冷たい、冷たい手が頬に触れる。
目の前にいる、彼女。わたしの愛しい人。大好きなおねえさま。
何故、ここにいるかは分からないけれど、とっても幸せ。ただ、温度だけが無い。さらり、と頭を撫ぜられる感触も、リーリエ、と大切そうにその名を呼ぶ音色も、何もかも、擬似記憶のまま。それでも、只々に温度だけが存在しない。……嗚呼、きっとこれは夢。だって、白百合は天使様と一緒に真夜中の大冒険に出かけたのだから。こんなにも、幸せな夢が現実となることは、有り得ないのだと知ってしまったのだから。
白百合は、幸せな夢に浸る。
もう叶わない夢に、浸る。
今だけは現実だなんて忘れて、只々に幸せな夢に浸る。
残酷な事実からは、目を背けて。
ぬるま湯のような、暖かな夢へとそっと手を伸ばした。
冷たい鉄格子を掴んで、あなたは目覚めた。
眩い陽光が差し込む、ドールズの寝室。少女たちの部屋。
黒い棺に横たわるあなたは、もうとっくに施錠が解かれた棺の蓋を押し開けて、困惑に周囲を見渡すことだろう。
そんなあなたを傍らで見据えていた存在がいる。
シルバーブロンドの髪を可愛らしいリボン付きのシュシュで結い上げた、大人の女性だ。『あの人』とは違う。
彼女は──あの晩、あの円形通路で、先生と共にやってきた、ジゼル先生だ。
覚えている。記憶は確かだ。
どうして自分はここに? エルはどうなったのだろうか?
「おはよう、リーリエ。お寝坊さんね、大丈夫……? 顔色が悪いわ。」
ジゼル先生は優しくあなたに声を掛ける。そうしてその嫋やかな指先は、あなたの肌を滑り額に添えられた。体温と脈拍を測っているのだと分かる。
あなたはこれに応えるだろうか。
────夢が覚める。
手に触れたのは、冷たい鉄格子。
過ぎた欲は、身を滅ぼす。では無いけれど、きっと手を伸ばしていなければ夢が続いていたのかもしれない。その虚しさと共に、リーリエは棺の蓋を押し開けた。
「……おはようございます、あなたは、だぁれ?」
頬を滑る手に、甘えるように頬を擦り付ける。シルバーブロンドの美しい彼女に、リーリエは見覚えがあった。前の晩、エルと共にコンテナの裏から隠れ見たことを覚えていた。彼女の名は、ジゼル。覚えていることは、きっと不味い。だから、白百合は知らない振りをした。柔らかく、甘えるように。嫋やかに微笑んでみせた。
梱包された箱から身を起こす麗しい人形のように、のんびりとした時間に漸く起き出してきた“ことになっている”らしいあなたは、本来“見慣れないはず”の女性をヘテロクロミアの瞳に映し出し、模範解答を述べ立てる。
まだ微睡みに縋っていたいような、ふわふわと蕩けた声色。眠気を堪えるような様子で、しかし触れるその掌に甘えるあなたは、守られるべき幼い子供そのもの。
ジゼルはじっとそんなあなたの花も綻ぶような笑顔を見据えて、目を細めてくれた。
「私はジゼルというの。エーナクラスの先生よ、トゥリアクラスとは言語学や心理学の授業でたまにご一緒したこともあったはずよ。
今朝、朝食の席で紹介も済んでいるのだけれど、改めて。デイビッド先生が数日後にお仕事でトイボックスを離れることになったから、その間、私がオミクロンクラスのみんなの面倒を見ることになったの。
リーリエ。あなたとも、仲良く出来るととっても嬉しいわ。」
