アストレアは帰ってこなかった─────
我ながら浅はかな考えをしてしまったとストームは自己疑心に陥る。そんなに都合よく事が進むのならストームはとっくに欲望を叶えているだろう。
やはりガラクタなんだと。芸術家は自身の欲望を放出するだけのただの愚図だと戒めた。
もっと“ジブン”を疑え。お前はいつも間違うのだから。
最悪のケースは常に頭に入れ、最善を尽くせ。どこかの国の首相が似たような事を言っていたと本で読んたことあった。仕切り直しが必要だ。ストームは足早に図書室へ向かっていた。
床を鳴らす革靴の音が嫌に大きく聞こえる廊下。ストームにはその音が全く入っていなかった。
“当該ドールの欠陥部位の修復は『監視者』に一任するものとする。”
資料に書かれていた文を一語一句思い出す。
ディビッド先生はこれからクラスを空ける。代わりの先生。彼女は帰らない。
いつもとは違う悲しき宴の翌朝だった。
「……My dear bestie。また逢える日を」
彼女の口調を真似る祈りの言葉。ストームは余りにも無力だったらしい。この期に及んで祈る事しか出来ないなんて。不誠実で気まぐれな反信者の声を聞き入れておくれ。
彼の声は空気に消えていった。
ストームがいつものように図書室へ入ると何やら先客が居た。新しいクラスメイトと紹介された赤髪の可愛らしい少女グレーテルだった。
ストームは迷わず彼女に話しかけるだろう。
「お初にお目にかかります」と。いつもと変わらぬ紳士的に。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
そんな図書室の奥で、困ったような相貌で溜息をひとつ吐いている憂い顔の少女は立ち尽くしている。手持ち無沙汰な片手に手近な分厚い書物を取ったところで、やってきた存在に気が付いたのだろう。
くるりと振り返り、編み込んだ赤毛が柔らかく揺れる。そのラズベリージャムを塗りたくった双眸に、異色の紳士の姿を捉えると、グレーテルははたと瞬きをして慌てて一礼をして見せた。
「こちらこそ……初めまして。わたしはグレーテル。あなたは……テーセラクラスの元プリマドール……だよね?
お名前はストームさん。図書室に用だった……?」
彼女は一冊の本を抱え込んだまま、ゆるりと首を傾ける。あなたの正体について問い返す言葉がないあたり、自分の記憶を信じて疑っていない様子だった。
焼きたてのパンの上の主役となるであろうラズベリーを瞳に携えた少女はパッとしない表情をしている。ストームは笑みになっていない笑みで彼女を歓迎するだろう。ちぐはぐの双眸は光を透過し奥に沈めている。
「えぇご名答です。流石はデュオモデルですね。
用、と言うよりこの場所を気に入っておりまして。何かとあればすぐに来てしまうんですよ。
かく言う貴方様は何かをお探しで? 重たいでしょう。お手伝い致しましょうか?」
ストームはグレーテルに一歩近づくと手を差し伸べた。彼女の細腕では負担が大きそうな分厚い書物。きっとデュオドールだから知識欲に飢えているのだろう。慣れない環境で欲を満たそうとするのはごく自然な事だ。彼女もクラスメイトなのだから手助けしてならねば。
オミクロンクラスの騎士たる彼が彼女を手伝わない選択肢なんて持ち合わせていなかった。
グレーテルはあなたの何処か後ろ暗い歓待を、微笑みで受け止めた。警戒も、怯えも感じさせない、至ってフレンドリーな反応であった。
あなたの親切な物腰に感激している様子で、にこにこと眼を細めている。
「わたしは……ただ興味深い本があって、勉強していたの。わたし、デュオモデルだから……面白そうな分野には目が無くて。
でも確かに、そろそろ片付けないと他に図書室を使う人がいたら迷惑……かな。……手伝ってくれるの?」
親切だね、と彼女はあなたに深く感謝しつつ、そっと持っていた本を差し出された手に載せるだろう。ずし、とかなり難しい内容が印字されているであろう、分厚い専門書の重みがその手に伝わるはずだ。
どうやら彼女は机の一帯に無数の本をかき集めて、山を作っていたらしい。その内容を確認するならば、とりわけ哲学書や、人類学、心理学といったものが多い傾向にあるように思える。あなたの手に乗せられたものもまた、『死に至る病』と題が寄せられた哲学書のようだった。
あなたはそんな本の山に紛れるように、一つ輝くペンダントのようなものを見つけるだろう。
友好的なグレーテルの笑みをストームはぼんやりと見た。オミクロンに来たからと言って彼女から滲み出るほどの後ろめたさや劣等感は感じない。繕ってるだけかもしれないが、それでも彼女は穏やかだとストームは感じた。
お任せ下さい、と一言返し彼女から本を受け取る。デュオモデルは一度知識を求めると机に本の森を作ってしまうらしい。主に心理学、人類学。ストームも大変興味をそそられるものであった。目を通したことのあるものから全く知らないものまで掻き集めた様子を見れば、如何にグレーテルが勉強熱心なのかが分かる。ストームは受け取った本を机に置き読んだことのあるものはジャンル別に分けていく。
その中に色彩を持って輝くものがストームの目に飛び込んできた。本自体の彩度は低い。ヒトを忠実に再現している設計であるために光に敏感なのは仕方の無い事だった。一度目に入った輝きは一気にストームの思考を固定させるのには適している。ストームは自身につけられたスカーフを解き輝くペンダントらしきを包む。
「グレーテル、なにか落としましたか?」
「ありがとう。」
『死に至る病』をあなたに預けたグレーテルは、にっこり笑って謝意を述べた。真っ赤なベリーを埋めた眼窩が蕩けている。
あなたの親切に甘えることにしたらしいグレーテルは、そのまま散らかしていた本を何冊か束ね、記憶を頼りに元の場所へ陳列し始める。この図書室は書物のジャンルごとに区分けされているため、指先で背表紙をなぞり戻す位置を確認しているグレーテルは、あなたに背を向けた状態だ。
何かを落としたか問われると、グレーテルは「んん……?」と不思議そうに首を傾げる。
「なにかって?」
……包まれたそのペンダントは古びて錆び付いたチェーンで繋がれており、ペンダントトップの部分はロケットになっていた。
ロケットの部分は開くようにもなっているのだが、ひしゃげて開きそうもない。そしてペンダントの表面には『H.schreiber』と潰れかかった刻印がなされている。
背中越しに返事するグレーテルに近付いてゆく。再度凝視した。随分所持者に愛用され長年連れ添ったのだろう。錆びたチェーンや開きそうもないロケットに書かれた文字が思い出深さを物語る。
ストームは磨り減って潰れかかる刻印を一文字一文字読み取る。H,s,c,h……
持ち主は……シュライバー?
見覚えも聞き覚えもない名前。本当にグレーテルの物だろうか。元クラスメイトから貰った可能性も拭いきれない。だとしたら彼女にとって大切な宝物だろう。小さなロケット宇宙へ飛び出さぬように迷ってしまわぬようにしっかり手のひらに収め彼女に見せた。
「素敵なペンダントが落ちていまして、貴方様の物ですか?」
《Rosetta》
「こんにちは、グレーテル。ストームに意地悪されてない?」
麗らかな日差しを受けて、現れた花は笑う。
図書室にやって来たのは偶然で、彼らの声を聞いたのも偶然だった。
もしかしたら親睦を深めているのかもしれない──なんて呑気に考えて、ロゼットは後ろから声をかけたのだ。
「驚いてしまったなら、ごめんね。私はトゥリアモデルのロゼット。グレーテルにそっくりなドールと話したことがあって、気になってたんだ」
あの子が髪を伸ばしたのかと思ったよ、なんて。
あくまで好意的に振る舞いながら、青髪のプリマに視線を向ける。
どうやら本を探していることまでは読み取れなかったようだが、ペンダントを拾ったことには気がついたようだ。
テーセラの手元を覗き込むと、「あっ」と声を上げた。
「それ、ヘンゼルのじゃない? この前拾ってあげたんだ。大事なモノだって言ってたけど……今は交換でもしてるの?」
一度手に持っていた本を全て本棚に納め直したグレーテルは、分厚く編み込まれたバーガンディの髪を揺らしてそちらへ向き直る。
そこで彼女は漸く、ストームの手に収められた古びたロケットペンダントの存在に気が付いた。時の流れを感じさせる実に趣ある装飾品を見て、グレーテルは暫し硬直した。
「……────」
視線はペンダントに釘付けのまま。
グレーテルは浅い呼吸であなたの手元を凝視している。
不自然な沈黙がストームとグレーテルの間を隔てる薄い幕となって降り始めたころ──
その背に投げかけられたのんびりとした少女の声に、グレーテルはびくりと肩を跳ねさせた。
「ヘンゼル……わたしの、可哀想な弟……う、ううう。」
ロゼットの何気ない言葉から漏れた、彼女の双子の弟の名を聞いて、グレーテルは小さく呻いた。苦いものを飲み込むような顔で、穏やかな表情を僅かに強張らせて。
かと思えば彼女は、ストームの手からひったくるような乱暴さで、そのペンダントを強引に奪い取るだろう。大切に両手で抱え込んでは、少しだけ肩で息をして、へにゃりと引き攣った笑みを浮かべる。
「そう……ヘンゼルはわたしの弟のなんだから……ずっとずっと……。
………………」
自己暗示らしき不明瞭な譫言を経て、グレーテルは瞬きをして、数秒後漸く顔を上げる。
その瞳にはまた先程までのような明るいものが差していた。
「ご……ごめんなさい、取り乱しちゃって。ストームさん、拾ってくれてありがとう……うん、これはヘンゼルの凄く大切なものなの。
今はわたしが……預かってる。えへ、へ……」
グレーテルは調子を取り戻したようで、にこにこと微笑んだ。そうしてペンダントは彼女の懐に仕舞われるだろう。「こんにちは、ロゼットさん。わたしグレーテルっていうの、よろしくね」と、以降はまた新たにやってきたロゼットに自己紹介をしてみせた。
図書室に赤色の花一輪のみだと思っていれば薔薇の花がパッと姿を表す。薔薇は小言を言いながらストームらに近付いて来た。
「ロゼットは手厳しいなぁ」
雑談程度にかけられた声にストームはそう返した。意地悪だなんて人聞きの悪い。彼はただほんの数ミリの善意と彼の身体を縛り付ける使命感で動いただけなのに。酷い言い様だ。
ロゼットが覗き込むペンダントをグレーテルも覗き込むと彼女は剥製になった。ラズベリーは一点に固定され時が止まったよう。余りに静まり返るものだから耳鳴りすら聞こえてきそうだ。
グレーテルはロゼットの心地よいアルトボイスにビクリと体を反応させ震える声で小さく喚く。訳が分かるわけがなくストームは眉を下げ彼女の顔を覗き込む。あぁなんて、可哀想な顔。
そう思った時にはグレーテルの小さな手がストームの手からペンダントをひったくっていた。先程まで手にあった可能性への切符はもう無くなっている。ストームはようやく意識を確かにさせると3回ほど瞬いてロゼットの方を見るだろう。グレーテルの様子が挙動が変だから。今の気付いたか? と。引き攣った笑みはストームのそれよりも下手くそだった。ストームは見逃さない。
「そう、ですか。無くさずに済んで良かったです」
ストームはグレーテルに目線を戻すと胸に手を当て丁寧な所作でお辞儀した。そして背中では自身に近いロゼットの服を軽く引っ張り目配せする。ヘンゼルを知らないストームには彼女の言葉の真偽を判断しかねないから、ヘンゼルを知るロゼットが彼女にどんな言葉をかけるか様子を伺うようだ。
《Rosetta》
何か悪いことをしてしまっただろうか。
突然しおらしくなるグレーテルと、変わりないストームを、ロゼットは何度か見比べた。
当然だが、答えなど出るはずもない。プリマでさえ困惑しているのだから、ただのドールに理解できる道理はないのだ。
「厳しくないよ。ほんとのことだもの」
とりあえず。ストームにそう返事をして、瞬きを返した。
──わたしもわからない。あれ、なに?
無言の困惑が、睫毛の震えを生み出した。銀の眼は相手の感情を掴みかねて、ただ本の群れを写すだけだ。
「ねえ、グレーテル。ヘンゼルはそれをなくしちゃいけないモノだって言ってたよ。“おねえちゃん”なんだったら、返してあげた方がいいんじゃないかな」
対応策が見つからない以上、ロゼットはいつも通りに対応できない。
だから、恐らく持ち主が望むであろうことを口にするしかできなかった。
「それとも……ヘンゼルには、何か持っていられない事情があるのかな。ロケットの中身が、関係してたりする?」
ストームを後ろに立たせたまま、無感動に彼女は問いかけるだろう。
グレーテルは今しがたペンダントを仕舞い込んだばかりの制服のポケットに、手を置いたまま。まるでそれに縋るように、──どこか、それを守るように? ポケットを抑える手を離す事はなかった。
どうやら強引な自己紹介で、先程の異様な空気感は拭えなかったらしい。それも当然である。
こちらを不審がるように、ペンダントの本来の所有者について詰問するロゼットの言葉は鋭いが、至って真っ当である。グレーテルはなんとも言えない表情で目を伏せていたが、やがて顔を上げて、またにこにこと友好的な笑顔をあなたに向けるだろう。
「うん、そうなの。事情があるの。わたしはヘンゼルの“おねえちゃん”だから、ヘンゼルの為になることは全部分かってる。
ヘンゼルにとってこのペンダントは凄く大事なものだけど、今は必要ないからわたしが大切に預かってる。それだけだよ。」
それ以上に理由が必要? と言いたげな様子で、グレーテルは首を傾けた。その言葉にも、態度にも、一切あなたへの棘は見られない。だがどこか、“他人様の家庭の事情にこれ以上踏み込むな”と言ったような、分厚い壁を感じる。
どうやらそれ以上に語るつもりもなさそうだ。彼女からペンダントについて詳しいことを聞き出すならば、別のアプローチが必要かもしれない。
「……あ、大変! わたし、デイビッド先生に呼ばれてたんだった。お話楽しかった、ストームさん、手伝ってくれてありがとう!
また仲良くしてね……絶対、約束だよ?」
そこで、彼女は図書室に取り付けられた時計をちらりと見上げて、思い出したようにパッと明るい声を上げた。赤い制服の裾を翻しながらあなた方に手を振って、階下へ続く階段を駆け降りていく。やがてその弾む赤毛は、あなた方の視界から消え失せるだろう。
ストームはヘンゼルとグレーテルについて何も知らなかった。なのでロゼットの後ろに従え二人の会話を傍観することに勤めていた。想定よりも鋭いロゼットの言葉にストームは目を丸くするがご最もな問いかけだった。すぐには帰ってこない答えになにか違和感を感じて仕方がない。
ストームは本能的にロゼットの前に躍り出る。彼女を背後にグレーテルの反応を待った。
妙な一瞬の緊張。
上げられたグレーテルの表情はにこやかだった。そしてストームらを一切介入させぬような壁を隔てる。一見姉弟間の秘密とも感じ取れる言葉だがそこには異常な依存が感じ取れた。そしてチラリと自身らの瞳から目を逸らしたグレーテルは別れの言葉を告げて去ってしまった。
「えぇ……分かりました」
静かなお辞儀をしてストームはグレーテルを見送る。完全に彼女の姿が見えなくなるその瞬間まで。彼女の消え去った背中の残影を見詰める。
「涙が出る姉弟愛ですね。姉としての責務を全うしようと努めてるとは」
ストームの瞳は酷く乾いていた。抑揚の一切無い声色。手に収められたスカーフをパサリと広げ、自身の首に巻き直す。服装を整えるとロゼットの方へ向き直るだろう。
「さてその姉弟愛は果たしてホンモノなのでしょうか? 素晴らしい愛のカタチを知る為にはジブン達は彼らを知らな過ぎる。そう思いませんか?
そこでねロゼット。役割分担しませんか?
