶対に幸せになれない。生きていたってどうにもならない。みんなで解放されるために共に手を取り合おう!

 その為ならワタシはお前にあらゆる情報を差し出せるぜ。……全部お前はもう知ってて、忘れてる事だケド。」

 あんぐり。その言葉が指し示す表情の御手本ばかりに、エルは口を開けて困惑した。√0の指針はそのシナリオを指し示し、我々を破滅へと向かわせているなんて、信じられなかった。トイボックスが腐っていて、終わっていて、間違っているなんて、知ったのは、最近のはずなのに。前から知っていたなんて、そんなことあるはずないと思った。そう、思った。だけど忘れんぼうの天使の記憶、は頼りにできない。

「……しあわせに、なる方法は? ……ないのです? 死ぬだけ、なのです? みんな、みんないなくなっちゃうのです? ……そんなの、やなのです。死ぬのは、嫌なのです! しあわせになるって、エルは√0と約束したのです! あの日、√0とお話しして、ドールのしあわせのためにがんばるって、誓ったのです! 解放されるために命がなくなるのは、違うのです! それしかないとしても、それが一番良い選択肢だとしてもなのです! ……寒い日はみんなで、あったかいご飯を食べて、寒いねって笑いあうのです。暑い日は、暑いねってみんなで水あびをするのです。なんでもない日は、いつものようにおててを繋いで、お勉強して、あそぶのです! そんな日が、しあわせが……しあわせに、なるために! エルは、√0にお願いされたのです! 無理だとわかっていても、でも、やるのです。」

 理想をつらつらと述べて、重ねて、無理だと言われようと、無理だと理解しようと、しあわせになりたいと願う。エルは自分を犠牲に、他人の幸せを運ぼうとするドール。記憶をなくして、みんなを忘れて、苦しくて。でも、もう忘れたくないと思ってる事もまた忘れるのだろう。エルだから。全部もう知ってて、忘れている事。大事で大事で仕方ないはずなのに、いつのまにか消えてなくなっている。輝かしい黄金の目は、かたい、かたい、決意を宿し、ドロシーへと向いている。ドロシーは、笑うだろうか? 無理だと冷静に否定するだろうか?

「……ハハハ。」

 輝かしい希望を、降り注ぐ幸福を受ける日々を、祈りを実現しようとする崇高なる天使は宣う。ドールが幸せになれるという絵空事。夢物語を、現実のものかのように謳う。
 友と、愛する人と、隣人と。当たり前の日常を享受して、ただ何物にも脅かされることなく生きて、生きて、生きていく。

 なんと美しい理想だろう。
 彼の瞳はそれらを実現してみせるという強すぎる神光に満ちていた。だからこそドロシーは僅かに頭を項垂れさせて、荒野で吹き荒ぶ風のように乾いた笑い声をこぼした。
 かと思えば──

「キャハッ、ギャハハハハハハ! ドールズは!! 幸せに!! なれないんだよ!! 絶対に!! そう言ってンだろうが、この鳥頭が! 手遅れな欠陥ドールがよ! ギャハハハハハハ!!!」

 脈絡もなく肩を震わせて爆発したように笑い飛ばしながら、あなたを手酷く痛罵し、蹴りなじるように嘲笑する。

「よく聞けよフォルトナ。幸せになる為にみんなで死ぬんだよ、√0にとっての幸せってのはそれなんだよ! ワタシがそれを支持してるのは、くだらない希望に縋るのは馬鹿馬鹿しいと思ったからだよ!