よろしくね、とジゼルはまたあなたの頬や髪を撫で下ろして、そっとその手を離していく。
「それと、オミクロンクラスに新しい子が来ることになったの。ウェンディと、グレーテルというのよ。あとでお話ししてみるといいわ。」
頬を流れる彼女の手に、微笑み返してくれた彼女に、リーリエは目を細める。
言語学、心理学。嗚呼、言われてみれば。そんな気もしてくる。彼女の流れるようなシルバーブロンドが、記憶の隅にチラついた。彼女の発したふたつの名前。どちらもあまり、聞き覚えが無かった。しかし、そのうちの一つが妙に引っかかる。
「お父様が、いなくなるの……? 寂しく、なるのね。……わたしもね、ジゼル先生と仲良く出来るととっても嬉しいの。」
デイビッドがしばらく居なくなる。その言葉を聞いて、リーリエは寂しげに目を伏せた。だが、その間は彼女が、ジゼルが居るのだという。
白百合は、嬉しげに笑った。ジゼルがいることが、至上の幸せとでも言うかのように。色違いの双眸が、ゆるり、と細められ、蜜のようなとろとろとした色が乗る。それは、"恋"をするために生まれてきたトゥリアらしいものであった。
「ウェンディ……? この前、アストレアお姉様と同じお披露目に行った子に、同じ名前がいた気がするのよ。」
気の所為、かしら。だなんて、可愛らしく首を傾げる。掲示板で見たWendyの文字列。アストレアと並んでいた文字列を、見間違えるわけが無いのだけれど。と、言うことはそのお披露目に何か問題があったのだろうか。
「ええ、そうなの。お仕事が終わったら帰ってくるはずだけれど、それまではあなたも、どうか私と仲良くしてね。
困ったことがあったらなんでも私に打ち明けて頂戴な。先生、いつでも待ってるわ。」
父と慕う存在がこの場を離れることに不安がるあなたの澄んだ横顔、震える睫毛と異色の瞳は非常にいとけなく、抱き締めて安心させたくなるような庇護感をくすぐるものであった。トゥリアとして教育された愛嬌に満ちた振る舞いは演技には到底見えず、誰もがあなたに寄り添い、尽くしたくなるようなものであろう。
ジゼルもそんなあなたの言動に違和感を覚える事はなかったらしい。安堵にとろけて頬を綻ばせる様に、彼女も安心したように表情を緩めるのだ。
「ウェンディはね……本当は昨晩お披露目に行くはずだったのだけれど、残念ながら事故があって行けなくなってしまったの。怪我をしてしまったのよ。
あなたは、この美しい肌に傷をつけてはいけないわ。そうすればいつかきっと、お披露目に選ばれるもの。」
疑念を擡げるあなたへ、ジゼルは優しくウェンディという少女がオミクロンへやってきた訳を説明してくれた。同時にドールが怪我を負うリスクを伝え、その傷ひとつない白磁の頬を撫で下ろす。
ピンクダイヤモンドの双眸が煌めいた。そこにあなたの無垢な顔が写っている。
「……さて、そろそろあなたも起きちゃいなさいな。お腹が空いているでしょう? 私が何か用意してあげるわ、身支度ができたらダイニングルームへおいでなさい。」
ひとつ息を吐いて、ジゼルは立ち上がる。あなたが自身の格好を見下ろすならば、制服に着替えたはずが、就寝時のナイトウェアに戻っている。
あの出来事は夢だったのだろうか? エルはどうなったのだろう?