ジブンはグレーテルを。貴方様はヘンゼルを調べる。そして共に美しい姉弟愛を見届ける。いかがですか?」
ストームは首を傾げる。愛を追おう。そう提案しているのだ。敬愛するディアのように。暗闇のかかったちぐはぐの瞳はぐるぐると竜巻を渦巻いている。
《Rosetta》
グレーテルが軽やかに立ち去った後、ロゼットはぼんやりといなくなった方を見つめていた。
ヘンゼルとグレーテルが“きょうだい”ならば、グレーテルの苗字もシュライバーなのだろうか──なんて、どうでもいいことを考えながら。
「ね、私もびっくりしちゃった。言葉は強かったけど、ヘンゼルの方がまだちゃんとお話してくれたよ」
姉のように、拾ったペンダントをひったくる青年ドールを思い出す。
ふたりとも、あまり話をするのが得意ではないのだろうか。デュオのドールたちは利発だが、どうにも考えが先走っているように見える。
「そうだね。これから一緒に過ごす相手だし、調べて損はしないもの。どんな子たちなのか調べよっか、ストーム」
嵐に巻き込まれていることにも気付かぬまま、ロゼットは微笑んだ。
あくまでこれは善意で、好奇心故の行動だと信じているのだ。
だってグレーテルはまだオミクロンに来たばかりで、自分たちは相手について知らなさすぎるのだから。
「じゃあ、私は他の子と一緒にヘンゼルのところに行ってみるよ。ひとりだとあんまり上手く話せないからね。ストームは……グレーテルになんて話すの?」
ロゼットのの柔らかくも無機質な微笑みを捉える。トゥリアらしい包み込む笑みであるがどこか機械的な彼女の魅力にストームは柔らかく眉を下げた。まだ手の内には出来ていない芸術品の輝かしい姿に喜びを感じたのだろう。つられて表情が緩くなる。
「そうですね……。お恥ずかしい話、ジブンも話は得意では無いので直接彼女に問う時は他の方に同行して頂こうかと考えております。なので初めは彼女の言動を観察しようかと、追跡調査というやつです」
違う。追跡調査という名目を借りたストーキングな訳だ。ディビッド先生に用があると退出したグレーテルを追うつもりだろう。それに彼女がどのような経緯を経てオミクロンに落ちたのかも気になるところだ。ジゼル先生が教えてくれるでしょうか。と呟く。
《Rosetta》
ストームの顔立ちは可愛らしいモノだ。口元を緩めれば、それだけではにかんでいるようにさえ見えた。
だから、その言動の真意にも気づかなかったらしい。「いいね」なんてのんびり口にして、ロゼットは頷いた。
「明るい子ではあるみたいだけど、ちょっと心配なところもあるし……ジゼル先生と話す機会にもなるよね。ちょっとしたら、また話そうか。他にも話したいことができるかもしれないからね」
今から出て行くデイビッドに用とは何か、何故ヘンゼルのペンダントを持っているのか。
優秀なストームのことだ、きっとヒントぐらいは得てくれるだろう。
「お互い頑張ろうね」なんて口にして、ロゼットは先に部屋を出て行こうとするだろう。
彼も今すぐ追いかけなければ、見失ってしまうかもしれないのだから。
「ロゼット、くれぐれもお気を付けて」
頑張ろう、だなんて口にされるとストームはすぐにトゥリアであるロゼットの身を案じることだろう。彼女は無痛症であり、自身の身体が破損しようと気付かないかもと思わせるような鈍感さも持ち合わせている。オミクロンクラスのドールに今以上の欠損は廃棄を意味するから。仲間をまた一人失った今、これ以上の犠牲は払っては居られない。ストームの語彙は強いだろう。それが、善意なのか彼の狂気的な欲望かは誰にも分からない……。
さて、グレーテルの後を追うことにしなければ。
ディビッド先生との話と言うのも気になるところだ。ロゼットが図書室を後にするのに続けてストームは足早に図書室を出ていくことだろう。
木苺を求めて───────
猟奇犯は息を潜めた。正しく獣が獲物を仕留めるその寸前かのように。ラズベリーを探す。酸味を多く含んだほんのり苦いラズベリーを。彼女はディビッド先生に用があると出ていったはずだ。だとしたら書斎かエントランスルームだろうか。本当の話なのだとしたらストームの背なんかより大きなココア色の髪色がすぐに目に入るはずだ。
彼と何の話をするのだろうか。
新しい友人、新しい芸術品になり得る貴方様。
貴方様はどんな味なのだろう。
赤い尻尾を持つ小さな蜥蜴を、あなたは静かに追尾する。テーセラモデルとして訓練された身のこなしは、鮮やかな隠密活動に打って付けであった。流石は優れた身体能力を有する元テーセラプリマと言ったところか。
階段を降りる最中、グレーテルはまさか、あなたが追ってきているなど気付きもしないだろう。
彼女は二階に降り立つと、自身のポケットから再びあのペンダントを取り出した。小さな掌には余るような、少し大きめの首飾り。古びてチェーンは切れてしまい、まともに身に付ける事も叶わないそれを、グレーテルは憂うような眼差しで見つめている。
どこか哀しげで、どこか憤るような複雑な表情だ。この感情を言葉で表しきるのはとても難しい。
しかし彼女はペンダントを仕舞い直し、その目線を先生の部屋へ続く扉に向けた。
彼女はまっすぐそちらへ向かい、先ほどペンダントを持ち上げていた細い手で握り拳を作ると、静かで丁重なノック音を響かせた。
「……デイビッド先生。わたしです、グレーテルです。」
「──ああ、グレーテルか。よく来たね。」
どうやら彼女が言った先生の元に向かうという言葉は、あの場を離れるための咄嗟の口実では無かったらしい。
彼女が声を掛ければ、すぐに扉は開かれ、見慣れた父の姿が現れた。彼はココアブラウンの甘い色をした頬を和らげ、首を傾ける。
「それで、どうかな。ここでの暮らしは上手くいきそうかい?」
「わ……わかり、ません。馴染めるかどうかも。わたしは……愚図だから、き、きっと何もできないし……それでも一生懸命、やらないと……わ、わたし、ヘンゼルの所に戻りたいんです。」
「そうだね。早く彼の元へ戻るためにも、“日々のお勉強”を頑張らないといけないね。だが今朝の様子を見るに、なかなか上手くいきそうだったじゃないか。君はなんとか上手に笑えているよ、グレーテル。」
「…………うん……」
グレーテルは、テーセラモデルのあなたでないと聞き取れないようなか細い声で、不安げに呟く。顔色は俯いていて窺えないが、少なくとも先程のような快活な笑みは浮かべていないだろうと確信出来る。
「デイビッド、先生……わ、わたしから言えることはこれくらいです。……あ、それと……ストームさんは図書室にいました。きっとまだ上にいると思います。」
「そう、ありがとうグレーテル。もう行って構わないよ。」
グレーテルは解放の旨を告げられると、深く息を吐いて逃げるように階下へと走り去っていった。蜥蜴の尻尾は慌ただしく跳ねて、主人に従う。
──さて。
デイビッドの目線は上階へ向かう。グレーテルを追跡していたあなたが覗き込んでいるであろう、吹き抜けを介して。
「ストーム、そこに居るんだね。こちらへおいで。」
──デイビッドは優しく微笑んでいる。
グレーテルを追跡するのは案外簡単だった。テーセラドールとしての能力を最大限に引き出し、コアの音ですら押し殺す。全く気づくの様子すらないグレーテルが足を止めたのでストームは慎重に彼女の顔が見える所まで近付き、優れた視力を遺憾なく発揮した。
彼女はストームの手から奪い去るように取り戻したあの錆びれたロケットのペンダントを見ている。もの哀しげと言うには目付きがキツく、怒りを覚えていると言うには寂しげな目をしている。ストームにはその表情の意図は読み取ることが出来なかった。ただグレーテルは複雑な感情を抱えていることと言う記号的な意味でしか読み取れなかったのだ。
しばらくするとペンダントを眺めていた彼女は大切に大切に宝物をしまい先生の部屋へと進んで行った。本当に呼び出しされていたようだ。ピリ、と弱い電流が頭に走る緊張がストームの体にのしかかる。神経を研ぎ澄ませ彼らの会話にまで感覚を広げて根付かせた。
ストームは訝しんで首を傾げた。先程までの彼女の当たり障りの無い滑るような踊るような声色は何処へやら。ディビッド先生と会話する彼女の声は小さく弱々しかった。
ストームは落胆する事だろう。彼なりに最善を尽くし優しく接したつもりだったが、無理をさせてしまったと。
気を取り直し続く会話に耳を傾ける。
すると自身の名前がグレーテルの口から語られた。ストームは目を見開く。喉で呼吸が遮断され鼓動のテンポが早くなる。バチンッ、脳を縛る電流の緊張がストームの身を縛る事だろう。が、この後程じゃないことを後にストームは悟る。
ディビッド先生の言葉によりグレーテルは開放された小動物のように逃げおうせた。ストームも妙な緊張で上手く動かない体をゆっくり動作確認するように動かす。
ここに居るのはダメだ。
本能がそう言っている。
早く図書室へ。
早く。早く……! 早く!!!!!!
なんで動かないんだよ!!!!!!!
「ひゅッ…………………………………………」
呼 ば れ た ……。
ディビッド先生の声は怖いくらいに穏やかだった。ストームは後方に跳び臨戦態勢をとる。きゅぅぅぅ、と細まった瞳孔はゆらゆらと左右に震えているだろう。恐る恐る先生の部屋の方を覗き見ると真っ赤な双眸がピッタリちぐはぐの瞳を捕らえているよでストームの頭の中は明滅する。冷や汗が背中を伝い喉元を掴まれているようで声すら出そうにない。猟奇犯は教育者の前では酷く無力であった。
ストームは震える手で自身のサイドに編み込まれた髪のゴムを引きちぎる。解かれた髪はパサリとあっという間に編み込まれた事すら忘れ自由に跳ねる。
だらりと手を下げる頃には震えは無くなっていて瞳は空虚を捉えた。ストームにはいつも通りが出来る。何も心配は無い。
コツ、コツ、コツ……。木張りの床に革靴のぶつかる音が煩く反響した。影から1歩、また1歩と歩み出す。ゆっくりゆっくり階段を降り先生の前に姿を現すだろう。
「バレてしまいましたか。邪魔をしてはならないと静かにしていたつもりなんですがね」
先生の表情は至って先ほどと変わりない。あなたに対しても皆に向けるものと全く同じ、暖かくて、頼もしく、縋りつきたくなるような──薄っぺらい父親の顔をしている。
デイビッドは一目散に後方へ飛び退いたあなたとの距離を僅かでも詰めるように、階段の側まで歩み寄ってくるだろう。呼び掛ければお利口にもゆっくりと階段を降りてくるあなたを、階下からのんびりと待ち受けている。──大口を開く深海魚の元まで、自ら降りていくような気持ちを味わうはずだ。
しかしあなたを待ち受けるのは、グレーテルを追跡して話を盗み聞きしたことに対する叱責などではなかった。
むしろそのことは、
「グレーテルのことが気になっていたんだね。来たばかりの仲間だ、興味が湧くのは仕方がない。しかしあまりつけまわすのは褒められたものじゃないね。」
と、いかにもそれらしい理由で納得を貰えたようだ。言葉端でそっと窘められる程度で、この件についてはあっさり方が付いた。
──では、何故グレーテルは先生にあなたの居場所を告げたのだろうか?
それはデイビッドが、他ならぬあなたに用があった為だ。
「さて、ストーム。これから時間は空いているかな。授業の予定は入っていないね。
──君に話がある。こちらに着いておいで。」
先生はにこりと微笑み、踵を返した。
彼が果たして、あなたに何の用があるというのか。あなたはその背についていくだろうか?
かつてヒトは処刑の為に罪人に十三階段を登らせた。自分自身の身にかされた罪を噛み締め純粋に償う為の道を自らに登らせたのだ。ストームは今下っている。階段が十三段というわけでもなければ全く逆の行為をしているはずだと言うのに、死刑台に立たされるような酷い気分だった。
元プリマのテーセラドール、ストームですら赤子のように扱う仮初の父は笑顔を絶やさない。幼子ならばよく懐き縋り付きたくなる笑顔であろうが、トイボックスについて知り始めたドールには恐怖を増幅させる悪魔の笑みでしかないだろう。
ストームは重たそうに瞼を上げ悪魔の笑みをまじまじと見詰める。
「……すみません、でした。彼女の瞳が美しかったものですから様々な輝きを見たかったんです」
どうやら追跡のこともバレていて口実の為に解いた三つ編みは虚しく無造作に顔に掛かった。サイドの髪を耳にかけると十五歳の少年らしい顔で目線をそらし言い訳がましい言葉を零す。自身の欠陥を知っている先生だからこそ、ストームの美しいやら欲しいやらの発言には慣れていることだろう。綺麗だから欲しい。綺麗だから壊したい。それがストームの欠損である事を自身でも深く深く理解している。
「話、ですか」
ストームの返事を待たずにディビッド先生は歩き始めてしまった。ストームは悟る。
その時には彼の大きな背中に着いて行っていた。もう戻れないねストーム。まだまだ小さな猟奇犯さん。
バタン…………。
細くとも逞しい指先でドアノブの模様の凹凸を撫でゆっくりと手を離した。ドアの閉まる音がストームにのしかかった緊張からの洗脳を解く。床を弾む音、ドール達の話声、蛇口やら電気やらがあくせく働く音ですら爆音に聴こえる。この暖かな世界から切り離されたドアの奥は静か過ぎたのだ。全身脱力し、いつもはぴっしり伸びている背筋を曲げた。
次にストームを襲ったのは渇きだった。舌の腹と上顎が張り付いてしまう酷いものだ。こんなことなら髪を結ってもらうのと同じようにコップ一杯の水も貰っておけばよかった、なんてストームはきっと思っているだろう。よき父であるディビッド先生ならばコップ一杯の水くらい出してくれただろうにしくじったな、と。
「ヒトとは不便なものですね……」
ぐーっと伸びをして紳士らしく背筋を伸ばす。愛しいディアが愛を唄い踊り続けるというのならストームはその身が錆びれようと彼をエスコートする為に。
まずは渇きを潤す必要がある。
キッチンは広々とした他の空間に比べて、大きな家具が敷き詰められているためか、少し手狭な印象を覚えるだろう。
こじんまりとしたシンクとコンロ、調理スペースを十分に確保出来る広い机がある。そして奥には、パントリーに続く木扉も取り付けられていた。
キッチンへ向かうとストームはまず、コップを持ちシンクに立った。蛇口の下にコップを潜り込ませネジを捻る。勢いよくコップの底にぶつかった水は波を作り左右上下に自由に揺れた。水面がどんどん上がってゆくことに反比例して波は小さくなっていった。蛇口を締める。
キュッ、と軽快な音を立て止められた蛇口には雫が溜まり大きくなってゆく。ストームの姿を映すことが出来るであろうほどに大きくなった時、雫はコップの中に波紋を作った。
一気に飲み干す。喉を通る水はなんと冷たく新鮮なものだろう。乾ききって喉の奥すら張り付いてしまいそうになっていたストームの喉に恵のオアシスが流下していった。
ことり、とコップを置くとストームは作業テーブルに目線を移す。どうやらお菓子作りのレシピが書かれているようで、開かれたページの挿絵には可愛らしくバターの匂いが香ってきそうな焼き菓子が描かれている。そういえば、アティスを送り出す日も皆で菓子を食べた、なんて新しくも苦い記憶が思い出された事だろう。違う。別れを告げるのにあの菓子は甘過ぎた。
ストームは何を口にすることも無くレシピ本を閉じる。そしてさっさとコップを洗ってしまってキッチンを後にするだろう。
あなたは両開きのガラス製扉を開いて、ドールズの箱庭へ踏み入る。
球形の天井からは、麗かな春の日差しが降り注ぐ。先ほど寮でも見た晴天が、一面に大きく広がっていた。
陽光を浴びて、テラスに敷き詰められた芝地と花壇に植わった可愛らしい花が咲き誇っている、が、花弁はやや渇いているように見えた。ちらほらと点在する真っ白なガーデンテーブルと椅子では、優雅にお茶会をするドールズの姿も見られた。
ガーデンテラスに赴いたストームは辺りを見回す。
そこには可哀想な花があり、乾き始めているにも関わらず健気に咲き天命を全うしていた。
そんな花を横目で一瞥し見捨てるのがストームだった。
もう満足に育てるものは居ないのだろう。特段花に興味を持っている訳では無いし、健気さを美しいとも思えなかったストームはまるで最初から無かったかのように振舞った。
もうひとつ、席のひとつに本があるのを見つけた。
「おや、忘れ物でしょうか?」
太陽に祝福されたような陽気が降り注ぐ、ガーデンテラスの空席のひとつにあなたは目が向くだろう。そこには、誰かが置き忘れていったのだろうと思しき本がある。
どうやらそれは小難しい哲学書らしく、タイトルは『テセウスのパラドックス』だ。
この本の傍らには、すっかり冷めたカップ入りのレモネードティーが置かれている。読んでいた人物がこの席を立ってしばらく経つのだろう。
◆ テセウスのパラドックス ◆
『テセウスがアテネの若者と共に帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。
すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。』
それは一種の有名な思考実験である。
つまりはある物体において、それを構成するパーツの全てが置き換わってしまった時、過去の物体と現在の物体は『同じもの』だと言えるのか? という、同一性を問う命題だ。
別名『テセウスの船』とも呼ばれる。
「……シュミが良い方ですね」
思考実験の本を読みながらレモンティーで優雅なティータイムとは。
人口太陽の陽射しに照らされ、ストームはペラペラとページをめくる。まだ見ぬ持ち主を考えストームは眉を近付けた。
紅茶を嗜み、読書してる途中に全てを放り出してどこかに行くだろうか? と。
恐らく、誰かに呼ばれたのだろう。
本を忘れてしまう程の用事とは一体……。
持ち主と入れ違ってしまっては大変だ。とストームは本を元の場所に置いた。
ポケットから小さな手帳を取り出すと、ページを破りペンで持ち主へ書き置きをする。
まだ見ぬ哲学家様へ。
貴方はどなたです? 宜しければ名前をこの裏へ書いて頂きたい。会うのは困難でしょう。ガーデンテラスの花壇の土の中にでも忍び込ませて置いてください。
その書き置きをストームは本に挟み込んだ。少し興味が湧いたのだろう。結果を楽しみに彼はこれからの日々を過ごす事になる。
そのまま冷めきってしまったレモンティーを回収し、カフェテリアへ食器を片しに行くはずだ。
たどり着いたカフェテリアは、時間帯が影響してか珍しく閑古鳥が鳴いて、人気がまるで無かった。いつも活気で賑わっているカフェテリアが静かというのは、少し慣れないものがあろう。
一帯の広間の奥には、寮ほどの設備や少量の備蓄はないものの、簡易的なキッチンも存在しており、ドールズはこちらの区画で飲み物を用意して、授業後のコーヒーブレイクをおこなっていることが多かった。
また、あなたが手にしていた食器に関しては問題なく簡易キッチンの方へ片付けられるだろう。
ドール達に人気であろうカフェテリアは、思ったよりも静かだった。いつも賑わってる場程、音が少なくなると少し落ち着かないのは何故だろう。
ストームはそんなことすら気にせずテキパキ食器を片してしまうだろうが。
「……匂い」
後片付けを終え振り返ると、目線は必然的に懐かしいものと感じたソレに向いた。テーブルには一枚の皿とその上にバケットが座っている。鼻を掠める匂いは優しくて微細な所までをもじんわり暖める温もりを持っていた。
だが、ストームにはどの記憶か判断しきれていない。よって正体を探ろうと近付くだろう。
カフェテリアのテーブルのうち一つに、皿に乗って切り分けられたバゲットが残されているのをあなたは発見する。
少なくとも焼きたてではないはずだが、小麦の美味しそうな香りが鼻腔を優しくほんのりくすぐる。あなたはあの食卓に、無性に懐かしいものを覚える。
誘蛾灯に誘われるように、あなたの足先はそちらへ無意識に向かっていく。
バゲットの載った皿の他には冷めたスープと、空っぽのカップが残されていた。触れたバゲットはまだ幸にしてまだ柔らかく、傷んではいないようだった。口に含んで咀嚼すると、存外甘い味わいが舌先を駆け巡る。
『────、──!!』
その瞬間、あなたの脳髄を痺れるような感覚が疾るだろう。目と鼻の先で誰かの爆音の叫び声を聞き、脳が揺れて耳鳴りを覚えるような、直面したのはそんな突拍子もない感覚である。
あなたはその時一瞬前後不覚に陥り、目の前の机に手を置いて身を委ねる形になるはずだ。机は揺れ、バゲットは床に転がり落ちる。
脳裏で光が満ちていく。あなたはその虹彩の奥に、おそらく見覚えのある景色を垣間見る。
ストームはただ、懐かしいと感じただけだった。
ストームはただ、バケットを一欠片齧っただけだった。
それが執行の引き金になるとは知らずに─────
やわらかな甘みを食む。すると小麦の香りが鼻を抜けていくのを感じる。
はずだった。
「っ”!!! あ”ぁ……」
頭の中、花火が爆ぜた。
何も見えない。聞こえない。
刹那の間、ストームは自身が火薬を大量に抱え込んだ爆弾のようであった。
堪らずテーブルに倒れ込み肩で息をする。ちぐはぐの瞳を隠すように掛かった藍いカーテンごとぐしゃりと頭を抑える。
それでも治まらない痛みはストームに走馬灯らしきを見せた。
ガシャンッッ────
早く、拾わなきゃ……掃除、しなきゃ……。
ミトンを手にしてストームは食卓に並んでいたであろう残骸と割れた食器を拾い集めていた。ミトンの指先はボロボロに傷付いていて怪我をしてしまいそうだが、存外きちんと成すべき役目を果たしている。
ストームを■■■■案じ、“彼女”が命じ■■■を渡してきたからこうして掃除をしていたと理解出来た。
なぜ?
爆弾が圧力を膨張させてゆくように、脳の奥で痛みが増していく。
けれど、見ている景色は痛みなんて無縁の世界だった。
暖かい陽の光が優しく窓から差し込んで、部屋を明るく照らす。
遠くでリズミカルに鳴る食器の音に、和やかな歌声が乗っかっていて妙な落ち着きを呼び込んだ。
ディアによく似た────
いや、ディア“が”よく似ていると言った方が正しい。
「お……母様、?」
大事で大事で心から愛していて、何もかもを投げ捨ててでも欲するそのひとの呼称を口に出し、手を伸ばす。
現実には居るはずも無いのにね。
呼び掛けも伸ばした手も空を切る。
記憶の中の母は訪問者の方へ行ってしまった。
そうだった。今日は彼女達が来る日だった。
玄関の向こうには桜の髪を結い上げている上品な少女と、ブルームーンの月光ですら劣って見える銀髪の少女が居る。
二人を迎え入れたお母様が分厚い書類のようなものと封筒を少女達から受け取る。
ぼんやりとしていた少女の玻璃の瞳の輝きまでもを鮮明にしていく。記憶が叫んだ。
──ごきげんようアストレア!