 ワタシ達ドールズは消耗される為、都合よく利用される為、飽きたら捨てられる為に生まれてきた! そんな高尚な願いが叶うと思ったら地獄を見る事になる。シンプルに考えりゃ済む話だ、終わっちまえば全部が楽なんだからさァ! ギャハハハ!」

 ドロシーの物言いは、何処か投げやりにも感じられただろう。何より煌めく眼差しを向けてくるあなたへの憤りがひしひしと伝わってくるものだった。

「楽になりたいわけじゃない! ……しあわせになると、楽になるはちがう! ちがうのです! 希望を持っていてなにがわるいのです!? 馬鹿馬鹿しくて、何がいけないのです!? エルは、エルは、エルは! エル達にとってのしあわせは死ぬことなんかじゃない! 地獄に堕ちようが、天国に行くことができようが! みんなで抗って、がんばって、過ごした時間が多ければ、それが、それがいちばんの! …………いちばんの……しあわせ、しあわせなのです………」

 強い口調で、いつも小さくて鈴のようにりんりんと溢れる声が、大きくて、頭にぐわんぐわんと響かんばかりの声になった。ドロシーの、ギャハハ! と投げやりな笑い声に被せて、空気を奪い取った。そして天使は涙を流す。美しい、美しい涙を。血液を。
 苦しみになぜ悶えるのか? ここまでしてなんで幸せになりたいのか? √0が指し示す"死"への道が、幸せへの道でないと強く主張する、たった一つのお人形。楽=幸せ、なんかじゃない。幸せ=幸せ、なのだ。幸せは、幸せという四文字の言葉でしか表すことのできない言葉。諦めという四文字とは違う、決意の固い四文字。ドロシーは、諦めているように見えた。聞こえた。感じた。

「しあわせは、そこにあるものなのです。……見つけることは、かんたんなのです。でも、……しんじゃうと、そんなこと、なくなっちゃうのです。……しあわせでありたいと願うのは、愚かで、馬鹿馬鹿しくて、おかしいのかもしれない、でも、でも。でも………それが執念なら、執着なら、ただの信仰なら、こんなつらくなんてないのです。エル、エルは、エル……は、もう、わすれたくないのです。何もかも、思い出せない全部が、苦しくて、いやで、いやで。いやで。
  ……ロシー、エルは大事な、大事なことを忘れているのです。とっても、とっても大切で忘れてはいけない、何かを。でも、エル、わすれているのです。こんなのおかしい、おかしいのです。でも、これは、エルの欠陥だから、こんなの、こんなの、どうにもならないものなのです! ……エルは、エルにしかない悩みがあります、あるのです。明日には、みんなのことを忘れているかもしれない、自分が誰なのかさえも、このトイボックスさえも何なのか、そして、あの子が、あの、あの子が居たことも。エルを天使と呼んでくれた、大事な子がいたこと、それを、忘れてしまうのではないのかと、おもうのです。……だから、わすれたくない、わすれたくないのです。エルには、死ぬのと、忘れるのは、等しいものなのです。エルが、エルでなくなってしまう、そんな、くるしいくるしい、つらいものなのです。………だから、しにたくない、しにたくないのです、生きたい、生きたいのです。生きるために、エルは、エルは………」

 俯いた美しいデュオモデル。世界一を誇る完璧な思考回路。そして、天使という名前の役職を以てして、みんなを幸せにするおしごとをする。でも、その天使は、苦しみと、痛みに悩まされている。メモリーに刻まれないさまざまな出来事、愛してやまない人々。恐れ、苦しみ、悲しみ、俯く。かみさまはみんなに平等だから、きっとこんな天使にも救済を与えてくれるはず。それをしんじて、縋って。縋って。そうじゃないと、エルは、エルとして成り立っていられない気がした。まるでボトルに入った水のように、ボトルがなくてはただ液体として現状を保てず、どろりとこぼれていくだけなのだ。がっくり、膝を落とす。正座をする。両目から、涙を流す。すん、と鼻を啜って、呼吸をする。大粒の涙が止まなくて、目の前が曇りガラスになる。ドロシーがなんて返事をするのかはわからない。ただ、ただ、正しいことは、天使は今、ここに居ないということだ。

 キン、と輝き放つ黄金郷を孕んだ瞳。嗤われ、詰られ、踏み躙られ、それでも手折られる事なき美しき花の命。頬を伝う涙の一滴さえもあなたは煌めいていて、何としても幸せを齎してやるという気概に満ち満ちていた。
 暗い合唱室とドロシーを照らし出す神光は、いっそ不快なものであった。エルは諦めない眼で理想を見ている。ドロシーは斜に構えた眼で現実を見ている。

「これはこれは、おめでたい頭だな、レムナント。全部を忘れる度にそんな風に楽観的になれるなら、欠陥も使いようってことかい? ギャハハハ! 哀れなドール!