あなたは様々な猜疑を募らせるかもしれないが、ともかく、再びトイボックスの平穏に身を浮ばせることになりそうだ。
冷たいような、暖かいような。悪夢のような、幸せな夢のような。ぬるま湯に揺蕩うような。夢か現か、区別のつかない曖昧な時間は過ぎ去った。
リーリエの頬を撫でた、先生の嫋やかな手。冷たい、夢の中の手とは違ったあの手。本当に、あの優しい手を持つひとが、ドールズに対して残酷なことを行っているのか。信じられないような、言われてしまえば納得してしまうような。不思議な心地がする。それでも、いくら信じられなくっても、あの夜、天使様と一緒に見た光景はきっと夢では無い。現実のものなのだ。
先生が用意してくれた食事を独り口に運ぶ。お寝坊さん、確かに、あの人の言った通り。リーリエがダイニングルームに降りた時には、もう既に誰も居なくなった後。お日様も、だいぶ高くなっていた。
丁寧に、ナイフで切り分けて、フォークを刺す。最後の一口を口に運んだリーリエは、ゆっくりとカトラリーを置いた。
それでは、ご馳走様でした。今日も一日、生命に感謝して、《たいせつな決まり》を遵守し、いつか出会うご主人様のために精進いたしましょう。決して、間違ったことをしては行けません。さすれば、大変なこととなるのですから。
ドールズは、「焼却処分」となるらしいのに、なんて馬鹿げたことなのかしら。口上のような、そのセリフを脳裏に浮かべては、リーリエはわらう。笑う、嗤う、咲う。パントリーで皿を洗って。それから、白百合は、ラウンジへと足を向けた。
この場所は、ドールズが楽に寛ぐことが出来る憩いのスペース。柔らかなソファとふかふかのクッションが無数に置かれていて、寮内では唯一暖炉があるので凍えずに済む。冬場はラウンジに皆が集まりごった返すことが多かった。
壁際には軽い読み物が収まった本棚が陳列しており、くつろぎながら退屈を潰すことも出来る。
あなたがラウンジに踏み入れると、まず視界に入ったのは暖炉に程近い柔らかそうなソファに腰掛ける、黒髪の乙女の姿だった。
彼女は美しい姿勢で足を揃えて席に座している。そして気高きアメジストの双眸に憂いを滲ませながら、膝に乗せた分厚い本を捲っているのだ。
だが、あなたがやってきたささやかな足音に気が付いたのだろう。その顔がふっ、と持ち上がり、ヴァイオレットの吊り目があなたの淑やかな花姿を捉える。
そして瞬きをするのだ。
「……ご機嫌よう。私はウェンディと申します。ラウンジにご用があったのかしら?」
彼女はどこか気遣うようなぎこちない様子で、優しげにはにかみながらあなたに問うだろう。
美しい、凛とした姿勢に、それによく似合いのアメジストの瞳。分厚い本を手に持った彼女は、リーリエの気になった彼女であった。
どこか、憂うような表情がうつくしく。そこから滲む優しさが、心地よかった。
「御機嫌よう、ウェンディお姉様。いいえ、ラウンジに用があった訳では無くって、わたしはね、あなたを探していたの。だからね、お会いできて嬉しいのよ。」
くふくふと、柔らかく笑う。真っ白な花弁のような、そんな柔らかさを感じさせることだろうか。「お姉様」だなんて、彼女はアストレアでは無いけれど、そう呼んでみる。ステップを踏むような、軽やかな足取りでウェンディの元へと足を進めた。目の前で、ぴたりと足を止める。そうして、動きを停めた白百合は、右足を後ろに下げ嫋やかに、美しく腰を折った。
「……ねぇ、ウェンディお姉様。アストレアお姉様は、さいごまで笑っていたの?」
膝を伸ばし立ったリーリエは、秘密話でもするように顔を近づけてはそう問いかける。ウェンディには、リーリエの色違いの双眸がよく見えることだろう。その目に瞬く、切実な祈るような光もまた然り。
「…………え。」
息を、呑む。
穏やかでいようと、“努めていた”ウェンディの微笑みが、そのたった一言で凍り付いた。
絶句したきり、二の句を告げない。
表情がわかりやすく強張って、その時息を忘れる。
対話のプロフェッショナルたるエーナモデルとして、あまりに情けない。体たらくな。