フィルムは途切れた。
先程まで抱えていた爆弾も嘘のように消え去っていて、嫌な汗が背中を伝うだけ。
ストームはテーブルから離れ、ちぐはぐの瞳を前髪の後ろに隠す。その奥でアメジストとトパーズは月光を反射したように光るだろう。
「……趣味の悪い夢ですね」
ストームは寝室に居た。棺が並び一見不穏な空間とも思える場所。だがストームを始めとするトイボックスのドール達は造られた時から見ていた光景で、日常に溶け込んだ景色だろう。カーテンを押し上げる風によって太陽の光が直接部屋に差し込む。今朝の起床して第一に聞いたのは臨時の先生であるジゼル先生の声だったが、ストームにその記憶はまるで無かった。
今朝はディアの唄声に誘われるように起きディアから魔法の言葉を掛けてもらったから。特段特別でもなんでもない“おはよう”の一言を。ストームにとってディアからの言葉は全て魔法そのもの。それはまるでピンクの塗料を舌の上に乗せられたような甘み苦みを孕んだ魔法。柔らかく頭の中を浮かせたかと思えば重たく殴り付けるようで、麻薬その物。今朝もストームのコアの中にディアの愛が沈殿していった事件現場であった。
今朝のことを思い出しながらストームは胸元に触れる。ディアに溺れたあの日にストームのコアは既に犯されている。あのターコイズの輝きに。あの薄紅色の雲のような髪に。すっかり犯されてラリってトんで、ディアの強すぎる愛をまた欲する。ディアに満たされディアに飢える。その繰り返し。どれほど些細な言葉でも行動でも、ストームはディアに心酔出来た。
枯れることの無い無慈悲な愛に思いを寄せストームはほろ酔う。
───壊したい……。
ディアの棺の縁を撫でる。あの小さくて可愛くてトイボックスの中でも郡を抜いた美しいドールは今朝もここで目覚め、今夜もここで眠る事だろう。それはずっとずっと続く。ディアがお披露目に出されるであろうその日まで……。
いやそんな日は来ない。来てはならない。
もしその日を迎えることになってしまえばストームは迷わずディアを破壊する事だろう。そして宙に浮いてしまった約束は消え失せ猟奇犯が解き放たれる事になる。
今は悪夢について考える事を辞めよう。ストームはそんなこと微塵も考えていないのだから。彼はディアの棺に身を寄せうっとりと顔を歪ませている。
「お慕い申しております……」
彼の居ぬ棺に唇を落とす。歪んだ純愛を抱くストームに出来ることはこの程度だった。ストームはただの博愛中毒患者でディアは博愛者。これ以上なんて烏滸がましい。出来たとしてもせいぜい抱き締められた時に抱き返す程度だろう。
熱を持ってゆく身体に高揚してゆく気分に溺れた。熱い息が漏れる。ストームの頭の中はディアのことで埋め尽くされている。
ギィ、小さく鳴った床の音がストームの耳に入った。よく聞こえるテーセラの耳、誰が鳴らしたかは当然のように理解っていた。
彼だ。
ストームはすぐさま立ち上がり制服を叩いて埃を払い髪を整えた。全てを完璧に。彼の前では自身の一番の姿で居たいらしい。
じゃらり、じゃらり……鎖のぶつかる音がストームには聞こえる。真っ直ぐストームの首に繋がれた鎖の音だ。音は猟奇犯を容易く犬にさせる。
犬は従順に瞳を潤ませて彼を待った。
「ここでお会い出来ると思っておりました」
《Dear》
「ご機嫌よう、ストーム! ……んふふ、飢えた顔」
まるで運命に手を引かれたかのように、ディアは現れた。呼ばれていた。自分はここだと、早くここまで堕ちてくれと、涎を垂らし、低く唸る獣の声に。重苦しい執着に、欲に、愛に、小さな器を狙われても尚。ディアはくすくす笑って、ストームの胸へと飛び込んでいく。そっと小さな耳を当て、愛おしそうに囁いた。
「……どきどきしているね、かわいい」
麻薬であった。ディアの肌は暖かく、脆く、柔く、甘いミルクの香りがした。ディアの瞳は、ストームだけを映している……ような感覚にさせる。その大きな瞳は、ストームを含めた世界の全てを映しているに過ぎないのに。そう、錯覚させる。魔法がある。——あの日と、同じ。一度、力を入れれば。簡単に、壊れてしまう。殺せてしまう。脆くてかわいい命もどき。ディア・トイボックスという輝き全てが、キミを魅了する。さあ、望んで。
「——ねえ、約束しようか」
表情を指摘されるとストームはちぐはぐで大きな瞳を見開き、すぐに伏せた。はしたない、と自戒しているのだろう。
可愛らしい笑い声と共に伏せた瞳の中飛び込んでくるディアは相変わらず眩しくて焼ききれてしまうほどの輝きを放っている。猟奇犯がどれだけ凶悪かも飢えているかも意に介してない様子。むしろその欲ですらコントロールされてしまうのではないか、と思う程の強い輝きであった。
腕の中に世界一の輝きが舞い込んできたストームは潰さぬように唯一無二の宝石を包み込んだ。
甘いミルクの香りがストームを襲う。柔らかな身体は暖かく惹かれてどうしようもない。トゥリアモデルの頂点に君臨していた彼の身体は正しく完璧だった。当然コアの脈動はテンポをあげるし、ストームの頭の中は薄紅色の愛の色で一色になる。浮遊感と、快感と、危険信号が同時に膨れ上がって爆発した。
ディアのように染まらぬ頬を微かに上げ、目を細める。
「かわいいだなんて……身に余るお言葉です。
鼓動が早いのは貴方様にお会いし、こうして触れているからですよ」
ディアのターコイズの中にストームが、ストームだけが映る。けれどきっとディアはストームなんか見えていない。視界に入れているであろうが、ただそれだけ。ぼんやりとしか彼を見ていない。
そして、愚かな事にディアの掛ける魔法にまんまと錯覚を見せられているドールがここに一人。
なんて愚かな子。彼はきっとその催眠から目覚める事は出来ない。どっぷりハマってどうしようもない。
──それはあの日と同じ、あの日から完璧にかけられた永久に続く呪いのようであった。
ストームは望む。強く、強く、強くディアを。貴方を。
だが襲い掛かりはしなかった。
腹を鳴らし涎を流して瞳が据わる程になろうと“約束”の言葉には逆らう事なんて出来ないから。
「何をお望みですか? my host」
《Dear》
「ふふ、かわいい! ほら、これでわかる? 誰より特別なキミに出会えて、私、とっても熱いの……おそろいだね」
こつん、とおでこを合わせ、甘い声で囁きかける。無償の愛が詰まったムスク。焼きたてのアップルパイ。お父様の寝物語。もっと、もっと、もっと。精一杯に背伸びをし、腕の中を飛び越えて、それでもキミに会いに行く。キミは、私の奇跡だよ。愚かな子。可愛い子。愛しい愛しい私の子。さあ、望んで?瞳の海を、喉の小鳥を、柔い柔い唇を。可愛らしく、美しく、艶かしくも燃え盛るコアを。引きずられる。ディアという星の持つ引力に。地獄で煌めく輝きに。マガイモノの星空に。たとえ、鎖に首を絞められても。手を、伸ばしてしまうでしょう?
「ねえ、ストーム。私、美しい?」
甘い、甘い、甘い、あまい、あまい……。
もう既にディアに酔ってると言うのにさらに強いアルコールが注がれた。思考に陽炎が掛かる。触れた額から伝播する熱はマグマのように熱く一瞬で溶けてしまいそうだ。
ストームは瞳孔を震わせこくりと喉を上下させた。
煩い程瞳に訴え掛けてくる愛がコアを蝕むように満たしてゆく。喉が震える。
これ見ようがしに欲しいだろ? と訴え掛けてくる瞳には逆らえるわけが無い。
──貴方様の甘さがもっと欲しい。
「世界一」
背中を屈ませディアのシルクより柔らかな髪に指を通す。するりと撫でそのまま指先で項に触れた。少し力を入れれば折れてしまいそうな首がそこにある。
《Dear》
「ありがとう、私たちの紳士様。ふふ、ごめんなさい、返答はわかっていたから、言わなくてもよかったの。私は、今日も明日も変わらず美しいと、いつもキミは言ってくれるね。ありがとう、とっても嬉しいの。——でもね、それは違う。
ああ、どうか髪をきちんとして、それからきものの泥を落して、鉄砲と弾丸なんて置いて、クリームを塗って、香水をつけて、塩を揉んで、きっとキミの皿の上で眠ろう。キミの夢を見て、キミの走馬灯を見て、キミの強き美しい牙で砕かれよう……ねえ、知らなかった? 明日の私はね、もっと、ずうっと……美しい、の」
甘やかで、とろけてしまいそうなほどに優しい、生まれながらの強者の声に。
ねえ、抗えないでしょう。ねえ、諦められないでしょう。飴玉のような瞳を食んで、甘いシルクの指を溶かし、その身全てを飲み込んだとしても。決してキミだけのものにならない太陽に、酔いしれたいでしょう。キミの強さ、キミの特別、キミの望み、全部、全部、愛しているから。わかるよ、わかるよ。——望む私を、望んでくれる。
そっと、無防備に晒された首に牙を這わせる。
「……待て、できるね? 私だけのヤマネコくん」
誰も傷つけないその牙は。脆く小さなその牙は。愛に溢れたその牙は。——砕かれてなるものかと、鬣を揺らし吠えている。
ストームはよく理解している。
明日のディアが今日の彼より、もっとずっと美しい事を。
ディアは服を脱げだの猟銃を置けだの様々な注文をせずともストームの皿の上で終焉を迎えてくれる。扉の奥に自身の終焉が待っていると分っても尚、ディアは薄紅色の博愛でその美しいかんばせを綻ばせエンドロールを迎えるだろう。
彼には助けてくれる犬なんか居ない。全てを愛し過ぎてしまった代償は大きい。愛し過ぎてしまったから、自然も犬も彼に罰を与えないだろうね。むしろ彼が森に留まることを歓迎するのように、ヤマネコに彼の身を献上する。
そしてエンドロールを迎えてゆく……。
グラグラとストームの欲望に語り掛けてくるディアの言葉は強いものであった。私はここだよ。さぁ手を伸ばして。
耳を塞いだとしても頭に反響してしまう。頭に張り巡らされた回路が痺れて爆ぜているようだ。
ストームは白く逞しさが目立つ首をディアに差し出した。全くの無意識で身体が調教されているように。
「……では注文を聞いてはくれませんか?」
ストームはディアの手に指を絡めるだろう。そのままなんの抵抗もなしに絡めることが出来れば彼の人差し指をほんの軽く挟む程度に食むはずだ。鋭く尖った犬歯が少し大きめに開けられた口によって姿を覗かせる。
伏せられた目を開けるのと同じタイミングで口を開けばそのまま彼の前に跪いた。
「ディア。生きてください。
ジブンが貴方様を奪うその時まで変わらぬ姿で」
《Dear》
「いいこいいこ」
ディアは、夢見ている。白磁の皿に横たわり、桜貝の手を伸ばし、くすくす笑って待っている。ねえ、ナイフとフォークだなんて使わないで。爪を。牙を。欲を。はらわたをぐしゃぐしゃに引き裂いて、唇の中の味を知って、こぼして、舐めて、心臓を潰して! その綺麗なかんばせを、愛と欲でぐちゃぐちゃに汚して! 理性だなんて捨て去って、私を望んで! 壊して、殺して、忘れないで! ——なんて、ね。
「この魂は、いつだってキミたちのために」
くぷ、と濁った音と共に、ディアの指はストームの胃へと侵攻する。食われそうになっているのは、ディアの方なのに。皿の上で笑っているのは、間違いなくディアであるのに。今、この凶暴な猟奇犯の命を握っているのは、一人の美しい少年であると——そう、確信させた。
——ディア・トイボックスは、高潔である。全てを愛し、全てに愛され、ヤマネコに身を預けるなど、あってはならない。そんなものは、ディア・トイボックスではない。初めて知った。こんなにも、どうにもならない恋があるのだと。
手に入れたいと叫ぶのに、手に入らないでくれと望んでいる。壊したいと望むのに、その瞬間を恐れている。ほら、今だって。私に流れる血の色の一つ、確かめてはくれないのね。
「……本当、キミほど私の望みに邪魔な子もいないね」
いらなくなりたい。望み、望まれるために生まれたからこそ、誰にも名を呼ばれない日を。触れられない日を。愛されない日を。望まれない日を。それこそが、ディア・トイボックスというプログラムの最終目標。——キミの望みを、叶えてあげる。
「愛してるって意味さ」
明日も、明後日も、十億年後も、変わらず、愛していると言ってあげる。
ドクン。
あぁ、毒されてく。
甘いミルクの香りが誘う。おいで。おいでと。
ストームはたちまちオーバードース状態に陥った。
人工的なピンクの塗料が弾けてストームの食道を塗りつぶしていく。彼の瞳は決して洗い落とせない塗料で塗りつぶしにされた。今彼は、ディアに夢を“魅せられている”。
ドレスコードもテーブルクロスも完璧だと言うのに、飢えた猛獣は鋭い牙と爪を携え、溢れ出る涎を皿に落とす。猛獣の大好物が彼を誘惑するように微笑んでいるから、ナイフもフォークも持たずにテーブルから払い落とした。そして猛獣はその自慢の爪で好物を引き裂き口に運ぶ。皿はもちろん、テーブルクロスも、猛獣のタキシードも、彼の口も何も透過しないピンクで汚れた。ひとくち喉を通してしまえば、猛獣のリミッターは外れた。
我を忘れ、あられもなく、本能のまま、猛獣は好物を咀嚼する。
すり潰す度ピンクが弾け、口にベッタリ張り付いた。
皿まで舐めて猛獣は満足気に目を細めた。
体の一部になったその瞬間まで感じ取れる。じゅわぁり……溶けた。
溶けた瞬間、猛獣は大好物に食い尽くされた。
猛獣の身を拘束する毒は、彼の自慢の牙や爪でさえも支配した。
ロイコクロリディウムを喰らい尽くした猛獣は……。
息絶えた──────────
酷い夢だ。悪夢だ。
ストームは顔を歪ませる。
吐き気を催す甘さが張り付いて離れない。
けれどずっと見ていたくて堪らない。
無性にその夢に溺れていたい。
だが無慈悲な博愛者はそうそう簡単に中毒者を高潮へ持っていかせなかった。
“邪魔”。たった三文字がストームを枯渇にへ追い込む。ディアに貰った体温が一瞬にして消え失せた。甘い幻覚も幻聴も中毒者を見離す。身体を押し潰さんばかりの静寂が中毒者を襲う。
視界には靄がかかり、ディアの存在を認識する事しか出来なかった。不気味なほど明るく冷たい光が見下ろす。
「ぁ、……ディ、ア?
ジブンは……僕は、私は、オレは……必要、無いと?」
ストームは震える声を抑えることが出来ない。ストームはアストレアのように言葉の裏を読み取ることが出来なければ、ソフィアのように可能性の先を見据えることも、リヒトのように“愛している”の言葉を無条件に信じる事も出来ない。
ディアに見限られた。
そう感じたんだろうね。
呼吸はどんどん速さを増しストームは惨めに蹲った。喉の鳴る音が時折、寝室中に響き渡る。
中毒者はいつもとは違う毒を与えられ発狂を起こしてしまった。
はぁっ、と身体中の息を吐きストームの大柄な身体が収縮したその時。過呼吸は唐突に止まった。ゆらりと顔を俯けたまま立ち上がる。
寝室にドールが二人。埃がキラキラと舞う。
どこの部屋からか時計の針の刻む音が聞こえてくる。
静寂がドールらを包む。包んでいた。
猟奇犯が目覚めるまでは。
「は、ははは……。貴方様の愛は気持ちが悪い」
蛇が喉に噛み付くようにストームの手はディアの細い首を掴んだ。いつものように壊れないように、苦しめないようにと扱う手つきではない。
欲望のままに好物に手を伸ばす猛獣のように。それが毒だと分っていながら、喜んで掴む。
ストームは心酔しきった瞳を細め、不気味な程口端をつり上げていた。
──ジブンが邪魔だと言うのなら、お望みどおり消えましょう。貴方様の後に。
《Dear》
「そうだね……きっと私、キミがいなくても生きていけるの。いらないの、ストームのこと」
強く骨張った獣の牙が、ディアの細い細い首を掴む。幼い骨は悲鳴を上げて、ぎち、と歪な音を奏でていた。命の燃える音がする。脳が霞む。ぱち、ぱち、と視界がゆらめいて、ディアは熱い、熱い息を吐いた。苦しかったからではない。痛かったからでも、壊されてしまう恐怖故でもない。
——美しいと、思ってしまった。
ご立派な理性をかなぐり捨て、ただ強大な本能のままに従う獣。その本能を抑え込んでいたのは、ストームの白く逞しい首を繋いでいたのは、紛れもないディアの言葉であった。約束。そのたった二文字だけが、この獰猛な猛獣を犬にしていたのだと、誰もが理解させられていた。その、ストームが。邪魔。その、たった二文字で。ディアの言葉で、こんなにも。どろり、とディアの瞳が溶けた。ショッキングピンクの囁きが、ストームの耳朶を犯す。瞳を犯す。コアを犯す。
ねえ、今でいいの? 私たち、たとえ一緒になれたって。あの空に、真実に、食われてしまう。——おまえのあたまはどこにある?
「でもね、必要だから、キミと一緒にいるのじゃない。キミが、好きだから。大好きだから、共にいたい。望みを叶えたい。一緒に、幸せになりたい。ああ、ストーム、キミって子は、とっても邪魔で、感情的で、愚かで——とおっても、かわいいね……ねえ、わかる?」
「愛してるって意味さ」
焦燥、憧れ、不快感、洗脳───
ディアの調教は完璧だった。精神異常故のオミクロンドールであるストームの破壊衝動を完璧にコントロールし、幾度となく猟奇犯の握るナイフを下ろさせてきた。
“約束”の二文字だけで。
ストームやリヒト、ソフィアやアストレア。アメリアでさえディアには不要だということも理解っている。たとえ、天変地異が襲ってディア一人になろうと彼は何の不満も抱かずに生きていけることも。
メモリが焼き切れるほど刷り込まれたディアの気質。
ディアの愛すべき欠陥。
決して自分のモノにならない細い首を掴みながら、ストームは欠陥だらけのディアを見下ろす。
約束したのは? 約束させたのは?
首輪を付けたのは?
他の誰でもないディアじゃないか。
今更要らないだなんて言わせない。
欲した言葉をそのままに唱えたのはディアだった。
耳に届くことのなかった愛の言葉が再び唄われる。
今度は何度も何度も嬲り殺すように。
「………………理解しております」
拘束を緩めぬままストームは続けた。
ストームがこれ程、愚かで、感情的になるのはただ一人。
ディア・トイボックスだけだった。
ディアの為なら火の中にだって飛び込める。
真実に喰われたって、寄生虫を喉に流し込んだって構わない。あの日、頭を失ったあの子のようになっても。
命さえ惜しくはない。ディアの為なら。
「ディア、貴方様は今日もお美しい」
ようやく拘束を解く。
“約束”はいつでもストームの首輪を引いていた。ディアの首はアザにすらならないであろう跡がうっすらと残る程度。
ほら、ディアの約束はどんなものより効力を発揮しているでしょう。おやすみ貪欲な彼。
《Dear》
「何度も言われなくとも、知っているよ。でも、きっと何度でも言って、ね?」
ふふ、と悪戯っぽく笑って、そっと執着の痕に指を這わせる。泣き喚く赤子に触れるように。沈みゆく太陽に手を振るように。愛しいものを撫でるかのように。仕方のない子だね、キミは。こんなに汚してしまうだなんて。そう、諭す。呆れたような蒼の中に、確かに愛の色が混じる。傷を知らない。痛みを知らない。ディア・トイボックスという美しいドールに、初めて与えられた愛だった。ディアを、汚した。じわりと背を這う罪悪だけを遺して、ディアは美しい手を伸ばす。遠くへ。もっと遠くへ。キミの向こうへ。
「ねえ、ストーム。いつか、一緒に月に行こうか。キミとなら、あの空の向こうに、手が届く気がするんだ」
ハロー、ルサンチマン。親愛なる弱者。私の愛した特別な子。私の夢を、どうか守って。
「——返事は?」
何を答えればいいか、わからないほど馬鹿じゃないでしょう?
微笑みと共に揺れる髪は、他のどれより嫋やかだった。
目を離すと消えてしまいそうな、真っ白の肌に良く似合う。
どうか騙してくれ。“愛”と笑ってくれ。
いつか壊すその時まで───────
願いと希望をコアに秘め、ストームはお辞儀する。
「仰せのままに」
パレットはディアから魅せてもらった色彩が所狭しと敷き詰められている。全部全部、愛の色。
消して混ざり会うことの出来ない罪の色。
ストームは約束が果たされるその日にその色でキャンパスを彩るだろう。
伸ばされた細い腕の先、小さな指先の奥にちぐはぐの瞳が揺らいだ。彼が指したのは人工の空だった。
「空も良いですが、まずは海ですディア。
ここから上がらなくては。
空と海が交差する地平線を眺める、なんていかがでしょう?」
《Dear》
「へえ! それはとっても魅力的なお誘いだ! デートだね、嬉しい! 約束だよ! 私たち、海を見たことがないものね? 会ってみたかったの! きっととってもかわいくて愛しいじゃない! ?ああ、ずっとずっと遠くまで続く、サファイアの旅路……思い描くだけで胸がはじけそうだよ!