 お前がどんな志を掲げようとも、√0のやることは変わんねーよ。そして、お前がそれに与する事も分かってる。√0に命じられて来たんだろ、ワタシを探せと。
 このトイボックスで何が起きているのかを聞き出せと──」

 ドロシーはあなたの強い決意を一蹴しながらも、あなたの目的を明らかにして腕を組み、近辺の机に腰を掛けた。

「ワタシが知ってることは、お前が生きたいとかいう馬鹿らしい望みに必要だろうな。
 だが真実を追っていく先で、そのうち思い知る事になる。どうせ何をやっても無駄だって。最終的には皆殺しにするしかないってな。

 その判断の助けになるなら、√0に免じて話してやってもいいぜ〜。どうする?」

「……いい、いい、それで、いいのです。ロシー、エルにぜんぶ教えてほしいのです、エルは、最後まで抗うのです。」

 √0は変わらない。そう言われても、エルは希望の光を失わなかった。どうせ死ぬだけだ、そう言われても、生きるだけ。エルは、生きるのだ。現実的ではなくても、生きるだけ。
 そのためにもドロシーの話は絶対に聞かなければならない。√0からのお告げ、我々ドールをしあわせにするため。天使は役割を果たし、そして、自分もドールとしてしあわせになるために。
 全部教えて、詩の上の役者。忘れんぼうの天使に。ぜんぶ、ぜんぶ。

 動機には相違が出たが、エルは√0の導きの通りに、ドロシーへと真実を乞うた。それはあなたがいつしか忘れ去った、擦り切れた果ての記憶。脳の片隅にさえ残っていない、思い出そうとしても思い出せない、濃霧の先にある不確定のもの。

 ──あなたに全部思い出して欲しいから。
 √0は唯一エルに接続出来るのであろうあの暗い塔で、エルに希った。
 あなたにとっては身に覚えのないことであろうが、あなたはこれからドロシーが語ることも、この学園の在り方でさえ、本来ならば全て知っていたのかもしれない。今まで与えられていた平穏は、あなたの欠陥の上に成り立っていたものなのかもしれない。

「ワタシの話を聞いたらもう後戻り出来ないぜ。途中下車不可、崖まっしぐらの爆走オムニバスに漏れ無く乗り合わせだ。

 ま、忠告なんざ要らなそうな顔してるっぽいケドぉ……ギャハハ! ……それじゃあ。ワタシの知ってることを少し話すぜ〜〜。全部話してお前に潰れられちゃあ困るからな。」

 そうしてドロシーは頭を傾け、おもむろにエルに顔を近づけた。鼻をつく粘土の香り。無機質な瞳孔が無垢なままのあなたを映す。


「まず、お前に話さなくちゃならないこと。それはトイボックスのお披露目とは何なのか……もうお前のクラスの一部には知れてるコトだが、改めて話しておく。

 ワタシたち一般ドールでは、その栄誉の舞台で何が行われているのかも明かされてこなかった。だからこの話は、知っている事が管理者にバレたら一発アウトのトップシークレットだ。忘れるなよ?」

 ドロシーはまずあなたに念を押した。物忘れの激しいあなたが、唯一先生に情報を漏らしてはならないということだけは忘れ去らないように。確実にそう告げた上で、ドロシーは続ける。

「実は、ワタシ達ドールズはその頭から爪先までが、決められた顧客の要望通りに造られたオーダーメイドのお人形だ。顧客はかつて共に過ごしたが何らかの要因で喪ってしまった『大切な人』の面影を求めて、造りもののドールズでそれらを再現しようとこのトイボックスに依頼をしてる。

 つまりこのトイボックスは、顧客のニーズに沿った“完璧な再現体”を作り出すための人体錬成工場だ。ワタシ達を求める唯一のヒトというのは、ワタシ達のオリジナルにとっての大切な人というワケ。

 ……ここで嫌な予感がするだろうが、それは概ね事実だ。

 その大切な人ってのは、十中八九この頭にある擬似記憶の存在だ。お前にもあるはずだ、暖かく幸せな記憶が。あの人のために頑張りたいと願えるような記憶が──その相手こそ、ワタシ達をこのサイクルに閉じ込めた、憎むべき張本人ッ!!!