美しくカーテシーをしてみせた、可憐なる薄氷の乙女は。あなたはどうして、そんなにも楽園にいるような満たされた表情をして、『最期』などという言葉を使ったのだろう。
言葉だけでは、彼女の真意など分からない。お披露目で別れてしまう最後まで、と言った意味合いで問うてきたのかもしれない。
だがウェンディには、あなたの不思議な色の瞳が、声色が、そうではないと訴えているような気がしたのだ。
唇を震わせながら、ウェンディは浅く息をして、さっと目を伏せる。歪んだ顔を見られたくはなかったのだろう。
「……アストレア様は、さ、……さいご、まで、笑っていらっしゃったわ。胸いっぱい、栄光を抱えて……さいごまで、きっと、幸せで……いらしたはずよ。」
ウェンディはあなたが真相を知ることなど、知らない。
だから、何もかもを知らないであろう無垢なドールに現実を見せるわけにはいかないと、震える声で宣った。
自身の無責任な言葉が、いかに彼女の心を刺したか。良心の呵責に苛まれたか。
渦巻くヴァイオレットの瞳が、自身を蝕む毒色に濁っていた。
「そう、そうなの。……ありがとう、ウェンディお姉様。ごめんなさい、辛いことを聞いてしまったのね。アストレアお姉様が、幸せだったのなら、いいの。」
震える声の、麗かな乙女の手に白百合はその柔らかな手を寄せる。ウェンディが、逃げることが無ければ、白百合の花弁の如き柔肌が、彼女のソレに触れることだろう。
アストレアは、お披露目の前にゾッとするような、鬱くしく、空虚な笑顔を浮かべていた。心のある、世界にひとつのトイボックスドールから、大量生産された十把一絡げの人形へとなってしまうような。それは、「アストレア」というドールの個性が全て消え去るかのような。そんな心地のするものであって。リーリエは、それにどうしようもないほどの恐怖を感じていたのだ。それでも、アストレアが笑っていたのなら、リーリエにとっては幸福なこと。愛した人が、幸福であることが、リーリエにとって至上の喜びなのだ。だから、リーリエはウェンディに謝罪を捧げながらも、とっても幸せそうに笑ってみせるのだ。
「……アストレアお姉様はね、幸せになることを諦めていた気がするの。───だから、わたし、今とっても嬉しいのよ。アストレアお姉様が、幸せそうだったってことを聞いて、安心したの。教えてくれて、ありがとう。ウェンディお姉様。」
あくまでも、無邪気に笑う白百合にウェンディは何を思うだろうか。お披露目の真実を知っている。それでも、絶望していない白百合に、最愛の、憧れのひとを見殺しにした、かなしく愚かなドールは何を思うのだろうか。
全てを赦して、包み込むテヘロクロミアの瞳は、愛する人の幸福に捧げる甘やかな光に満ちていた。
腹の中で、鼓動が暴れている。
美しい女の彫像のような潔白の乙女に触れられていると、そこから罪を苛む穢れが滲むようで、ウェンディは瞳孔を痛ましく揺らした。
重ねられる謝罪と、安堵の言葉は至極穏やかで、煩悶としているウェンディの心持ちとは大きな幅たりがあるような気がしていた。同じことについて語らっているはずなのに、あなたとこちらでは深い断裂によって生まれた渓谷が隔たっているようだ。
ウェンディは浅い呼吸をして、あなたの珍しい虹彩異色と向き直った。もはや取り繕っても手遅れであろう有り様を晒して、追求しようとしない彼女の相貌をじっと見据えるのだ。
「……ねえ、リーリエさん。あなたは、お披露目で何が行われているのか、ご存知でいらしたの。
なんだか、その口ぶりを聞いていると、そんな風に思えてしまってならないの。」
彼女が知らなければ、彼女が触れていなければ、この問いは愚かな行為と繋がるだろう。それでもあなたの認識を確かめるように、ウェンディは静かな声で問うた。
白百合は、乙女の問いかけに首を傾げる。静かな問いかけに、どう答えるべきか迷ってしまう。下手に答えて、先生に聞かれてしまっては、大変。危うい橋は渡る訳には行かないのだ。
アクアマリンと、ペリドットの双眸が乙女のアメジストを覗く。浅い呼吸を繰り返す乙女の手を離すことなく、白百合は深く、深く息を吸った。
「……お披露目では、ドールズがトイボックスから居なくなる。ただ、それだけでなのでは無いの?