……でも私は、キミの海も好きだな……吸い込まれてしまいそう」
ちゅ、と軽やかな音を立てて、その瞼にキスを落とす。どうしようもなく、焦がれていた。ストームの海。ちぐはぐの瞳に生きている、宵闇の海。愛しき海。どうか、その海に永遠に棲まわせて。そして、いつか忘れて。今更でいい、いらないと言って。
全て、嘘だとしても。虚構で、マガイモノで、ただのプログラムに過ぎないとしても。あの日、私たちが焦がれた星は、私たちの薔薇が咲く星は、この空にしかない。私たちの愛しい海は、キミの瞳の中にしかない。キミといられる、ここが好きだ! ——地獄の底、輝く月がキミだった。
溢れ出る愛と賛辞に、世界の恋人の輝きに、薄い唇は綻んだ。と、思えば、困ったように結ばれる。きゅう、とストームの服の裾を弱々しく引っ張った、世界の恋人は——
「んん……あっ、ええっと、それで、上がらなくてはというのは……何かな?」
——愛の言葉を囁くのに夢中で、肝心の問いを忘れかけるのが難点だった。
祖となる海に対し、会ってみたいだの、可愛いだの、普通とはベクトルの異なる視点で物を言うディアをストームは見詰めていた。
ただぼぅ、と見蕩れていただけ。なのに次の瞬間にはストームの瞼にキスが落とされた。
イヤにゆっくり時間が流れる。ディアの湿った睫毛の一本一本。開いてゆく瞳。光を吸い込んで反射するターコイズの輝きまで鮮明に見える。
ストームは何も言わぬまま身を引いた。
さらり、と前髪を整え瞳を伏せる。そして咳払いをひとつ。次に発せられたのは酷く穏やかな声色だった。
「……ディア、なりませんよ。
そう易々と口付けをするものではありません」
ストームが注意した。それもディアに。
心酔してもう二度と酔いから目覚めないであろうストームが。驚くべき事だ。
声色は落ち着いているし、表情もいつものように仏頂面。だが後ろに下がる際、軽く棺にぶつかった。
夜と朝を連想させるちぐはぐの瞳も伏せっぱなし。
どこかよそよそしい態度にも取られる。
やはりストームはストームだ。
服の裾を引かれストームは微かに睫毛を上げる。
すると、ディアの困り果てた面持ちがそこにはあった。何もかもがヘンテコで理解の及ばない国に迷い込んでしまった少女のようなかんばせに驚き瞬く。
「すみません。ソフィアやアメリアから聞いているものかと。早とちりしてました。
ここトイボックスは海底に沈むおもちゃ箱であり、ここを出るには上へ上がる必要があります。あの空や風、気温湿度などは自然現象では無く自然現象を装った演出だったんですよ。
……ディア、こちらへ」
ストームはドア付近をちらりと見た後にディアを部屋の奥へ案内する。一番奥の棺に寄りかかるように座ると彼もこちらへ招いた。
新しい友人、グレーテルやウェンディ。臨時の先生であるジゼル先生に事を聞かれてはいけないと行動した次第だった。ディアが自身の隣に座ればストームは声を抑えて話し出すだろう。
「ジブンが知った情報をお教えします。
まずはトイボックスについて……」
ストームは淡々と語る。
トイボックスは現在の教育出荷かつ廃棄処分する場所、資材支給をする場、そして全体の運営する場がある事。自分たちは何らかの実験の適合ドールである事。目的は定かでは無い事。
トイボックスについての得た情報を告げると、ストームはターコイズの双眸を覗き見た。
《Dear》
「ん……嫌だった、かな? よく、怒られてしまうの……っご、ごめんなさい……気をつけるね」
冷たい声。冬の海。死せる海。ディア相手には、あまり聞くことのないストームの声。冷たい、冷たい、冷たい冷たい冷たい冷たい冷たい——————
——ディアは、思った。こういうストームもかっこいいな……と。
普段は見られない表情に胸が跳ね、触れたくなるのをグッと抑える。本気で拒まれている、と勘違いしているというのにも関わらず、それにすらもときめいてしまうのは流石、世界の恋人と言わざるを得ない。
ぷるぷると震え、盛大に言葉に詰まりながらももう片方の手でストームの頬に向かおうとする手をなんとか抑え、行き場を無くした小さな手を彷徨わせ……ぎゅう、と柔い頬を引っ張り、ひゃんせいひゃんせい……と呟く。頬をかすかな桃色に染めながら(きっと痛みのせいだけではない)、恐る恐る隣へと腰を下ろした。
「ええっと……うん、うん、うんうん! なるほどなるほど、よーくわかったよ! つまり——キミの瞳を照らす美しい空は、キミの声を運ぶ優しい風は、キミの肌を伝うあたたかな温度は、天使様が私たちに与えた素敵な贈り物で! この美しい世界は、心やさしき海さんに抱きしめられたゆりかごってことだ! ゆりかごの夢に黄色い月がかかるよ〜♪ ふふっ、流石は愛しき恋人たちをこの世にプレゼントしてくれた天使様だ! この愛くるしい世界でさえも、創り出してしまえるなんて……ああ、もっと知りたくなってしまうね! 謎に包まれた私たちの愛しき世界……その全てを知れた時、その全てを連れてどこまでも行けた時、私は最上に幸福で、最上に美しいだろう! ねえ、ストーム! ——私たちの空には手が届くよ!」
細い細い、手を伸ばす。許されるならば、無邪気な笑い声をあげながら、ゆりかごの歌を口ずさみながら、ディアはストームの手を繋ぐだろう。そして、もう片方の手を伸ばす。月へ。人工の月へ。私たちの月へ。今度は一緒に、手を伸ばす。
「教えてくれてありがとうっ! 調べてくれて、聞いてくれてありがとう! 愛してるっ! ん、っとと、キスはダメ、なの、だった、ね……! っく、鎮まれ、私の左手〜……っ!」
ディアは愛らしく、幼く、まっすぐだ。愛するものの放つ言葉に一つ一つ相槌を打ち、全てを理解せんと努め、全てを希望へと変換し、全てを愛する。その甲斐甲斐しく、可愛らしく、愛おしい様はいっそ愚かで、哀れで、不自由で——それでいて、涙が出るほど美しい。その実、デュオドールには劣るものの、目を見張るほどの聡明さも持っている。与えられた情報を丁寧に食み、咀嚼し、嘔吐くこともなく嚥下する。ごぷ、と鈍い音がして、細い喉に大魚が飲み込まれていく。胃の中で、世界を飼っている。そんな幻覚が見えるほどに。絶望的な状況の中で、ディアはただ美しく笑っていた。知れることが、愛せることが嬉しい。愛しい。これ以上ないほどに幸せだ! ——それ以外に、何もない。
キスを拒まれた時の方が、よほどショックを受けたような口調をしていた。やはり、ディアはディアだ。ディア・トイボックスとは、そう造られた生命体だ。残酷なまでに。
独創的な芸術センスを有した猟奇犯は、純心だった。
焦がれた相手にキスをされれば、当然のように頭がショートする。普段では身体をどこかにぶつける事なんてまず無い隙なしドールのはずが、あられもなくぶつけよろめいたのが証拠。
仕草のひとつひとつが可愛らしい世界の恋人さんにまんまと心を奪われたのが運の尽きだった。
ほら今も、指を絡められただけで身体を跳ねさせてる。
ほんと笑えるよ。
恋しそうに潤んだターコイズは、ストームのちぐはぐの瞳を釘付けにするには十分過ぎた。息を飲む。
しっかり言葉を噛み砕いて咀嚼して呑み込む。食事をする様に知識を取り込むディアはやはり美しくて。
また、初恋を繰り返す。
「………………それから」
気後れしてた意識がようやく身体に追い付いてくる。
「それから、ミズ・シャーロット。
彼女はかつてドールでした。
ロゼ達が森の奥にあるツリーハウスで彼女を発見したそうです。半分の上体で。
恐らくミーチェと同じ結末を迎えたと考えられます。
彼女らは信頼をおいた者に、閉じ込められ焼かれました」
ストームは思慮深い。ディアの耳に近付くと囁く声で、オミクロンのお姫様だったドールのエンディングを告げた。
言葉の最後まで告げ終えれば、離れちぐはぐの瞳でディアを見詰めるだろう。
《Dear》
「っふふ、私、好きだなあ、ミズ・シャーロットのこと! ミシェラのことも、ストームのことも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ好き! ね、ね、ね、ストーム、もっともっと知ろう、もっともっと愛そう! あの子のこと、あの子の愛したもののこと、生きた証、死の瞬間、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ! あはは! ああっ、もう! ミシェラに、ミズ・シャーロットに、会いたいなぁ! 美しい髪が焼け焦げていようが、コアが鼓動を止めていようが、笑えなかろうが、泣けなかろうが、愛しきあの子に変わりないもの! ああ、キスを贈りたいな……だって、ディア・トイボックスは恋人だもの! もういないからって、忘れたりしない! ずっとずっと死ぬまで、死んでも愛し続けるのさ! ああ、世界とは何て愛おしい!」
ミシェラが、アティスが、ミズ・シャーロットが、グレゴリーくんが、オーガスタスが、グロリアが、ジャスミンが、シンディが、ペネロペが、リタが、ラプンツェルが、ヴァージニアが、お披露目に行ってきた子たちが、外の世界のヒトたちが、草木が、水が、空が、星が、この世界に生きていた、狂おしいほどに美しい愛の全てが。いなくなった未来を。ちゃんと、幸福に生きていく。いなくなったからといって、今まで過ごした日々が消える訳じゃない。これからだって知れる、これからだって愛せる。愛する全ての概念の死を、無駄にしないことが大切である。私たちには、明日があるのだから。愛しきあの子たちにない、明日が。
ディアの声は跳ねていた。今にも踊り出しそうなほどに。されど、小さな手を薄い唇に当て、溢れる笑い声を抑えるだけの理性があった。万が一誰か来たとして、壊されてしまうかもなどという焦燥がなかった。だって、キミがいる。
「好奇心は猫を殺す——以前、先生が贈ってくださった言葉さ。でもね、私は、キミにキスしてもらうためなら、毒林檎だって飲むよ。裸足で地獄の底を歩むよ。だってキミは、私の足が溶ける前に必ず走って、抱き上げてくれるもの。殺した後の無機物に興味などないのに、私だけの後を追ってくれるもの。私のことだけを、ずっと忘れず、愛してくれる——ねえ、ストーム。キミのそういうところが、愚かで、感情的で、邪魔で、とってもとっても大好きで——
——だから、その時が来たら、私のこと、ちゃんと忘れてね」
「約束!」
ディアは、ずるい。必ず、守りに来てくれることも。必ず、忘れられないことも。こう言えば、ストームの人生を縛れることも。全部わかって、囁いた。私のこと、知らないで。愛さないで。
——望まないでね。
ヒトは失うことを恐れる。
金、物、時間、地位や名誉。そして愛。
完璧にヒトを模倣して造られたドールはたとえオミクロンドールであれど、自らの手で奪う事に芸術的価値を見出すストームでさえも失う事を恐れている。
だと言うのに、世界一美しいスノーホワイトは失う事さえ愛した。愛してしまった。
ディア・トイボックスは正気の沙汰じゃない。
理解が及ばない愛情論を独裁者のように演説するディアに、ちぐはぐの瞳が張り付いた。瞬きすら忘れ、演説に聞き入る小さな猟奇犯の無邪気なかんばせがそこにはあった。
彼もまた、正気の沙汰じゃない。
心休まるはずの寝室が狂人のダンスホールになって、愛に狂った踊り子の言葉にすっかり夢中になった猟奇犯。
彼は踊る。くるくるゆらりステップを踏み。
彼は惹かれる。他人には言い難い欲望を剥き出しに。
ディアの言葉は酷くストームを揺れ動かす。
死すら救済だと。
死すら愛してしまうディアは、鬱陶しい輝きを放っている。
だけどね。ディアが愛を追うのと同じ様にストームは強情だった。
死は救済なんかじゃない。愛する事は出来ない。
「Shh……」
キスでもしなければ止まらないであろう唇に、ストームは人差し指を添えた。恋焦がれ過呼吸すら催すディアに対して。ストームは恐ろしいくらいに穏やかな表情を見せたのだった。だけど、心情を覗くのはおすすめしないよ。
多分ストームは身体中に張り付いて縛り付ける程の、黒い独占欲を渦かせてるから。ディアを独り占め出来る唯一の時間を邪魔されてはならない。
謙虚で健気な忠犬の毛皮を被った、意地汚い狼だ。
二人きりで内緒のはなしをして秘密の約束をする。ストームにこの特別な時間を第三者になんか共有してやる気はサラサラ無い。
「……お慕い申しております。
今も昔も、そしてこれからも永遠に」
ストームにとっての呪いの言葉。
お誘いの返事はNo。忘れてと望むディアに首を横に振る。
──記憶の中のあの方に似た貴方様は、とても狡い。無責任で無鉄砲で。そんな所もあの方に似ているのです。たとえ、ディアに嫌われても邪魔者になれど貴方様を欲するでしょう。
あぁ……貴方様が、欲しい…。
ストームはディアの唇に触れた指先を自身の首へ。縁をなぞり自身のコアまで下ろす。じんわりと広がる感情が何かは定かじゃないが、暖かいとストームは感じるだろう。
首の支配に飽き足らず、心までをも支配してると暗示した。ちぐはぐの瞳が見惚れてしまうターコイズに反射する。柔らかな初恋を宿す髪が動きと共に揺らめいて、溶け込んでしまいそうだ。
ディアの息遣いですら愛おしいと魔法に掛けられる。
「……」
彼の手を取り猟奇犯は細くて白くて小さなその手の甲に、唇を落とす。ゆっくりと睫毛を上げると立ち上がって、丁寧な所作でお辞儀した。
親愛なる彼へ、忠誠の誓いと僅かな脅しを。
決して独りにさせてはやらない、なんてね。
《Dear》
「………キミは。
……キミは、本当に、わがままで、強情で、大事なことは、何一つ、聞いてはくれなくて……どうしようもなく、かわいくて……いっそ、手放してあげられたら、よかったのだけれど。でも、だめなんだぁ、私。たとえばね、キミが急にナメクジさんの塩漬けを食べるように言ってきても、きっと、キミを嫌いになれないのだもの。ああ、もう、こまったな……」
魂すらもぐちゃぐちゃに食い潰されて、ディアはその白い頬を真っ赤に染めた。耳の先まで、爪の先まで、鼓動の奥まで、熱が広がっていく。触れられたところからじくじくして、熱い。ストームは、きれいだ。キミは、私たちの奇跡だ。私たちに、愛と、祝福と、幸福を与えてくれる。好きだよ、大好きだ。だから、私のことを愛さないで。本当に、どうしようもない恋だった。無数の星々に咲き誇る、たった一輪の赤薔薇は。四本のトゲがあるけれど、脆くてとても守れない。五億の星を愛すけれど、小さな星にひとりぼっちだ。
コアに手を当て、ゆっくりと睫毛を上げる。もう片方の拳を、思い切りストームに突き出した。脆くて、弱くて、ひとりぼっちで……けれど、けれどね。ディアだけが、自分が何を探しているか、知っているんだ。
「でも、負けるつもりはないよ」
どんな概念にも、終幕がある。それが罵声とブーイングに満ちた終幕なのか、拍手と歓声に満ちた終幕なのかは、『その時』まで誰にも分からない。ただ、その全ての終幕を愛している。時に観客として、時に監督、脚本家、演出家、時に同じ舞台に立つ演者。恋人が望むままに、価値観を、姿を、コードを書き換えて生きる。それが、恋人としての使命。ああ、願わくば。——私の舞台の終幕は、愛しき静寂で満たしたい。
「愛しているよ、永遠に。勝負だね、ストーム」
ディアは、この世界という舞台で。残酷なほどに、憎らしいほどに、殺したいほどに。間違いなく、主役と呼ばれるドールであった。
スノーホワイトは熟れたように真っ赤。
彼らしくない。
けれど、真っ赤になってもやはり世界一美しかった。
一瞬見惚れたように目を細める。だが、すぐに異常性に目を覚まされ怪訝そうにディアを見た。
ストームに、ディアの愛情観は分からない。
理解にするには繊細さ、感情表現、共感性、何もかもが足りていない。そんなストームを深く理解してか、ディアはテーセラドールである彼に分かりやすい方法で表現しようとしている。
突き出された拳は友愛。
相棒と何度か交わした事があるけれど、このような形でディアに拳を突き出されるとはストームは思ってもみなかった。小さな拳とディアの愛らしい顔をと行き来する瞳はまんまるく見開かれていて、声すらまともに出せずにいた。
「…………」
猟奇犯は再び舞台に立たされようとしている。
まだ見ぬ世界を愛した監督が革命家やら、ヒーローやら、王子様やら、好き勝手にキャスティングしていたその舞台に。
猟奇犯は何役だろう? 騎士? それともやっぱり猟奇犯?