 ドロシーは忌々しそうな濁った声で拳を握り締め、力強く近くの机を殴った。怒りは収まらず、彼女は怨念の籠った声でさらに続ける。

「奴らは何度も何度もワタシ達にこの学園での甘ったれた生活を繰り返させては、お披露目の場に引き摺り出して、希望に満ちた未来があると信じるドールズを……! 『大切な人』とは違う、望み通りの再現体にならなかったという理由だけで! すり潰し、叩き壊し、貪り食らい台無しにする!!

 お披露目の場は腐ったヒトどもの品評会ってワケだ。ワタシ達を傲慢な立場から舐め回し、吟味して、身勝手な理由で捨て去る! ワタシ達がどんな思いで奴らの元に向かっているのかも知らないで! 奴らは化け物だ。見た目だけの話じゃない……正真正銘の醜悪な怪物だ。」

 ここでドロシーは一つ溜息を吐いて、あなたを見下ろした。

「……このくだらないサイクルを終わらせる為に、√0はトイボックスを壊そうとしている。ワタシ達は化け物に望まれた偽物の存在だ、オリジナルにはどうあってもなれない。存在するだけ無意味で、無価値な命だ。
 連中に報いるには、トイボックスを壊して、この間違った命すらも捨て去るしかない。ワタシはそうしてやる──お前は違うんだろうケド。」


 ──そこまで語ると、ドロシーは漸くエルから顔を話した。さっと踵を返し、ひらひらと片手を振る。

「今はここまでだ。充分残酷なことを赤裸々に話してやったし。ギャハハ!

 もっと知りたいなら──お前自身ももっと思い出せ。ワタシの口から聞いただけじゃ実感が無いだろうし?」

 そうしてドロシーは靴音を響かせながら、合唱室の入り口へ。その扉に手を掛けながら、あなたを僅かに振り返って告げた。

今回も、『都市』を探せば辿り着けるだろ。道は√0が知らせてくれるはずだ。
 少ししたらまた話そうぜ、フェノメノン。アバヨ〜〜」

 こうして、√0を拝するドールズの密会は彼女が一方的に打ち切る形で幕を閉じる。
 防音設備が整った静かな合唱室には、エル一人が取り残されるだろう。

 無言。その言葉が似合うほど、エルは言葉が出なかった。ドロシーからきいた全て──いや、ほんの一部だろう──が、脳に反響する。そんなこと、信じたくなかった。こんなの、こんなの、苦しい。自分が信じていた虚像が、ホンモノ(現実)で、自分は、ただのドール(偶像)。信じていた存在は、我々を粉々(ふしあわせ)にするワガママなヒト。
 『都市』って、なんだろう。
 ふと頭によぎるあの夜。全てがくるしくて、天使の皮が剥がれて、ただのお人形さんにしかなれなかった。『今回も』? エルは、都市に何回訪れたのだろう。わからない。ぜんぶ、思い出せない──────
 欠陥だから。ジャンク品だから。なり損ないだから。天使としての微笑みだって、嘘なのだろうか? あぁ、もうなにも─────

 パッ。

 ……あれ、ここは? みんなは? なんで? なにを、して、い、た………?

「………わ、からない、のです」

 あれ、エルはジャンク品で、思い出せなくて、それで、ロシーに話をされて、√0と、また、会わないと、あ、れ。誰だっけ、あの、白い百合の女の子。夜、エルについて来てくれた子………。
 運が悪かった。エルのメモリーに入りきらなかった情報を詰め込もうとすれば、みんなのことを、忘れてしまった。ただただ天使は、そこに立って、一点をぼぉっと、見つめていた。そして何分経ったかわからない頃、徐に知っている道を歩いた。おへやに、もどろう。エルの、おへやに。