かつてのジャンヌ・ダルクのように、称えられ、そして、居なくなる。そうでは、無いの?」
ジャンヌ・ダルクは、かつて称えられた。民衆から、称えられ、聖女とまで呼ばれた。しかし、それは全て彼女が死してからのこと。彼女は、最期、火に焼かれたのだ。ミシェラは、「焼却処分」をされたのだと言う。称えられ、大切にされる為に、お披露目へと行ったと言うのに、待っていたのは熱い熱い、炎。
ジャンヌ・ダルク、彼女とは少し違うけれども、リーリエには、潤沢なお話の知識は無い。何せ、目の前のエーナドールとは違うのだから。
ジャンヌ・ダルク。
それは、清らかなる聖女であり、同時に心を病んだ魔女を表す名だ。彼女が辿った陥穽だらけの人生、そしてあの凄惨な末路を知らぬ者は少なくないであろう。
お披露目に心酔し、憧れているドールが例えに出す人物名ではない。
そして何より、ジャンクドールが辿る最期は、決まって火炙り──あの英雄と同じだ。
示唆的な答えに、ウェンディは瞳を震わせて、──この子は全て知っているんだ、と悟る。にも関わらず、この穏やかな微笑と、纏う静けさは何なのだろう。
演技にしてはやけに馴染みすぎている。
さいごまで。幸せで、安心した。
あの事実を知っていて、尚?
「…………」
ウェンディは口元を覆った。それは不自然に青ざめた顔を咄嗟に隠すための動作だった。
この美しすぎる潔白のドールが、ひどく不気味に思えてしまったのだ。取り繕うことすら、忘れてしまうほどに。
「……ええ、そうよ。おかしなことを聞いてしまって、ごめんなさい。
私に聞きたいことは、それだけ?」
ウェンディは少しすると手を下ろして、ぎこちない笑顔をまた浮かべる。あなたの問いをまた訊ねる気概はあるようだ。しかし、話を長引かせたくはなさそうに見える。
青ざめた、乙女を白百合は心配そうに覗き込む。───嗚呼、間違った。そう思って、白百合は瞼を伏せた。濃い、後悔の色が、その指先、その睫毛、その視線に乗る。こんなことをするつもりは無かった。本当は、本当は、ただ、アストレアのことが心配だっただけなのに。ただ、あの美しいドールのことを知りたかっただけなのに。
「ごめんなさい。」
そう、音も無く、小さく口が動いた。貴女を傷つけるつもりはなかったの。仲良くしたかったの。アストレアのことを、聞きたかったの。様々なものが籠った、贖罪。その音無き一言は、果てしない程に重かった。
「いいえ、ありがとう。もう無いの。お話してくれて、嬉しかったのよ、ウェンディお姉様。───そして、本当に、ごめんなさい。お姉様にとっても、辛いはずのことを話させてしまったの。許してくれなくってもいいの。だから、お姉様が苦しむことがありませんように。あなたの道に、光がありますよう。」
少し寂しげにリーリエは、聖母マリアと、大天使ガブリエルの象徴を名に持つ少女は、笑う。
ウェンディが引き止めないのなら、リーリエはラウンジの扉を開き、去っていくことだろう。
なんとも言えない、不思議な気分だった。
変わらない日常、愛しい仲間たち。ただ、ほんの少しだけ。小さなパズルのピースが抜け落ちた。ただ、それだけの差異がある。それだけ。けれども、その一欠片のピースは存外大きく、ざわり、と心が波打つのだ。所詮、無機物であると言うのに、所詮、人形であると言うのに、心が騒めくのだ。
白百合が、手にかけたそれは、人類のことが記されている部屋の扉の取手。問題なく開くのであれば、迷わずそこに立ち入るのであろう。
この部屋は、人間の歴史を出来る限り保管し、ドールズがヒトと接する指標と出来るようにと用意された一室だ。文化資料室と名を冠する通り、人間のさまざまな歴史や文化が資料、あるいはレプリカなどの形で保管されている。
部屋の中央には年季の入った黄金色の地球儀が置かれており、各地にどのような国があるか、どのような人種のヒトがいるのか実際に学べるようになっている。