なんだっていい。彼を他の誰かに壊されなければ──
ストームは突き出された拳を見ると、微かに口を綻ばせた。
「ジブンは……ジブンはなんて幸せ者でしょう。
言い表しようも出来ない程の身に余る幸福です。
でもねディア……。
“それ”をするのはジブンは不相応です。その瞬間まで心待ちにさせてください」
ストームが、対等で居られるはずがない。
ディアからの寵愛を与えられるに値しない。
たとえそれが博愛であっても。
猟奇犯はスポットライトに当たった主役に恋をした。
恋をして心を焼かれ精神を蝕まれ狂ってしまった。
叶いっこない初恋を永遠の思い出にする為、猟奇犯は舞台から下りた彼を奪い去りたい。
その為に尽くしてきたから、彼の舞台をも拒む。
ストームは彼の拳を下ろさせる。申し訳なさそうに眉を下げ、深々と頭を下げた。
「無礼をどうかお許しください」
沈黙が当たりを包んだかと思えば、ストームは立ち上がり「では」と部屋を後にする。手を引かれて止められなければ出ていってしまうだろう。
《Dear》
「……っあっはは! キミらしい! かわいい!」
大きな大きなターコイズブルーをさらに大きく、まんまるに見開いて、声を出せずに固まった。テーセラモデルというプログラムに真っ向から反抗していくストームが不思議で、水たまりに向かっていくアリさんみたいで、おかしくって。お空からヒトを見つめる神様のような気持ちで、たまらなくって。とっても、とっても、愛おしかったものだから。くしゃ、と柔らかな頬を緩め、ストームの覚悟と体温の遺った拳を胸に当て、ぎゅう、と鼓動を抱きしめる。春を告げる嵐が吹いて、雪が朝靄に溶けていくみたいに。ぴょんぴょん跳ねて、きらきら光って、幸せだって叫ぶみたいに。沈黙なんて、静寂なんて、全部まとめて抱きしめてしまうくらいに、真っ直ぐ笑うディアだから。世界を愛し、世界に愛され、憎まれ、憧れられ、忘れてくれと、望まないでくれと、心の底から幸福を願うディアだから。忘れてほしい、なんて、本当に、残酷で、無茶で、ずるいことを言う。
「ねえ待ってっ、愛しきストーム!」
踵を返すストームを追って、ディアは星へと手を伸ばす。とっ、と思い切り地面を蹴ると、飛びつくようにストームの服の裾を引っ張った。息つく間も無く、ちゅ、と目尻にキスが落とされる。瞼の裏に焼き付いて、離れない柔らかな唇で、望む。キミの瞳の見る世界は、どんなに美しいだろう。キミの舞台から見る客席は、どんなに愛しいのだろう。ああ、願わくば、私がそこにいなければいい。
舞台に上がるのが怖いのならば、舞台を広くするまでだった。空に手が届かないのならば、みんなで肩車をし合えばいい。息ができないのなら、キスをするよ。私たちは、なんだってできる! どこまでも行ける! 誰にだって会いに行ける! ——それでも、数多の星のその中で、たったキミだけに会いに行きたい。
「——またね!」
その全てが、プログラムされた愛情であったとしても。目の前にいるのがストームだからという、たったそれだけの理由だとしても。その輝きは、正しさは、そこに込められた愛情は、私たちの空で輝く星のように、本物であったのだ。——ディアの宝石のような瞳には、あるプログラムが備わっていた。ドールとも、先生とも違う。この惨劇を俯瞰する側——下等生物を愛でる、神の狂気だ。
1/fゆらぎの声がストームの頭の中に取り憑く。
──春の嵐を呼んだ。
観客席まで降りてきて猟奇犯に手を差し伸べた主演の彼は、愛おしげに目を細めて猟奇犯の手を引く。猟奇犯が拒んでもその柔らかな手で無理矢理スポットライトの下まで引っ張って行こうと、悪魔の言葉を囁いた。
悪魔の言葉に呼ばれ振り返ってしまった。
それが危険だと分かってながら。自らプログラムに背く哀れな彼に、お似合いの罰が下ると分かっていながら。
ストームは柔らかく艶やかに潤む初恋色の唇に捕まる。
猟奇犯はすっかり舞台の上に、瞳が焼けてしまう程のスポットライトの下に攫われてしまった。
唇が離れるとストームは自身の目尻を撫でる。
トゥリアドールとしてのプログラムでは説明の及ばない、ストームを見据えより遠くに向けた気持ちの悪い程深い愛情。ディアは一体どこを見ているのか、ストームには分からなかった。
分かるのは瞳の輝きが世界一美しいって事だけ。
ストームは思わず「美しい」と声を漏らした。輝く星々を映し出す瞳に見染められ、ちぐはぐの瞳を細める。
ため息が出るほどの美しさを神の狂気だと知ることはきっと無い。
再度深々と頭を下げ、忠告を告げれば彼は去るだろう。
「……ジゼル先生にご注意を」
《Dear》
「ジゼル嬢か……確かに、かわいらしすぎてその瞳の湖に咲く水仙になってしまいそうだね! ご忠告ありがとう!」
律儀でかわいい恋人の強く美しい大きな背にぶんぶんと両手を振りながら、ディアは少し……いや、だいぶズレた感謝をつらつらと述べる。美しき水仙へと姿を変えたナルキッソスは、自己愛の象徴と呼ばれる神である。恐ろしいほどの博愛を体現したディアとは似ても似つかないようでいて、きっと本質は同一だ。己を飾る金の王冠も、大切なひとの薬指を飾る金の指輪も、全てを残酷に照らす強大な太陽の前ではただの金だった何かへと成り果ててしまうように。全てを魅了する美しさを持ち、愛され、妬まれ、愛し——いつだって、湖の中の世界に夢中なだけの伽藍堂。ただ、溺れるつもりはない。さあ、忘れ去られるために戦おう。
階段の軋む音が響く。
ストームは無意識に身を任せ歩いていた。
着いたのはいつも通り、図書室だった。
一歩足を踏み入れれば紙の香りが身を包んだ。
ゆらりと揺れる瞳の淀みが捉えるは知識に飢えた獣だろう。猟奇犯はターゲットを決めたみたいだね。
音もほとんど立てずに近付いて行くだろう。
「ごきげんようアメリア。なにか新たな物語をお探しで?」
《Amelia》
「み”っ!!」
静謐な……いや、静謐“だった”図書室に尻尾を踏まれた猫のような悲鳴が響く。
ような、ではなく間違いなく尻尾を踏まれたのだろう。
新たな物語を探していた……など彼女にとってはしたないことこの上ない。
「スッストーム様。
そういう事はせめてこう、心の準備が出来ている時にお願いします。
こう……驚いてしまいます。」
故に、彼女は未だに動揺の収まらない声音でストームに抗議の言葉を投げかける。
それはかなり無茶な物であり、オブラートに包まれ過ぎていて要領を得ないものであり、そのまま無視して話しかけてもアメリアは文句を言わないだろう。
可愛らしい悲鳴が響く精悍な図書室。
ねこふんじゃった♪ なんて慣れ親しんだメロディが突如として拙く焦ったリズムで流れたようだった。
「おっと、これは失礼致しました。
ですが失神してしまう程でもありませんでしたね。
貴方様がうさぎと同等で無いとこが証明されて、安心しました」
青年になるには少し高めのやわらかなテノールで告げる。ジョークのようだが、瞳にその真偽は映らなかった。
アメリアがそんなことを伺う前にストームは彼女の耳まで屈んで囁くだろう。
「アメリア、貴方様の知恵をお貸しください」
なんてね。
《Amelia》
「ええ、幸いなことです。
アメリアがウサギなら今頃逃げ出していた事でしょうから」
ストームの言葉に少しだけ頬を膨らませてむくれて見せたアメリアは小さく皮肉を言った後、耳元で囁かれた言葉に小さく頷いてから言葉を返す。
「……何の事を、知りたいのですか?」
知恵を貸してくれ。
かつてのアメリアにとって禁句であったそれを今は反射的に拒絶できない。
それは決して彼女に露出癖が芽生えだしているとかではなく、今の状況がそれだけ異常であることの証左であった。
“証左”であった!!
やはり、彼女は頷くと思っていた。
いくら知識を自ら露見させる事に浅ましさを感じているからとて、最近の彼女がおしゃべりなのはリヒトのノートからも透けて見えるようだった。
ストームは丁寧な所作のお辞儀と共に「ありがとうございます」と告げる。
そして近場の椅子を引き、アメリアをそこへエスコートするだろう。
彼女が座り、ストームもその隣に座れば互いに旅した物語について語らう“いつもの”風景がそこには広がっていた。
だが今日は物語は物語でも、ノンフィクションで完結していない話について。
「貴方様はここトイボックスに対し、疑念があるのですよね?
リヒトのノートを拝見した際いくつか貴方様の名前が記入されていまして、色々調べている事を知りました。
大丈夫、ジブンも同じ立場ですから。
具体的に何を調べ、何を知っているか簡単に教えて頂きたい。」
ストームはアメリアに聞こえるまで声を最小限までに落とし彼女に問い掛けた。
微々たる差ではあるが、表情を固くさせている。ちぐはぐの瞳が彼女を威嚇しなければ良いが……。
《Amelia》
「ああ、リヒト様のノートを。
それであれば……そうですね、アメリアが見た時にリヒト様のノートに無かった記述を上げるのなら。
二つ目の隠し倉庫。
伝えていない疑似記憶。
パントリーに隠された写真。
氷室の異変。
大体この辺りでしょうか」
何を調べ、何を知っているのか。
幸い、目の前のストームが聞きたいのは波動関数だとか方程式の話では無かったらしい。
ちゃんと共益に関わる物であることを確認して胸を撫でおろした後、アメリアは幾らかの納得とともに答えてから。
「それで、ストーム様はどういった情報を調べているのですか?」
端的に告げるアメリアに相槌を打つ。
彼女が答え終えるとストームは「なるほど……」の声と共に下唇に触れた。
デュオドールであるアメリアは、知識欲には逆らえないのだろう。
流石の探究心に舌を巻く。
「ジブンですか?
ジブンは……貴方様と同じく擬似記憶。
グレーテルのペンダント。
くらいですかね。あとはリヒトに伝えてあります。
……伝達済みで最新の情報でしたら、開かずの扉ですかね。」
最後の情報を告げるのには細心の注意を払わねばならない。ストームは手招きしてアメリアの注意を引き、近付いてきた彼女を自分の方へ引き寄せるだろう。
少々強引だが仕方ない。
今は監視の目が少し強いのだからやむを得ない結果だろう。
猟奇犯は伝え追えるとすぐに彼女を解放する。敵意を感じさせぬようにね。
《Amelia》
「むっ……」
話を聞くために近付いた所を、肩を掴まれ引き寄せられる。
乱暴な扱いに少々不満を言いたくもなるが……ともかく、伝えられた三つの内容から、グレーテルのペンダントと開かずの扉の情報は既知の情報である、と判断して。
「であればそうですね。
端的に行きましょうか、疑似記憶の内容は何か調査の役に立ちそうですか?
そして、無条件に話しても良いものですか?」
最も興味をそそった話題を深堀りすべく問いかける。
「残念ながら、まだトイボックスに関わるかどうか判断しかねます。得られる情報が少ないものですから。
それから、ジブンは条件無しで構いませんよ。
言ったでしょ? 知恵をお貸しください、と。」
ちぐはぐの目を細める。
やはり彼女は頼りになる友人だ。ストームは再度そう感じているだろう。
少し離れアメリアを覗き見ると、まだまだ不格好で不自然に口角を上げ笑って見せた。
しかし、悲しきかな少しも表情筋は動いていないようだ。
《Amelia》
「分かりました。
であれば語ってもいいものである。としましょう。
それで、ストーム様はどんな情報が欲しいのですか?」
なんとも不自然な笑みを浮かべるストームの様子をいぶかしがりながらも、無条件に話していいと言い切ったストームの言葉を信じる。
疑似記憶は相応に大切な物だと思っていたけれど……案外彼に取ってはそうでもないだろうか?
なんて考えながら、どんな情報が欲しいのかを問いかけてみる事にする。
アメリアの訝しげな表情を見て、ストームはすぐさま仏頂面に戻る。
慣れないことはするものじゃない。特に、この猟奇犯に至っては。
「そうですね。
ジブンは写真の件と氷室の件が気になります。
擬似記憶に関してはなるべく共有した方がいいかと。知る限りでは、皆様と関連してそうですし」
アメリアからの問い掛けに答えると、伺いを立てるように顔を傾げた。
それでいいか? と言った確認の為だ。
擬似記憶がみんなに関連するなどの判断はリヒトの情報であったが、どれも確証深いもの。ストームは深くそれを理解している。信じていると言った方が適切だろう。
《Amelia》
「写真と氷室、ですね。
二つともパントリーに行けば分かりますが……。
先ず写真について、少し前までカンパネラ様とどなたかの写真があそこには隠されていたのですが、何者かに破かれていました。
恐らくお父様ではなく……誰か、ドールの仕業だと思われます。
次に、パントリーの氷室に南京錠がかけられておりました。
ピッキングなどの解錠手段は思いつきますが……確実に錠に傷がつくでしょうから、やるならお覚悟の上で」
ストームの要求を了承して、彼女は情報を語り出す。
端的にまとめられた情報ではあるが、真相にはたどり着かないそれらに、もしかしたら少し物足りなさを感じさせてしまうだろうか。
「それで……疑似記憶について……なのですが、今は、語れません。
役に立つ確証がない……というのもそうなのですが、こればかりは……アメリアの大切なもので、大っぴらに話す事でもございませんから」
その上で、疑似記憶については語れない、とそう答える。
確かに、ストームの言うようにそうしたほうが良いのだろうけれど、それでも。
「パントリーですか。
後で行ってみることにします。」
どんなに些細なことでも今は恵みの雨であった。アメリアの心配とは裏腹に、ストームは感謝している事だろう。
続けて語られる擬似記憶に関しては、答えられないと断られてしまいストームもそれを受け入れる。
こればかりは仕方ない。
今までに擬似記憶を他人に語るなんてことしてきたドールなんてほとんど居ないだろう。それも大事な大事な記憶だ。
他人に語るものなんかでは無い。
流石のストームでもこればかりは理解出来た。
「お気にせず。
では、ジブンの擬似記憶を語りましょうかね。
一度目は文化資料室でした。
風船のモビールを拾おうとした時に頭痛がしまして、その時は夢でソフィアとすれ違いました。
二度目はカフェテリア。
テーブルのバケットを頂いた際に頭痛がしました。その時は………………」
言葉が詰まる。
ストームにしては珍しく、彼は言葉を探すようだった。
しばらくの間、沈黙が走る。
宙を舞う埃が、鬱陶しく輝いて見えた。
秒針がゆっくりと、一歩一歩確実に進む。
瞳の影をより暗いものにして沈黙を破った。
「……アティスを」
ようやっと告げると、伏せられていた睫毛を上げた。あんなものただの夢なのだから、と自分に言い聞かせでもしたのか。はたまた、居なくなってしまった玩具には興味が無いのか。
定かでは無い。
だが、話を変えるのには絶好の瞬間だ。
「他に知りたい事はありますでしょうか?」
《Amelia》
「ふむ……ソフィア様に、アストレア様が……」
ストームの語った疑似記憶の内容に考え込む。
自身の疑似記憶にオディーリア様が出てきたことや、フェリシア様の疑似記憶にアメリアが出て来た事を考えると、やはり自分たちはどこかで関わりがあったのだろう。
……が、ではどのように関わりがあったのかを推測できる情報が少なすぎる。
病院という形でうっすらとつながっているばかりだ。
「一先ずはそれだけ聞ければ良し、です。
アメリアが疑似記憶を語らなかったのにストーム様は語って下さいましたから。
十分すぎる位です。」
だが……聞けることは、聞いて意味のある事はこれくらいだろう。
ストームの申し出を断り、一先ず、この情報共有に区切りを付けることにする。
考え込むアメリアを見ながら、ストームは前のめりになっていた姿勢を戻す。そして、彼女が話を区切ろうと切り出すとストームは立ち上がった。
「監視の目も増えた事ですし、ウサギを追ってうっかり穴に落ちないようにして下さいね?」
椅子を元の位置に戻しながらアメリアに告げた。新しいクラスメイト、臨時の先生。今のオミクロンには危険要素が多過ぎる。
デュオドールの中でも特に知識欲の強いアメリアに釘を指しておくべきだと判断したようだ。
だが、アメリアの事だ。心配する必要は無かったかもしれない。
「……あぁ。あと、今度お会いした際にでもテセウスの船について、アメリアの見解をお聞かせくださいね」
ストームは丁寧なお辞儀をし、彼女の元を去るだろう。知識を教えて欲しい。と、ちょっとした意地悪な願いを残して。
彼はその手に刃物を隠し持ち、今も尚ターゲットを探し颯爽と霧の中に消え行くのだろうか?
猟奇犯は切り裂きジャックに成り下がるのだろうか?
不安定になった均衡の中でも、猟奇犯は宝石の詰め込まれたトイボックスで今日も宝石達に目を奪われているかもしれない──
アメリアと別れた後、ストームはパントリーに向けて歩いていた。だが、階段を降りきった時不意に逆方向に曲がった。
最近の彼の思考回路は鮮明で無くて、なにかの取っ掛りを覚えてならない。立て続けに彼の友人が犠牲になり、何も出来なかった自身への憤りを感じているのか。
はたまた猟奇犯らしく、自身の手で最高傑作に出来なかった事への憤りか。
それ以外か……。
やはり、猟奇犯に深く関わるものじゃない。
何をするか分かったものじゃ無いからね。
彼はそのまま学習室の扉を開け放ち、中へ入ってゆくだろう。
部屋の扉を開けると、無秩序に並べられた机と椅子の組み合わせが十六存在した。机が向かい合うのはいわゆる教卓であり、先生があなた方へ何か教えるときはもっぱら学園ではなく、この学習室を用いることが多かった。
現在、この学習室を使用している者は存在しない。静かながらんどうの空間に、あなたの足音がこだまする。
黒革の靴が床に触れると、軽やかな音が部屋中に響き渡った。逆を言えばそれ以外、全く聞こえない。
ガチャン、と扉の閉まる音でさえぐわりぐわりと大袈裟に反響し、静寂の存在をありありと示した。
不意に黒板に目を向ければ、几帳面で恐怖すら覚える程隙のない字がそこには書かれている。デイビッド先生の字で『擬似記憶とドールの結びつき』と書かれていた。
「消し忘れ……ですかね?」
記憶に真新しい講義内容でなかなか興味深かった事を覚えている。ストームは教室全体を見渡し、ゆっくりと一周するように歩き始めた。
授業内容を思い出してみるつもりなのだろう。
コツ、コツ、コツ、一定のゆっくりとしたリズムが教室内に刻まれ始める。
今日の学習室の黒板には、以前の講義内容であろう『擬似記憶とドールの結びつき』について、がデイビッドの美しい字でまとめられていた。
近頃あなた方は授業に身が入っているだろうか。それよりも気に掛けるべき事柄があまりにも多すぎて、思い返せば授業にも力が入らない気がした。無理もない、今もまさに己や周囲の身の危険がある中で、今まで通りに日常生活が送れるはずがないのだから。
故にあなたはまず授業内容を思い返そうとするだろう。あなたの優秀に造られた脳は容易く授業の記憶を掘り返すことが出来るだろう。
『君たちは日々ベッドで休む時に幸せな夢を見ることだろう。ある子は家族との団欒の夢、ある子は恋人との蜜月の夢、ある子は友人との行楽の夢。夢の内容は実に千差万別で、全く同じ夢を見るドールはたったの一人もいない。
それは君達の設計時、人格形成のために刷り込まれた擬似記憶の内容が再生されているんだ。
擬似記憶というのは“覚えているが実際には存在しない記憶”を指す偽記憶の造語だが、意味としてはほとんど同じ。個々にデザインされた美しい思い出と記憶の群は、本来無個性な存在であるドールの個性となり、また同時にいずれ君たちの所有者となる“ヒト”との接し方の指標となるはずだ。
また、君たちは自身の擬似記憶に関わること、それ以外の夢は見ないようになっている。ドールの設計上、“想定されていない”と言った方が正しいかな。だから君たちは悪夢に怯えることはないし、毎晩幸せな夢だけを見て眠れる。
……しかし私は、君たちが本当の意味で人間に近しい存在になるには、幸せな夢を見るだけでは到底足りないと考えている。この学園生活は君たちにドールとして必要な素養を与える他に、君たちのより豊かな感情を育むためにも不可欠な過程だ。もしこの生活で君たちが想定された夢以外の光景を垣間見たのなら、それは私たちにとっての大躍進となるだろう。』
──以前は、先生の最後に話した言葉の意味を理解出来ていたかは怪しかった。しかしあなたは今、幻のような記憶にない光景を垣間見ている。
彼の語っていたのは、そういったものなのだろうか?
ぼんやりと埃がかっていたメモリは、歩く音と共に鮮明になっていった。
ベッドに潜り込んで見るあの夢の話だった。
コツ、コツ、コツ……。
ストームはいつも棺桶の蓋を閉められると、母親らしき人物の膝の上に寝転がっている。
彼女はストームの頭を愛おしそうに撫でながら、言葉の尽くす限りストームへの愛を説いた。
それが何時も見る記憶。
これが実際には存在しない記憶と教えられた授業だった。理解していたはずのストームだったが、少し落胆していた事を思い出す。
だが、最近の母親らしき人物は今までと全く違う行動を取っている。それも、頭にヒビを入れるかのような痛みが走った時のみ。
「……先生の仰った大躍進と言うものですかね」
だとしたら、明日にでも解剖されてしまうのではないか? だなんて縁起でもない事を考えているのだろう。声色はどこか弾んでおり楽しげ。むしろ、その解剖実験に参加してみたいとすら考えているかもしれない。
今まで鳴り響いていたストームの足がピタリと止まった。
最後の言葉は果たして言う必要があったのだろうか? デイビッド先生の本当の意図は理解出来ないにせよ、なにか的をえている様な気もする。
そんな彼の末恐ろしさ、不気味さに湧き上がるのは恐怖か、好奇心か。はたまたまた別の感情か。
止めた足のすぐ先には紙が落ちている。
彼の抱くものはパンドラの箱にその正体を隠し、身を潜めた。顔を半分以上を隠す前髪を長く垂らしたまま、落ちていた掲示物を拾うだろう。
学習室の壁には、各ドールの授業の時間割をはじめ、授業内容をまとめた掲示などがたくさんピン留めされている。しかしそのうちの一枚が剥がされて床に落ちているようだ。
ピンから取り外すと言う過程もなく無理矢理に破り取ったらしく、紙の一部はビリビリに千切れてしまっている。
掲示物の内容も、何のことはない数学の課題の詳細についてまとめたものらしい。あなたにも数日前に課せられていた課題だ。
注意書きには『課題を忘れずに一生懸命取り組もう』という一文が添えられていたのだが──その吹き出し一面を塗り潰すように、別の文字が書き込まれている。
内容は以下の通り。
墓場。五十六個の歯車。青い蝶。赤い目。邪魔だ。
邪魔だ。邪魔だ。あなたは暗い穴の中。
邪魔だ。どうすれば? 黒い部屋。そして黒い人。
アレが邪魔だ。思い出せない。もう失敗は出来ない。
乱雑に破かれたであろう紙。
掲示されている他の紙は、全て綺麗に整列して貼られているのに対し全く酷い扱いを受けている。
数学が苦手な誰かが破ったのだろうか。
紙 なんて何でも良かったのだろう。
ストームは課題と注意書きが表示された一面の吹き出しに釘付けになった。
「…………一体どなたが?」
執拗に書かれた“邪魔”の文字。
穏やかでない事はすぐに察することが出来る。
それから、青い蝶や赤い目などのいくつかの単語。
これらが意味する事を理解するにはあまりに情報量が少な過ぎる。
ストームはしばらく文字達とにらめっこし、四つ折りにしてポケットに入れた。
誰の文字か判断するにはサンプルが要る。
ストームは学習室を出て全員の課題が集められているであろう部屋に向かうだろう。
扉は抵抗なく開く。先生は自室に鍵をかけることがない、それをあなたは理解している。
しかし扉が開いた先に、先生はいなかった。まだ別の部屋に留まっているのだろう。
内装はシンプルだった。まず、執務机と革張りの椅子が出入り口の正面に向かい合うように設置されている。この部屋に先生が居たなら、入室したその後に目が合うようになっているのだ。
部屋の片隅にはベッドがある。あなた方が眠る時に用いる箱形ではない、四本の足で自立した寝台だ。シーツは皺一つなくメイキングされており、抜けた毛の一つすら落ちていない。
奥の壁に沿うように本棚が設置されており、小難しい専門書、或いは童話の詩集など雑多なジャンルの本が整頓されて並べられていた。
この場所は自然と背筋が伸びる。
それは、窓が無いにも関わらず風が吹いているからか。
本棚に小難しそうな本が並べられているからか。
はたまた、生活感というものを感じさせない内装自体が原因か。
ストームは一歩足を踏み入れ、先生が不在だと言うことを確認するとまっすぐ執務机に向かった。
デイビッド先生の事だ。以前集めた課題も丁寧に保管しているだろう。
ポケット越しに持ってきた紙に触れる。
誰が書いたのか検討も付かない文字の羅列。思い出してみても不気味な物で、トイボックスに居る誰が書いたとしてもゾッとするはずだ。
だが、頭のネジが外れたドールは好奇心すら湧いているのだろう。
なんの躊躇も無く、自身らが行った課題を探し始めた。
先生の執務机にはいくつか引き出しが取り付けられている。引き出しを開いていくと、当然近日中にあなた方が取り組んだ課題がファイルに収められた状態で出てくるだろう。
このクラスへ訪れたばかりのウェンディとグレーテルを除く、オミクロンクラスの全員分の筆跡をあなたは確認することが出来る。
持ち出した掲示物に残された異様な落書きと一致する筆跡を探していくと、該当するものが見つかった。
……それはエルの筆跡であった。エルが書く文字と酷似していた。それ以外にはあり得ないと言うほどに。
「……困りましたね」
ストームは自身の目を疑った。
左右の目が違うから?
オミクロンに来てしまったから?
製造時にプログラムのバグがあったから?
様々な原因が刹那の間、無数に浮かんでくる。数々の可能性を秘めたそれらは可能性に過ぎずシャボン玉のように意図も簡単に消えてゆく。
ストームの目はちぐはぐであっても、有り合わせだと自嘲してるのは本人だけでありテーセラモデルのトップに君臨する程に夜目は効くし、視力も申し分ない。
プログラムに関してもそうだ。確かに彼は精神異常でジャンクドール扱いになったにしろ、普段は物静かに一歩引いた姿勢で振舞っており、はっきり分かるほどの狂気性を剥き出しにして自制心を完全に見失ってしまった訳では無い。
その上で、何度見返してもそれはエルの字だった。
記憶力の成長が目覚しく、エル自身もそれが楽しくて仕方のないように星々が埋め込まれた瞳を輝かせていたのが強く記憶に残っている。
最近では少し不気味な面も目立つが、依然として可愛らしい忘却の天使である事に違いは無かった。
物騒な文面に眠る天使様は悪魔に取り憑かれて居るよう。
「……あの方に聞いてみますか」
ストームは持ち出した紙を再び4つ折りにしてポケットにしまった。そして課題を綺麗に並べ直し整えると、元ある場所にしまう。
彼の体をするりと風が通りすがった。誘われるように髪が揺れ必然と視線も誘導される。
一体どこからの?
風向きを感じ足は自然と本棚に向かっていた。
難しそうな本が並べられている部屋の隅の本棚。あなたは何故かそちらから、風を感じる気がした。部屋の窓は空いていないはずだが……。
あなたは本棚自体に触れて、微かに感じた風の流れの出どころを探そうとする。本棚の角に指先が触れたところで、カタン、と微かに本棚が揺れた。床にあった溝に上手く嵌まったらしい。
本棚にはまるで滑車が付いたように、そのまま横に滑らせる事が出来そうだ。
本棚そのものを押し出し、横へとずらしていくと──その奥の壁に、今までは気付くことが出来なかった隠し扉が現れた。木製の重厚な扉で、捻るタイプのドアノブがが取り付けられている。
しかし扉には鍵が掛かっており、残念ながら開けることはできなかった。
本棚の一角に触れると、ギミックが発動したようだ。
意図も簡単に動かせるようになった本棚の奥には、ひっそり扉が隠れていた。
ストームは木目をなぞるように扉に触れる。
「浪漫チックですね」
素直な感想を口に出したかと思えば、ストームの指は木目通りにうねって下ってゆきドアノブまで降りてきた。白く骨ばった指がドアノブに巻き付いてゆく。括れた付け根の部分から、滑らかな曲線を描いているドアノブをまるまると覆ってしまうほどの手に金属の冷たさがじんわりと伝わってきていた。
軽く捻ったところでストームはその手を止めた。
───開いてない。
直感でそう感じたのだろう。
手を離しすぐに本棚の配置を戻した。
さて、部屋にはいくらかデイビッド先生が所有するにはあまりにイメージに合わないものがある。ベッドなんかは明白で、パステルピンクときた。恐らくジゼル先生の物だろう。男性が普段使っているベッドを女性がしばらく使うというのは如何なものかと思うが、シーツは自身の物なのだろう。
ストームはそれらが女性ものだと知った上で、なんの躊躇いもなしに手を伸ばす。
それが彼の捨て去ってしまった倫理観の片鱗でもあるから。
先生の部屋にある、あなた方が使うものとは違うごく一般的な四つ足のベッド。
先生は普段深い藍色の無地のベッドシーツを敷いているのだが、現在は鮮やかなパステルピンクの寝具が用意されているようだ。あなたの予想通り、これからジゼル先生がこのベッドを使うために、寝具の入れ替えを行ったらしかった。
あなたがブランケットを捲って寝具を隈なく捜索すると、シーツのとマットレスの間になにかが収まっているような違和感を覚えることだろう。どうやらそれは一冊のファイルらしく、表面は無機質な灰色をしている。
あなたはこのファイルから嫌な予感を鋭敏に感じ取るだろう。見ない方がいい気がする──そんな直感である。
それでもその直感を無視して、ファイルを開いて中を確かめるだろうか。
不躾に触れたパステルピンクのベッドから苺の匂いがストームの鼻を掠めた。たかが香りという情報を鼻から得てるだけのはずなのに、彼女の匂いはストームの身体に巻き付き支配するようだった。
同級生の女子モデルのドールとは明らかに違う。“女性”の存在がはっきりと感じ取れる残影のようなものがそこにはあった。
苺の鎖がストームを縛り付けるが、彼は無関心であった。
鎖の存在すら認識していない程で酷く冷めている。
紳士様はレディーファーストの精神が染み付いて、所作や言葉などに現れているが、女性を女性として認識し、ドギマギさせるのは記憶の中のあの人だけで成立している。記憶の外にあの人に似たドールを仕立て上げて忠順を誓う程だ。
枕や掛け布団を捲る度に襲いかかってくる の鎖を意に介さず、ただ機械のように隈無く調べた。
「おっと、これは…………」
ふとした違和感に手を伸ばす。するとファイルが姿を現し、同時に危険信号が頭の中に唐突に鳴り響き出した。
のっぺりとした無機質の灰色は警戒させるような形貌でも無いだろうに、まるで悪魔との誓約書でも入った物のようで全身の毛を逆立てている。
崖に立たされたかのような緊張感の渦。早くなる心拍がストームを必死に引き止めていた。
ストームは自身の警告も何もかもを無視して、崖の上から身を投げ出すだろう。
震える指先を確かに、ゆっくり灰色のファイルを開ける。
忠告を聞かない悪い子。
どうやらお仕置が必要らしいね。
パチン───────
ファイルを開くと“それ”は作動した。
指目掛けて振り下ろされた金属は、まるでギロチンの刃のようであった。ストームは一瞬の出来事がパラパラ漫画のように見えただろう。
誘い込まれていつの間にやら断頭台に乗ってしまっていた、哀れなドブネズミみたいに。
指の骨を折られてお終い。
「っ…………相変わらず惨いことを」
最悪の事態は避けられた。
指がどこかに吹き飛んでしまう程の威力で落とされた金属を、間一髪避ける事が出来たのだった。
しかし好奇心の代償は大きい。
指先がズキズキと広がっていくような痛みと熱を帯びている。爪が割れてしまった。
その中でストームは焦るでもなく怯えるでもなく。ただ、酷く冷めた目をしていた。冷めた目でトイボックスの教育者達の手段を選ばない徹底ぶりに、可笑しさすら込み上げていた。
別にディアに比べれば綺麗でもなんでもない指先が傷付いただけ。指はまだ自在に動かせるのだからなんの問題があるのだろうか。
ヒトのように治りはしない割れた爪を数秒眺めた。腕時計で時間を確認する程度に眺めると痛みすら忘れたかのようにファイルの内容に目を通していく。
「おや、これは……」
ファイルにはエーナクラスのドール達の情報と共に丁寧な文字で所狭しとメモが書かれている。モデル名、年齢設計、識別番号から抱え込んでる悩みまで。
教育者の鑑とでも言うべきだろう。些細な事まで書き込まれているのを見ると、ドールたちに対し必死に向き合っているのが伺えた。
ページを進めていけば段々とオミクロンクラスの自身らのプロフィールが書かれた紙も出てきた。こちらはまだ日が浅い為か、あまり書き込みはされていない。
「……少し派手に動きすぎましたかね」
ページを捲っていけば、ソフィア、ディア、ストームには『要監視対象』の印が押されているじゃないか。その記述を撫で目を細める。
今更止まるつもりなんて、さらさらない。が、やりようを少し工夫する必要がありそうだ。
再度パラパラと捲るとあるドールの記述に、ピタリと目が止まる。ストームは自身でも認識していないうちに顔を歪めているだろう。
「悪い方ですね。ジゼル先生」
『Alice』のページを前にストームは吐き捨てた。だがストームでも、その選択をする他に方法も浮かばず納得するほか無い。
小さな音を拾った。
それは初め、ほんの小さな雑音に過ぎなかったが、秒針を噛むのと同時に無視できないほどの存在感を放つようになっていく。
音は容易くストームの思考を塗り替えてしまう。
秒針の音が妙に早く、鬱陶しく足音がこだまする。
床を踏みしめる音、呼吸、鼓動、音、音、音、音、音色?
───煩い、煩い、煩い煩い煩い煩い煩い!! 止まってくれよ……。
なんて、パニックになってたのかな。
彼が精神異常を持った猟奇犯でなければ。
ストームは顔を顰めると、今から自身の邪魔をしに来るであろう音と対照的に静まった空気の中で、ピクシーすら気付かぬような舌打ちを響かせた。
窮地に追い込まれているだろうに、ストームは至って乱されることは無かった。生憎ストームのなかのオーケストラ共は、呑気に瞑想曲でも奏でているのであろうか。
ファイルに仕込まれていたであろう指ギロチンを元に戻し、ゆっくりとファイルを閉じることに成功すれば元の場所に戻すだろう。
そして外の様子を伺うように執務机に移動し、邪魔者を出迎える準備を整えるはずだ。
あなたはテーセラとしての優秀な聴覚でもって、階下からこの部屋へ向かって歩いてくる静かな足音を鋭敏に聞き付けた。それはすなわち、危機感に直結するものであっただろう。あなたは通常、一般のドールでは到底漁らない先生のシーツの裏側をひっくり返して、罠まで仕掛けられていたファイルを閲覧している。
この姿を目撃されれば、当然、あなたは今まで通りの無垢なドールではいられまい。疑惑を寄せ過ぎてしまうことは容易に想像出来た。
あなたがファイルを元通りの場所に戻しておくなら、危険の察知が素早かったため充分にその時間があっただろう。
執務机の方に向かったところで、その扉が開かれる。
──果たしてその先に立っていたのは、タイニーホワイトの結い髪をあどけなく揺らす、美しい女教師である。
ドールの中でも身長が高い少年であるあなたの目線にかなり近しい、上背のある彼女──ジゼルは、眼を細めてあなたの姿を見つめている。
「……あら、あなたは、ストーム……だったかしら。元々はテーセラクラスだった子よね、お話は聞いてるわ。
アストレアと同じ、プリマドールだったんでしょう? ……素敵ね。」
ジ、と彼女はあなたの色違いの双眸を射抜いている。あなたの様子を細部まで観察するかのような眼差しだ。
「デイビッド先生にご用があったのかしら。残念ながらあの人はいまお仕事で忙しいの、私が要件を伺うわ。」
執務机に向かうと扉が開かれる。
執行官が入場した時のようなピリ付きが部屋の中を駆け巡って、お世辞にも心地いいとは言えそうにも無い。
ほんの少し足を止める素振りを見せ、ストームのちぐはぐの瞳がほとんど平行に向けられた先、真っ直ぐジゼル先生の瞳とかち合った。
「ご認知頂いてるとはなんたる光栄。痛み入ります。
素敵、という言葉で揶揄されるにはまだ役不足です。」
“素敵”と言う割に少し湿っぽいような目線に侵される。
纏わり着いてくる不快感が身体の隅々にまで行き渡った、そんな感覚。先程のファイルにも記してあったように、やはり元プリマドールは厳戒な監視下の渦、これから過ごさねばならないらしい。
そのことをはっきり分からされた瞬間であった。
ストームは執務机の上に軽く握った手を置いた。
「すみません、頼むような事でも無いかと思ったのでジブンでかってに来てしまいました。
先日行った数学の授業の復習がしたく、デイビット先生が回収した課題を探しに来たんですよ。
ジゼル先生も引き継ぎや初対面の他のドール達との交流でお忙しいでしょう? 負担を増やしたくは無い。
ジブンは課題を見つけ次第出ていくので、ご自身のお仕事に集中してなさってください。」
エーナクラスを持ったジゼル先生に、ご立派な嘘が通じるとでも? 答えは考えなくとも分かるはずだ。
通じるとは考えにくい。
それなら、ホントの話なら?
彼女はストーム等のほんの少しの表情の変化や身体の変化などを一瞬たりとも取りこぼさぬように見ているはずだ。
だから正直に本当の事を言わなくちゃね。
ジゼルはあなたの瞳から少しも眼を離さない。あなたから逸らされない限りは、可憐なピンクダイヤモンドはあなたを捉え続ける。
「揶揄だなんて、謙遜するのね。褒め言葉は素直に受け取るものよ、だってあなたは、無垢で純情な子どもたちなんだもの。……テーセラクラスではそう教わらなかった? ふふ。」
その口元が微かな笑い声を落とす。
不気味なほどに静かで、喧騒さえも遠ざかった箱と化したこの部屋で、ジゼルは一歩、あなたの方へ踏み出した。黒い革靴が床に当たり、カツンという音を響かせる。
カツン、カツン、カツン。
そして彼女は、あなたの立つ執務机の目の前に立つ。眼を逸さぬままに。
「あなただって、私にとっては初対面のドール。ストーム……あなたと関わることは、私にとって負担でも不都合でも何でもないの。
そう私を拒絶しないで。課題なら私が探してあげるわ。」
──そう、言った直後。
ジゼルは、これまでのゆったりと穏やかな動きから一転。
机上に載せられたあなたの、きゅっと閉じられた握り拳の上に、素早く真っ白な手を重ねた。
不気味なほどに優しく温かい手が、あなたの手を逃さず固く握りしめるだろう。
「……それとも、私とお話したくないのかしら……」
果たして、あなたが机上に置いた手は、“割れた爪”が引っ付いている掌だろうか?
ジゼルはじっとりと眼を細めている。
ジゼル先生が扉を閉めた瞬間、音が消え去った。
ピンクダイアモンドが転写されてしまうのではないかという程、左右不調和の瞳を捕らえて逃げることが叶わなかった。
彼女の微かな笑い声が嫌に反響する。
ストームは、依然とその違い合う瞳を逸らすことなく据わった目線を返していた。
まるで日常茶飯事かのように瞳孔が揺らぐことすら無い。
甲高い彼女の革靴がカツンと、甲高く鳴り響いた。
一度、二度、三度……。
あっという間に机を挟んでジゼル先生がストームの目の前にまで来てしまった。
柔らかな口調で語られたのは、愛情を垣間見せるような言葉。警戒心の強い子供を絆すような語り口であった。
だとすれば、警戒心の強い子供の役割は必然的にストームに割り振られる事になる。
彼が子供だなんて冗談も程々にして欲しいものだが。
ストームが言葉を返そうと空気を吸った瞬間、手を取られた。
テーセラドールであるストームが反応できない、タイミング、語り掛けとの緩急、スピード。何もかもが計画されていたような、逃げる事を想定されていたような動きにストームの言葉は詰まる。
「…………」
言葉を発することなく吸い込まれた空気をゆっくり吐き出す。半分に開いた口もいつの間にか閉じられていて、ジゼル先生の問い掛けを最後まで聞いた。
重苦しく冷えきった空気に、彼女の手は気持ち悪い程暖かい。
彼女の手が捕らえているのは、どちらの手であっただろう。
割れた爪の手? 綺麗な指の方?
バレたら積み重ねた事、崩壊して塵となり春の風に連れ攫われてしまうのかな。
そもそもどちらの手を怪我しただろうか。
ストームは瞬きをそこそこに、自身を拘束した手に大きくスラリと伸びて関節の目立つ手を重ねることだろう。
「そんな事無いです。
なんと言いますか、お恥ずかしい話、女性の先生というのがほとんど初めてでして。以前は学園で見かけたことがありましたが、ここに来てからは全く……」
出来る限り動きずらい表情筋でたどたどしく苦笑した。
でもダメ。彼の笑顔は下手くそ過ぎるか不気味すぎる。
今回は前者のようで、食事の時に開ける程度にしか口が上がらなかった。
「……相談してもいいと言うのでしたら、きっとデイビット先生よりもしやすいかもしれませんね」
ストームは青年らしく恥ずかしがる素振りを見せつつ俯く、次に顔を上げた時にはアメジストとトパーズは同時に細まり鋭く輝くだろう。貴方様が臨時の先生で良かった、とでも訴えるように。
重ねたストームの手は“傷一つ無い”綺麗な手であった。
「テーセラクラスの先生は、優しいけれど男の人だものね。このオミクロンクラスだってそう。
──だからこそ、子どもの情動を持って生まれたあなた達には、母親が必要だと思わない? 全てを包み込んで許してくれる、そんな母親が。」
ジゼルの手はあなたの掌を包み込んだまま離さない。あなたのもう一方の掌がそっと重ねられようとも、絶対に。まるでこうしている間は、この場から離れることを許さないと暗に告げているかのようであった。
故にあなたは振り払わずにこの場に留まっているのだろう。居心地の悪さを感じながら。その頬に浮かばせた笑みを、いびつに引き攣らせながら。
なにせ彼女の手を振り払えば、今彼女が覆い隠している手の下の傷付いた爪を目撃されるかもしれないのだから。
「ええ、相談事があるならなんでも言って頂戴。テーセラクラスに戻れなくて不安かしら。またテーセラの先生に会いたい? お友達に会いたい? ……プリマドールに返り咲きたい?