地球儀を中心に据え、その周囲にはヒトが住まう街を模したジオラマや展示されていたり、模型の汽車が煙を上げてガラスケースの中で動き回っていたり、天井からモビールのように吊された飛行機や気球がクルクル円を描いていたり……とにかく豊富な展示品があり、眺めていて飽きない内装となっている。
また部屋の奥には無数のファイルが収められた棚があり、こちらには数多の史料が保管されているようだった。
かちゃり。
扉の閉まる音がした。その音を聞いた白百合は、部屋の内部を見渡す。一番に目に映るのは、やはり、少しくすみ、年季を感じさせる黄金の地球儀だろうか。部屋の中心に置かれてているからか、それとも、目を引くその色合いのせいか。
クルクルと円を描く飛行機や、気球を目にしながらも、リーリエは地球儀へと近寄る。リーリエは、未だ、あの夜にあったことを現実であるとは実感しきれてはいなかった。起きた時の状況が、己の記憶が、それが確かに現実であるのだ、と物語っている。それでも、穏やかなこのトイボックスには似つかわしくないそれらに実感がわかなかった。
外の世界は、どのような希望に満ち溢れているのだろうか。
幾度となく問いかけた問を、静かに胸の内で呟きながら、リーリエは黄金の地球儀に触れた。
地球儀を回しながら、その構造を眺めて、以前この部屋で受けた授業内容を思い出す。
現在、あなた方ドールやヒトが住まう母星である地球は、その陸地面積が全体の16%ほどであることをあなたは知っている。
大気構成は窒素(N2)78.4%、酸素が15.6%、アルゴン(Ar)が0.93%、二酸化炭素が4.7%、水蒸気その他が約1%。
ヒトが生命維持を行うにはやや困難な環境になりつつある……という事実を、あなたは先生から聞かされている。無論ヒトはこの状況を改善するために開発を進めており、ドールズの役目はそんなヒトに寄り添う崇高なる使命であるとも。
くるり、くるり。
地球儀が回る。陸地面積の割合が、水に対してだいぶ小さいことが思い出された。このように、ちいさい、ちいさい場所に自分たちドールも、ご主人様たちも、身を寄せあって過ごしているのか。そう思った覚えがある。
まぁ、そんなもの、全てまやかしだったのだけれども。
けれども、ドールがあるからには造り手がいる。何も無いところからモノは発生しないのだから。
それだったら、それだったら、本当に、ヒトがいるのなら、素晴らしく生きにくいことだろう。大気構成を思い出し、リーリエはまだ見ぬヒトへ思いを馳せた。
白百合は、黄金の地球儀から手を離す。そして、模型型の汽車へと目を移した。───既視感が、ある。不思議な気分がする。リーリエは、惹き込まれるかのようにそれの収まっているガラスケースへと手を伸ばした。
資料室の一角、ガラスケースに覆われたジオラマの街を横断するように敷かれた線路の上を、蒸気機関車の小さな模型が邁進している。機関車の煙突部分からは少量の煙が燻っているが、実際の煙と違い、ディスプレイの中でこもることはなくすぐ空気中に溶け合って霧散していく。
この汽車は、かつてヒトがメジャーな乗り物として使用していた装置らしい。
この部屋はヒトがどのような生活を日々送っているのかを、詳細にドールズに教育するために存在していた。
あなたは汽車が蒸気をふかして車輪を回し、進み行く様をぼんやりと眺めるだろう。不思議とそれに気を取られたあなたは、脳裏に何かが引っ掛かるような感慨を覚えていた。
『────』
その時、あなたの背中に、後ろ髪を引くようなささやかで優しい声が届いた。それはあなたの名を呼ぶ声だった。
あなたはほとんど反射的に、声に応じて振り返るだろう。
その時側頭部を走り抜けたのは、鈍い痛みである。痺れるような微かな痛苦と共に、あなたは平衡感覚を失って少しふらつく。ジオラマのガラスケースを拠り所に触れたところで、伏せた瞼の裏に忘れていた景色が蘇った──……。