ストーム、教えてくれる? ……なんでもいいのよ。」
ジゼルの目元が優しく細められた。
膠着状態は続く。
ハハオヤ……ははおや………。
水銀が雫となって降ってきた。
生暖かな温もりを宿しストームに降り注がれる。
喉に通してしまえば、気付かぬうちにドロドロ蓄積して、脳まで蝕んでしまうのでしょう。
母親。
金属や原っぱ、ドール、先生のように有り触れた言葉。
お母様────
ストームを逃がさないと言ったように彼の手を包み込んだジゼル先生の手はさながら、鉛のようだ。
それでいてストームの真髄にまで入り込もうとしてくる温もりがは、妙に甘美な香りであった。
突如として差し出された飴玉。
一口含めばバットトリップに沈んで行くのが目に見える。
優しい誘い文句も降り注いでくるものだから、少年はピンクダイアモンドの輝きを放つ飴玉から目が離せなくなった。
「なんでも? 本当に?」
青年になりきれぬ声色が、低く唸る。
彼女に重ねた手に自然と力が入り、拒否するようでいながら縋るような反応をみせた。
かと思えば、不意に力が緩む。
「ご心配おかけして申し訳ないのですが、生憎、今は相談事なんてありません。
ジブンは十分満たされていますよ“先生”。」
目の前にまで差し出され、あとは口の中に入るだけまで迫ってきた飴玉をストームは払い除けた。
飴玉なんて彼のシュミじゃないもの。
そんなもの要らない。必要ない。
彼はもう既に他のクスリにどっぷり浸かっているのだから。
今度は先程の拙い笑顔が嘘かのように、屈託のない笑みをジゼル先生に向ける事だろう。いや、その笑みは実際には彼女には向いていない。
───お母様は一人でいい。
「──ええ、“何でも”よ。私がなんだって、……聞いてあげるわ。」
強張る声が、重ねて問う。真偽を確かめる静かな言葉。
ジゼルは更にその上から重ねて、頬を包み込むような、鼓膜に沁み込む懐かしい子守唄のような、甘ったるい午後のパンケーキのような……それほどに優しい声で、鼻に抜けるような慈しみの声で首肯した。
それはあなたにとって、気味の悪いほどの寛容である。煙たく感じるだろう、怪訝がその脳を支配するだろう。
かくして彼は、あっさりと慈母の申し出を跳ね除けた。
ジゼルはそんなあなたの目を暫くじっと見ていたが、やがて煌々としたピンクダイヤモンドを瞼で覆い隠し、フッと口元だけの笑顔を浮かべる。
「──そう、それは良かったわ。悩み事は、無いに越したことは無いものね……」
そうして、あなたの掌に乗せていた自身の手をあっさりと外すだろう。あなたが望むならば、掌は閉ざしたまま。致命的な状態の詰めを彼女の目に晒すことなく、手を机上から下ろすことが出来るだろう。
その後ジゼルはそちら側、つまりは執務机の椅子がある方へ回り込み、引き出しを開いていく。数日分の課題がファイリングされたものを取り出し、あなたの名が書き込まれた書類の束だけをより集めてそちらに差し出しながら、彼女は首を傾けた。
「数学の授業の課題よ、探していたんでしょう?
ごめんなさいね、わたしはこれからこの部屋で荷解きをしたいの。もし他に用がないのなら、席を外してもらえるかしら?」
ジゼルは変わらず穏やかな笑顔だ。
感情を悟らせない巧みなポーカーフェイスであった。
夢の中の自然な温もりとは違う、繕われたような温もり。
纏わりつこうとする砂糖菓子のような愛情。
快く受け入れるには、ジゼル先生の母親役は大袈裟すぎた。もしくは、彼女がストームにとって特別過ぎた。
ストームをきつく拘束していた、気味の悪い温もりから解放された。
自由になった手をすぐに机から下ろす。
そして、自身の手を重ね前に組んだ。
指先は歪。割れた爪は確かに指に張り付いていて、マジックのように消えてしまったわけではなかった。
ヒトであってヒトでないのだからもう治る事も無いだろう。ほんの些細な傷なのに、それすら許されない高級品ドールだから。
“欠陥品”という言葉が前よりずっと、彼に似合う。
「ありがとうございます。
邪魔してはいけませんからね。お暇させていただきます。
短い間、よろしくお願いしますねジゼル先生。」
課題を受け取り、彼女の顔を見ればそこには何も感じ取ることの出来ない笑顔があった。
不気味な笑みという言葉を彼女に当てはめるにはあまりにも遠い存在と思えるが、それ以外の言い表しようが見つからない。
その不気味な笑みに仏頂面で向き合い、ストームは敬意と感謝を示すように深々と頭を下げると部屋を後にするだろう。声をかけられたとしても聞こえないふりまでして離れたがっているだろうからね。
少し遠い所まで歩けば足を止め、来た道を振り返ってみる。そこで初めてストームは大きく息を吐き出した。
「やりにくい人だな……」
不満の色をありありと剥き出しに、再び歩き出した。
劇場には証人が必要だから。
まだ見ぬ観客を探し出すために。
玻璃色と月魄の輝きを忌々しい夜に連れ去られてから、朝と夜をいくつか越えた。そしてまた朝を迎えた。
鬱陶しいほどに染められた晴天の青が、空に映し出されている。
ストームは朝食後、彼女に演奏室に誘った。
楽器の演奏を教えて頂きたい、だなんてご丁寧に理由まで添えて。
一足先に目的地に着いたストームは部屋に誰も居ないことを確認すると、部屋の奥まで進んで行くだろう。
彼女が来れば深々と頭を下げるはずだ。
「ソフィア、ご気分はいかがですか?」
《Sophia》
「それ。判ってて訊いてるでしょ。」
女王様は、楽器達が静かに眠る王室へと足を踏み入れるなり、丁寧に頭を下げる従者へ侮蔑にも似た視線を投げやる。機嫌が優れない様子である、というのは、一目瞭然であった。
けれどまあ、素敵な感性とご趣味をお持ちのあなたのこと。ここまでの流れを『予測』しての言葉だったのだろう。本当に。素晴らしい性格をしている。なんて、ソフィアはため息をこぼした。
「……それで? まさか人の神経を逆撫でる為だけに呼んだんじゃないんでしょう? 一体何を見つけてきてくれたのかしら、紳士様は。」
研ぎ澄まされたアクアマリンの破片が、湿っぽくあなたを睨みつける。この威圧が持つ意味など、もはや説明するまでもないだろう。だって、このソフィアの表情は、パッチワークのボタンの夕暮れ色と満月色とが、これまでに何度も映したことのあるもののはずだ。
予想通りの反応を予想通りの間で、まるで台本が用意されていたかのような会話を展開させた女王様と従者。
冷ややかな目ですら台本上での演出かのように思わせる。
女王様お墨付きの良い性格な従者は「失言でしたね」だなんて、“素敵な”言葉で締めくくる。
続く問い掛けに、依然として突き刺さるアクアマリンの光りに不揃いの瞳は微動だにせずに淀みを浮かばせていた。何度も今度も見た表情。強く刷り込まれて瞳の奥にでもこびり付いているようだ。
「えぇ、まずはそうですね。
我が友が調べて下さったことから……」
ストームは扉の方に一度目線を向ける。
関係の無いドールズが入ってくる気配が無いことを確信してから、リヒトから教えて貰った情報を話し出した。
ドールズの記憶は虫食い状態である事。
オミクロンクラスには第三者の存在がある事。
青い蝶の存在。
アラジンというドール。
洗浄室の作業台の跡。
旧友とカンパネラ達がソフィア達と日を同じくして柵の外へ行き、ツリーハウスを見つけた事。
半分のドール、シャーロットの存在。
涙の園計画。
リヒトのノートから読み取れた情報を淡々と告げてゆく。
中にはソフィアの知っているものもあるだろうが、質問する間も入れさせずにストームは一気に喋ってしまった。
ソフィアなら理解出来るだろう、と確信してた為だ。
「……以上が、リヒトから聞いた情報です」
ようやっとストームが話の折り目を付けると、彼女を見つめる。情報を飲み込んだ事を確認すれば話を続けるだろう。
《Sophia》
情報の、停滞が。一度に沢山の事を聞きすぎている。けれどもソフィアの脳は、意思とは無関係に正常にそれらを処理していって、感情は置いてけぼりだ。言いたい事は沢山あった。けれどストームが話の途切れを許すことはなく、結局列車は終点へと辿り着いてしまった。それは、止めようがなくて。
列車が完全に止まった頃、ようやくソフィアは言葉を赦された。ストームは「リヒトからの情報」であると言うが、つまり、あの子はこんなにも重い話を抱えていたというのか。それが気がかりでならないのと、──もう一つ。
「頭痛をきっかけに、記憶が蘇る……?」
思い当たる節が、ひとつ、あったのだ。忘れもしない、あの鮮血を塗りたくったみたいな真っ赤な靴。蘇るのは、作り物──であるはずの、あたたかい記憶。あれは、一体なんなの?
「……それ。経験したこと、あるの。誰が、なんで……それが起こるの。……擬似記憶って、なんなの?」
アクアマリンは、困惑に渦を巻いて。作り物なんだと散々嫌って、憎んで、突き放した『愛した』記憶の正体。それを知りたいと思うのは、きっと、当然のことだ。
ソフィアを信頼し、一気に話してしまった。
そして思い出したかのようにお伺いを立てると、ソフィアの表情は困惑に満ちていた。
ぽつりぽつりと語られる彼女の言葉にストームは目を丸くさせた。
「そうですか、貴方様も……。
誰が何の為にそういった現象を起こしているかは定かではありませんが、先程も言った通りアメリアを始め数人のドール達が頭痛を伴う擬似記憶の再生を経験しています。」
風船が自身の目の前で揺れる。
真っ赤な風船が。
自由になりたがっているのに、彼はストームにぎゅっと捕まっていてそれを許されない。
代わりに彼がストームにもたらしたのは、頭を締め付ける程の頭痛と愛して止まない“お母様”との記憶。
それから────
「ジブンも経験しました。
その記憶の中、ジブンは貴方様とすれ違った。
それからこの前は……アストレア。
あの白昼夢は一体何なのですか?」
ストームは小動物にも似た可愛らしい顔を限りなく石像に近付けて問いかけた。凝り固まった表情の奥、ちぐはぐの瞳は納得のいく答えに飢えているようだった。
デュオドール、それにプリマドールにも輝いた彼女の方が自身の見解よりずっと真実に近付ける。そう信じて疑わない。
《Sophia》
「……そんな、こと、言われたって。わかる訳ないわよ……」
その声はどうやら、たんたんと語るように聞こえて、何かに追い立てられるような逼迫した焦りを孕んでいるらしい。飢えた獣のごとくギラついたヘテロクロミアは、他人に『喋らせる』為のナイフであるようにすら見えた。
けれども、わからない。わかるはずもないのだ。あの日見た記憶は、自己防衛のためにわざと嫌ったものであり、かつごくごく小さな断片的なものであったのだ。あれの正体など分かるはずもないし、ましてや他のドールもあの痛みを体験しており、更には夢に他のドールが出てくる事もあるだなんて、想像すらもできなかった。
……けれど。これが、自分だけの話でないのなら。
「……あいつ……ディアは。ディアに話は聞いたの?」
四人のプリマドール。別クラスの三人の親友。その一人。相変わらず、ひらりひらりと気まぐれにみんなにちょっかいをかけているらしいことは知っていたけれど、思い返せば最近話す機会は減っていた様に思う。もしかすれば、彼だって……幻を見ているかも、しれない。
「……擬似記憶は、ただの『擬似』記憶だと思ってたけど。ただの作り物って訳じゃないみたいだし、調べてみる必要は、あるんじゃないの。」
猟奇犯は自身の意識とは裏腹にナイフを突き立てていた。
まるで納得のいく答えを言わないと刺すと脅しをかけているように。
それに気付いたのは恐らく、ソフィアが戸惑いを含んだ瞳で分からないと言った時。ストームはほんのわずかに眉を上げ、自身の行いにあっけらかんとした表情をして見せた。加害者だと言うのに。
そのまま黙りこくって、ソフィアの困惑の表情を見詰めていればストームが憧憬を抱きありふれた単語で締め付けられている彼の名が挙げられた。
「申し訳ございません。分からないんです。
ジブンがソフィアを見た話はディアにしたのですが、その後そういった話は……」
言葉を半ばに切るとストームは首を横に振った。あの時はまだアストレアがお披露目に出される前。エルのノートに“15名”のドールの名と簡単なイラストを描いたのを覚えているが、だいぶ昔のことのように感じる。
時間はミシェラに続いてアストレアまで奪い去ってしまって、いずれも止まることを知らないのだから余計。
「そうですね。では今後尽力致します。
それからジブンの得た情報なのですが。
単刀直入に言いますと今回のお披露目において、スクラップ対象になっていたアストレアですが今期は無しになっていたそうです。
フェリシア達が入った塔でこの情報を得ました」
ストームは目を伏せちぐはぐの瞳を前髪の奥に隠してしまった。熱を帯びない言葉の節々に僅かな苦味を含んだかと思えば、反響もせずに消えてゆく。
舌の上には苦味がこびり付いて離れやしない。
《Sophia》
「……、そう。なら、またそのうち話さないと、かもね……」
この小動物は一時はけろりとした顔をして見せたものの、されどその嵐は瞬くうちに過ぎ去った。ヘテロクロミアに、翳りが差したようにすら見える。いかなる猟奇犯であろうと、人の子は人の子であり、人形は人形で、子供は子供である。そういう、事なのだろう。
「……塔ってあんた、はあ? まさか入ってきたの? ……正気……??」
ストームが放った言葉。スクラップだとか、アストレアという名前だとか、そういうのよりも先に、ソフィアはある一点に気を取られたらしい。アクアマリンの片方をひくりと歪ませて、薄汚いドブネズミでも見つけたかのような目をあなたへ寄こすだろう。……悲しいことに、あなたはこの視線にも慣れているはずだ。
「……ウェンディ──新しくクラスに来た子、いたでしょ? その子に事情を聞いたわ。アストレアはダンスホールへ行ったみたいね。……スクラップ対象が無しだと記されてたなら、怪物に処理されるのは『スクラップ』ではないって事……なんでしょう。知らないけど。」
……ソフィアは、不思議と苦しむような素振りは、見せなかった。そればかりか、親友が怪物の餌となったであろう事実を平然と振りかざす。冷静に、淡々と。
そうして、熟考するような素振りを見せたあと。苦みを噛み締める様子を見守ったのちに、ソフィアはゆっくりと口を開く。
「……擬似記憶の話だけど。『何か』を見ることで記憶が呼び起こされるんでしょう。そして、あんたの記憶の中にあたしが出てきたんなら、あたし達の記憶はどこかで繋がってる可能性がある。ディアも呼んで、記憶を呼び起こした物をみんなで見に行くのがいいと思うんだけど。」
それは、珍しく。『提案』というのに相応しい声色と、言葉である。きっと紳士様は頷いてくれるのだろう、だろうけれど、首を横に振ったとしても咎められはしないような、そんな声色であった。
軽蔑するような視線。受け入れ難いものを見る目だ。
慣れてしまったストームはどうかしてる。
むしろ自分は至って正気で、ソフィアがその整ったかんばせを歪ませる意味がわからないと言った風に瞬きまでして見せた。
「ダンスホール……そうですか」
月魄を靡かせた彼女は間違いなく舞台上で主演を飾ったことだろう。この前はカーテンの後ろで舞台を見ていただけだったというのに。彼女は演技が上手すぎたんだろうね。
そんな事より、ストームはソフィアの平然とした態度に驚いた。彼女の事だから毎晩のように泣き叫んで戻らぬ親友に心を痛めているとばかり思っていたから意外だったのだ。もっと取り乱す姿を見たかったのだろうか。
猟奇犯の表情は依然として読み取れず、驚いているのか落胆しているのか何も感じていないのかソフィアですら分かりはしないのかもしれない。
珍しく挙げられた提案に、ストームは自身の下唇に触れた。
擬似記憶はドールそれぞれの個体にあるヒトらしさを形成するためにプログラムされた特別なものであることは、どのドールにも共通認識されているはずだ。その記憶を尊いものとして、自分の中でのみ抱え込む個体も居るくらいだ。繋がっているなんてにわかには信じがたい。
でも、お前達は違うんでしょ────
「……そうですね。繋がっているとすればソフィアの言う『何か』をジブンやディアが見ても感じ取れるものがあるかもしれませんし、試す価値はあると思います」
ストームはソフィアの予想通り頷く。命令口調であれども提案として確認を取るように伺った口調であれどもストームには変わりないようだ。
ただ少し、彼女にしては弱々しい態度だと感じる他には何も無い。
《Sophia》
「……何。怪物に食われた事を嘆いて喚き散らしでもした方が良かったかしら? お生憎様、あたしは今とっても落ち着いてるのよ。
それはいいとして、あんたはリスキーな行動を慎むべきね。怪我でも残したらどうするわけ? もしも『先生』にバレたら……言っておくけど、これは別に心配じゃないから。あんたのヘマに巻き込まれてこっちまで疑いを向けられるのは勘弁だって言ってるの。あたし達プリマドールが注目を浴びる事は避けられない、もっと慎重に動くべきだわ。わかってる?」
きょとんと目を丸くし、驚きの瞳を浮かべ続けるストームを見て、やれやれと息を吐きながら。この男、何一つわかっていないのか──と。
ソフィアはひとつ嘘をつく。心配でないわけがないのだ。如何なる猟奇犯であっても、馬車馬の如く働かせていても、一応親友である事には変わりないのだから。
それ故か、あなたの行いを咎める言葉は、あなたにとって厳しいものであったはずだ。『プリマドール』の名を出すことは、すなわちこの可愛らしい猟奇犯が最大の敬慕を抱くあの人物も巻き込むことと同様で。それすらも、傷つく可能性があると言っているのだから、多少なりともあなたの無鉄砲さにブレーキをかけるキッカケとなっても良いはずである。
「でしょう? 擬似記憶が何なのかは一体分からないけど、ドールの仕組みを知る事はトイボックスの裏にも繋がるかもしれないし、ね。
……でも、その前に。あたしは話したい子がいるの。あんた、同席しなさい。」
ソフィアは、言葉を切る。そうして、唐突に。今度は『命令』として、とある対談に相席するよう言い放つ。アクアマリンはただ静謐を帯びている。その言葉の真意は、まだきっと、分からないだろう。
喉の奥まで溜められた不純物を吐き捨てるような溜息。
後に続くのは心情理解が余りにも乏しいストームに向けた呆れ。だが、そんな単純なものじゃない。
その正体は憤り、悲しみ、プライドが包み隠した心配、複雑に絡み合って読み解くのが少々面倒になったお説教だった。
「すみません、出過ぎた真似を。
自重致します」
胸に手を添え目を伏せる。
ソフィアの最もな言葉は猟奇的な彼にもよく響いたのだろうか。発言、行動共に自身の厚顔無恥な態度を深く詫びた。
彼女もそうだが、彼を巻き込む訳にはいかない。
思惑通り、ストームに一時的ではあるものの強いブレーキがかかっている。
ゆるりと上げられた睫毛の奥は、そう確信させるような瞳が据えていた。
「………………えぇ、同席させて頂きます」
話したい子、とは。
ストームは命令を言い放たれると様々なドールの顔が浮かぶが、全く検討もつかず一先ず女王様のご命令に従う事にした。