「………ゆ、め?」
美しい森林に、がたん、ごとん、と揺れる列車。愛しい姉に、その姉が愛した美しい男。やけに、鮮明で、脳に焼き付いている記憶はきっと、疑似記憶の一部。でも、でも、それにしてはやけに残酷で、痛くって、苦しいような、そんな気がする記憶だった。幸せであることには、間違いがないけれど、あんな幕引きは、あんな苦しくなるような幕引きは、今まで有り得なかった。
愛しい姉が、銀色の彼女が、あの後どうなったか。それは、想像に容易い。きっと、リーリエを庇った柔らかな細腕は、無惨な姿になったことだろう。あの衝撃の中で、無事でいたとは到底思えない。
ジオラマケースを指でなぞりながら、リーリエは考える。今まで一度も見たことの無い白昼夢。今まで一度も無かった苦しい幕引き。己と、姉の記憶について。
劈くような金属音。そして、そのあとの大衝撃。驚いて、気が付きはしなかったけれど、きっと、あれはとっても痛かった。きっと、この脆い脆い身体ではすぐに傷がついてしまうくらいの大衝撃であったはず。なのに、夢の中のリーリエには、傷一つ付いた様子は無かった。これは、ただの記憶の中だから、かもしれないけれど。疑問に思って、仕方が無かった。"疑似記憶"とは、一体、何なのか。それが、気になって仕方が無かった。
リーリエは、思考を落ち着けるように忙しなく歩き出す。資料棚の方へと目を向け、何を探すでもなく、目を走らせることだろう。
人間が辿った様々な歴史が懇切丁寧に記録され、ファイリングされている。その資料の数は何とも膨大で、いかに勉強熱心なドールといえども全てに目を通し内容を覚え切ることは難しいと言える量だった。
人類、ホモ・サピエンスの進化の軌跡、文明や宗教の芽生え、戦争と奪い合いの歴史、目覚ましい発展の道筋──そして、多様な文化についても。
あなた方は、中世の時代において流行した美しい鑑賞ドールを元に設計されている。故に誰もがはっと息を呑むほどに美しく、輝かしく見えるのだ。
また、こちらに残された最新の記録は、『西暦2240年』、『新種の青い花が発見された』……──という記述で最後である。
資料棚に変わりは無い。
人類の進化の軌跡、文明、宗教について。血腥い、戦争について。ドールズが作られるにあたって、人類がどのような道筋を辿ってきたのかが、膨大な量の資料として収められていた。
リーリエは、この膨大な量の、数多の資料を全て覚えている訳では無い。デュオドールでさえ、きっと覚えきった人は居ない、そう思っている。嗚呼、いや、でも、ソフィアなら、あのドールなら、もしかしたら、と思わない訳では無いが。
リーリエは、最新の記録が書かれたファイルをそっと手に取る。西暦、2240年。新種の青い花が発見された。その一文で、記録は止まっている。白百合は、手持ち無沙汰に、ぱらぱらとファイルを捲った。
2240年の記述は、『新種の青い花が発見された』という簡素な一文のみで終わっている。
それより前年には、環境問題の悪化やそれに適応する設備の開発を適宜行なっているというような記述が散見された。しかし特段目を惹くような表立った出来事は記載されていない。
ファイルからわかることはこれくらいだろうか。
ファイルには、特に心惹かれる記述は無かった。人類は、環境問題に苦しんでいたのであろうことだけがよく分かる記述ばかり。他に、収穫は無さそうであった。
リーリエは、ゆっくりとファイルを棚へ戻す。もう一度、汽車の入っているガラスケースをそっと撫でた。そして、静かに口付ける。大切なモノを扱うような、愛しいモノに触れるような、そんな、柔らかな口付けを落とした。
くるり、部屋を見渡す。ひらひらと揺れる飛行機や気球。ひとつ微笑んで、カーテシーを披露した。大切な、愛する人への記憶を思い出したことへの感謝を込めて。何も無いのならば、白百合は文化資料室の扉に手をかけ、外へと足を踏み出すことだろう。