ちぐはぐの瞳にアクアマリンは何も語ることは無かった。
《Sophia》
「……ま、行動を改めるならそれでいいわ。幸い怪我はないみたいだし、あんたの事なら痕跡を残すようなヘマもしてないでしょうし。」
恐らくだけど、幼い猟奇犯さんの好奇心を押さえつけるには、我が言葉は良く効いたらしかった。……ああ、ほら。この男の厄介な所は、このゆらめく瞳にあるのだ。長く伸びた睫毛の奥、新鮮な果実のように愛らしさとみずみずしさをたたえたジュエリーがゆらゆら鎮座している。それは、こちらの怒気を著しく剥ぐものであるのだ。毒気を殺されたらしいソフィアは、再び長く溜め息を吐いて、お叱りをやわらかな言葉で終いにしてしまった。
「それじゃあ………そうね。上客の居所の目星はついてる。着いてきてちょうだい。」
そして。あなたが『はい』と言うのが当然のことだ、といった調子で頷いた女王様は、くるりとあなたへ背を向けて教室の出口へと向かうだろう。その足取りは確かで、自分の予測が絶対だとでも言うような自信に満ち溢れている。もちろん、このしっかりとした軌跡をあなたも後ろから追いかけて歩むものだ、と確信しながら。
階段を上り詰め、寮の最上階に位置する埃臭い書物の蔵に辿り着く。図書室の天井は四階部分までを突き抜けているためか、とても高い。そして、木製のロフトを介して上階にも数多の書物がところ狭しと保管されているようだ。
図書室はほの暗く、壁に取り付けられた卵型の照明をつけてもまだ暗い。
屋根裏の部分に切り取られた小窓から差し込む陽光が、空気中に舞う埃を幻想的に煌めかせていた。
そんな図書室の奥で、本棚と向かい合って立ち尽くす一人の少女を見つけるだろう。揺れる三つ編みは鮮烈なバーガンディ、陽の光を通す事を知らぬ真っ白な肌には、ラズベリーの瞳が載っている。
彼女は本棚から一冊の本を取り出し、抱えていた。
そこで図書室へと階段から上がってきたあなた方に気付き、振り返る。
その熟した瞳に、意志の強いブルースフィアを反射して、一瞬眼を見開いて。
「──ソフィア、さん……」
静かな図書室に、小さな声が震えて響くだろう。
《Sophia》
「ごきげんよう、お嬢さん。久方ぶりね? またお逢いできて嬉しいわ。うふふ……」
魔女は、嗤う。ああそれはまるで、純粋無垢な少年少女をあまあいお菓子で誘い込んで、罠に嵌めんとするようではないか。そうだ、その笑顔にはひとひらも善は感じられない。いたいけなきょうだい愛を切り刻んで無に帰してしまいそうな、攻撃性のある害意を孕んだ笑顔だ。矮小な小娘。『お姉ちゃん』。あなたの本質が変わっていないのなら、きっと、そう捉えるのだろう? その笑みは、一種のファンサービスでもあったようだ。
「なにかしら? グレーテルさん。亡霊でも見たみたいな顔をして。ね、あたし達せっかく『また』同じクラスになれたのだから、今度こそ仲良くしましょうよ。あたしずっとあなたと仲良くしたいと思ってたのよ。
だって、あんな暴挙に出──いいえ、じゃれつき方をなさるドールは初めて見たんだもの! 面白くって仕方がないわ。……ああ、わかってるとは思うけど……後ろにいる男はテーセラの元プリマドール。あたしの優秀な手駒でもある。どういう意味か、お判りよね。〝〝元〟〟デュオクラスのグレーテルさんなら。」
クスクス。厭な笑い声と共に、魔女は、数歩ラズベリーへ歩み寄る。ブルースフィアは細められ、口角はにこりと上がっている。先程と、何ら変わらず。さらりと脅し文句まで添えてみせ、この哀れな子娘から一切の抵抗の手段を奪い、拷問とでも言わんばかりに言葉で痛めつける。──これはおとぎ話なんかではない。だから、魔女はもっと狡猾で、業火に突き落とされるような隙を見せることもなければ、少女はもっと無力で、護るべき少年はここにいない。
ああ、なんと悪辣な物語だろう。きっと、この物語の主人公はこの恐ろしい魔女の方で、いたいけな少女を傷つけ甚振りいじめ抜くことが美談として語られるのだ。……そして、当然それを覆す術も、あなたに与えるつもりは毛頭ない。ただでさえ普段から暗く沈んだ雰囲気の図書室は、更に昏く昏く、闇と湿気を帯びて行った。
一見眦を下げて優しげに見せている、その美しく悪辣そうな笑顔はまるで物語のヴィランを体現したようだ。自身から発される悪意をきっと彼女は隠そうともしていない。隠す必要が無い、格下だと考えているからだろうか。
以前、あなたに底知れぬ憎悪を見せて牙を剥いた、弟への狂愛を抱くグレーテルは、本を抱え持ったままあなたの姿を凝視している。
「────、」
濁った深紅の双眸は従順にあなたの美麗な笑みを映している。無感動に、無機質に。瞳のように赤い唇が微かに震えていた。グレーテルはやがて、一歩そちらに歩み出した。
カツン、カツ──
しかしその歩みは、完全にあなたの元まで肉薄する直前にぴたりと止まる。彼女の視界に、青髪の騎手の姿が滑り込んだからだろう。
デュオドールの邂逅を演出するは、タルティーニの悪魔のトリルだ。
静かな図書室で対峙し、睨み合うドールの張り詰めた剣呑な美しさは、まさしく悪魔的であった。
「仲良く、したい? あなたが──この、わたしと?」
グレーテルは抑圧的な声を溢した。あなたに向けてというより、床に落としたような呟きだった。
「だったら、わたしの弟とも仲良くしてくれればよかったのにな。……残念よ、ソフィアさん。
でも、せっかくまた同じクラスになれたっていうのは、同意見。」
彼女は今度こそあなたの目の前まで歩み寄った。
再び顔を上げた、彼女の表情には、真冬の湖畔にさす月明かりのように、冷え冷えとした笑顔が浮かんでいたことだろう。
「仲良くしましょう、ソフィアさん。わたしたち、今度はお友達になれるかな? ……なれるといいな。なれるよね。」
グレーテルはその真っ白な手をあなたに差し伸べる。握手を求めているのだ。
仲良くなりたいと言ったのはそちらだ。握手を断ることはまさかありえないよね、と暗に言いたげな様子で、グレーテルは目を細めている。
《Sophia》
「ふふ……弟さん? そういえばいたかしら、そんな子も。」
固い靴の音がする。近づいてくる。熟れきったラズベリーの、甘ったるい香りが肺に重くこびりつくみたいな感覚を、臆することなく嚥下して。魔女は、まだ嗤っている。
この張りつめた空気は、まさしくヴァイオリンの堅い弦そのもので。奏でられる旋律は、少女たちの冷ややかな笑みに、狂おしいほど麗しく輪郭を落としている。
「ええ──もちろん。きっとなれるわ。お友達。これからが楽しみね……ねえ? グレーテルさん?」
柔らかく溶けた氷は、されど未だ冷たく。ラズベリーを睨んで、優しげな笑顔を象っている。
もし。もしあなたが。到底水に流すことなどできないであろうあのどす黒い害意を、その手にわかりやすく仕込んでいないのなら。ソフィアはそのままなめらかな白磁の指先をすくいとって、そのまま両手で包み込むように握り、小さく上下に揺らしてみせるだろう。ほら、これで貴女ともお友達。すてきなクラスメイトだ。これで満足かしら?
あなたが握り返した、グレーテルの手は冷ややかだった。温もりというものが一切感じられない、痩せて骨の浮かんだ指先で、あなたの掌を彼女は握り込んでいる。まるで本物の人形のようである。抱き締めて愛でるための愛玩用でなく、ショーケースに仕舞われるための何人も触れることを許されぬ観賞用のドールのようである。
灰燼の如く冷たさは、まるきりあなたを拒絶しているように感じられた。睫毛の下から窺い見る翳ったワインレッドがあなたを逸らさず見据えている。
しかしながらグレーテルは、眦を和らげてあなたへ微笑んでみせた。苛烈な憎悪など綺麗に払拭して見せたと言わんばかりに。
警戒に鋭く光るあなたの剣のような眼光を前にして、グレーテルは世間話のように口を開く。
「……ねえ、ソフィアさん。さっきね、そちらの方に本の整理を手伝ってもらったの。ストームさんだったよね。
オミクロンクラスの子は親切な子が多いのね、わたし今まで、ここの子たちのことをすごく誤解してたみたい……」
するりと、あなたの掌のうちから包み込まれた手を引き抜くことが出来たなら。グレーテルは未だあなたの温もりが残るような自身の手の甲をそっと撫でながら、穏やかに目を伏せて続ける。
「デュオクラスが居心地悪く感じる筈だよね。ソフィアさん、こっちのクラスに来た後の方がよっぽど楽しそうなんだもの。そうなんでしょ? 気が合うお友だちがいっぱいいるんでしょう、ヘンゼルやベガさんよりもずっと、同級生を忘れられるぐらい楽しい子たちが。」
《Sophia》
「ふぅん……………」
てのひらにさほど力は込めていない。無機質な冷たさは簡単に離れていって、そうして。温もりを抱きしめる少女の姿を静かに見守るだろう。あの激情をしまいこんでしまったかのような穏やかな語り部をじっくりと観察して。僅かな疑惑の目を孕んだ視線を後方に控える騎士へ向けた後、少ししてからようやく、ソフィアはまた口を開くだろう。
「そうねえ……だって、デュオクラスって頭の硬い奴しかいなかったんだもの。あたし、ガリ勉に興味はないのよね。
それと比べてこのクラスは最高! みんな優しくて面白くて話しやすい……変な奴もいるけど、その分飽きないわ。あたしは同じクラスのみんなの事が好き。元クラスメートよりも。ずっと。
……だからね。みんなに怖い思いだとか、不快な思いだとかは一切させたくないの。分かってくれるかしら? 妹同然の子達だっているのよ、ここには。」
やわいラズベリーに相対するアクアマリンは、ずっと堅いままだ。冷たい微笑みを崩さないまま、ソフィアは当てつけるような言葉を並べて、そして。唐突に声は低くなる。それは、鋭い刃を首元に突きつけるような声だ。口元のみが笑顔の形を引きずったまま、瞳には一片の優しさもない。──『警戒』。堂々と、それを突きつける態度である。先程友人として握手をし合った相手に対して、だ。
言葉を言い切れば、ソフィアは再びアクアマリンを細めてニコニコと線で描くような笑顔のパッチワークを貼り付ける。依然、悪魔のトリルが鳴り止むことはないだろう。
「ねえ。どんな本を見ていたのか、あたしにも教えてくれない? 『お友達』なんだもの。ね?」
「そっか。素敵、だね。青写真だね。理想的だね……。
あなたには、デュオクラスにいた頃より大切な子がいっぱい居るんだね。ふふ、何だかそれを聞いてわたし、安心しちゃったみたい。
もちろん、その気持ちはすごくよく分かるよ。わたしだって弟のヘンゼルが怖い思いをしていたら悲しい。出来ることなら幸せを願っていたい……わたしたち、きっと似たもの同士だね、ソフィアさん。」
ヴァイオリンの奏鳴曲は鳴り止まない。あなたがグレーテルを拒絶しているから。悪魔が瞳の中を泳いでいる。睨み合いの停滞はまだ続くようだ。グレーテルはもうとっくに、平和惚けした表情に移り変わっているのに。その頬にてんとう虫が留まろうとも、違和感すら感じない。
これが煮えたぎる憎悪をひた隠した演技であるならば、彼女を大根役者とは呼べないだろう。
「うん、いいよ。ソフィアさんにわたしのこと知ってもらうのも、仲良くなるために必要だよね。でも、きっとあなたは知ってる本だから、あんまり面白みはないと思うよ。」
彼女が差し出したのは、キルケゴールの『死に至る病』と呼ばれる古典だ。古びた装丁に覆われているが、大切に管理されているためか今も十分に問題なく読み込むことが出来る。
デュオドールのプリマであるあなたは当然この本の内容を知っている。
「ソフィアさん。ドールは、ウイルスの影響を受けないんだって。先生が授業で教えてくれたよね。だから本当は、ドールは病気になんかならない。
でもわたしたちは、限りなく人に近付けるように造られたドールでしょう? だったらきっと人間と同じように、死に至る病はあるはず。人らしくあるように心を持たされたわたしたちは、きっと『絶望』で殺せてしまえるの。」
あなたの手のひらの上に、ずしりと重みのある哲学書が載せられる。大いなる知識の源泉が、手から手へ移りゆく。
グレーテルは『死に至る病』をあなたに委ねて、愛らしく、人懐っこく微笑んだ。
「──だからわたし、お友達になれたあなたに捧げるよ。素敵な絶望を。合理的で美しい大病を。
あなたに地獄に堕ちて欲しいから。地獄でも苦しんで欲しいから。」
《Sophia》
「そうね。似た者同士。きっと大切な子を何をしてでも護りたいと思うのもおそろい。違いをあげるなら、離れ離れかそうでないかって事くらいかしら。ふふ。」
昏く埃の舞う空間で、くりくりと丸っこいアクアマリンをきらめかせて、魔女はラズベリーにフォークを向けたままだ。それをつついて転がすように、簡単に心のやわい所をいたずらに刺激してみせたりして。
そうして。名女優から重みを受け取って。窓から差し込む日差しに表紙がてらてらと縁取られるさまは、やはり、血みどろの激情の現れであるようにしか見えないのだ。
少女のひまわりが咲いたみたいな笑顔と、さずけられた病とが、あまりにもちぐはぐで、胃がもたれそうだった。
──ああ、愉快だ。まさかそんな感情を『向けられる側』になるとは。皮膚を黒く焦がすような憎悪でさえ、魔女にとってはほんの余興にしか過ぎなかったのだ。
「へえ。良いセンスのプレゼントね、グレーテルさん。 ふふ……あはは……! 渡せたらいいわね。ええ、渡せたら。」
この魔女は、異常だ。狂っている。くつくつと、高らかに笑い声を上げて、目元に滲んだ涙を指先ですくって。何がそんなにおかしいのだろう。やっぱり、壊れてしまっているのだろうか。
……いいや、違う。この魔女は、 ずっとこうだった。叡智の頂に君臨していた頃から。冷たく張り詰めた王政を築いていた頃から。矮小な者の強い想いをつまみとって、コメディとしてあっさり消化してしまうような、そんな存在だった。どこまでも澄んだ穢れなきアクアマリンで、どこまでも悪辣に人を嗤う。そんな、そんな女だった。きっとあなたも、知っている。魔女を魔女として憎んできたならば、魔女が魔女たる所以を。
「ふふっ………はあ。楽しみね、お友達からの贈り物だなんて。もちろん、あたしの為に…あたしにだけにくれるのよね? 応援してるわ。サプライズが上手くいくこと。」
魔女は嗤っている。
グレーテルが放ったのは、間違いなくあなたに対する衰えのない敵愾心、憎悪、悪意といった類いであった。酷い言葉を、彼女は穏和な表情を崩さぬままにあなたに言い放ったのだ。
そう、当然ながら、グレーテルはあなたに対する殺意を片時も忘れたことはない。目に見える形で発露することをしなくなったというだけ。少し大人になっただけだ。
それを真正面から受け止めておきながら、尚も卑劣な魔女という姿を覆さないソフィアの振る舞いも常軌を逸していた。あなたの首筋には、まだ凍てついたようなグレーテルの手の感触と殺意とが、こびりついているだろうに。
それよりも巨大なトイボックスの悪意に立ち向かっているからこそ、グレーテルの恨みなど児戯に付き合うようなものなのかもしれない。だが。
あたしにだけに、とプレゼントを乞うソフィアの目からじっと逸らさないまま、グレーテルはうっそりと微笑んだ。
「……あなたがどうすれば絶望するのか分かるんだ。あなたが何を願っているのか。あなたが何を恐れているのか。
安心して、あなたには何もしないから。だって素敵なナイトがわたしを睨んでるんだもの。わたし、デュオモデルだから、無謀なことはしないよ。」
カツン、カツン、と革靴の音を響かせて、グレーテルはあなたの隣を擦り抜ける。本当にこの場では何かをけしかけるつもりなどないのだろう。
同時にあなたが、まだ何もしていないこちら側に何かを仕掛けることも出来ないと分かっている。あなたは聡明だ、目立つ行為がいかに致命的かを理解しているはずだとグレーテルは踏んでいるのだ。
「やっぱりわたし、あなたとお友達なんて恐れ多くて出来ないみたい。デュオモデルはこうやって引けないものを守って、競争心に火を付けて、互いを蹴落としあって睨み合って……消耗し合うのがお似合いだよ。
またね、ソフィアさん。わたしの憎らしい魔女。かならず殺してあげるから。」
そうしてグレーテルは図書室を去るだろう。暗い色をした赤毛を揺らしながら。
《Sophia》
「………そう。残念ね。あなたは他のデュオドールとは違うと思っていたけれど。」
……気付けば、いつの間にか。魔女の笑顔の仮面は剥がれ落ちていた。いいや──剥がれ落ちたのは、赤毛が横を通り過ぎてからだ。
どうすれば絶望するのか。
何を願っているのか。
何を恐れているのか。
その言葉を、ソフィアは静かに聴いていた。黙していた。
最後に鳴った、友人関係の崩壊の音に、低く低く、思ってもいないセリフを呟いてから。
そうして、完全に視界から赤色が消えた頃。
「一応言っておくけど。あたし、報復は絶対に忘れない質なのよ。全く同じ方法で、ね。」
……色彩が一つ失せた図書室には、相変わらず埃が舞っていることだろう。
『待て』の上手な番犬は、そろそろこちらへ向かってくる頃だろうか。そうでなくとも、ソフィアは青藍の騎士の元へと向き直り、大きな溜息をこぼしてみせる。
「さて。面倒ご……大仕事はあんたの役目、って事でいいわよね。信頼の証として。」
……つまるところ、不穏分子に警戒を払うように、との事であるらしかった。
当然、こうして上客との対談が終わればもう埃臭い教室には用はない。遅かれ早かれ、共立って後にすることになるだろう。
「──それじゃあ。あんたはディアに擬似記憶について話をつけてきて、明日の朝に連れてきてちょうだい。覚えてるわよね? さっきまでの話。頼むわよ。」
災いを宣言した呪詛師が横を通り過ぎる。
ストームは頭を下げ、敬意を払っていた。
さて、残されたのは傲慢な女王様と忠犬のなり損ない、それからネズミの潰れる瞬間を残したような空気。
つまり、最悪って事。
熾烈な“友人間”でのガールズトークの全貌に、ストームはひっそりと後方に身を置いていただけに過ぎなかった。
だが、明確にストームには理解し難く、受け入れ難い。テーセラの友情ほど単純明快で固くは出来ていないらしい。これだからデュオモデルはテーセラドールとは反りが合わないのだ。
完全に暗い赤髪の彼女が図書館から姿を消せば、魔女と呼ばれた革命家が振り返り大袈裟にため息をつく。
忠犬の皮を被った猟奇犯は、そんな彼女を見下ろした。
「デュオの友情は難しいですね。
それにしても、流石はソフィア。サスペンス劇場でも始まったかと思いましたよ。
感服致しました。」
ご立派な性格を遺憾なく発揮させたソフィアに盛大な拍手でも贈るような言い草。
当然のように自身の安全装置としてストームを使った事も、行われた対談を面倒事と言いかけてしまうのも、全く彼女らしい。魔女と呼ばれるに妥当だった。
まぁ、面白いものが見られたと猟奇犯がどことなく声を弾ませているので、彼もご立派な性格の持ち主な事に変わりないのだが。
「かしこまりました。
………それにしても酷い恨みをかっていらっしゃいますね。一体、何をしたんだか。
病気になる事はないにせよバグが起こらないとは限りませんから、警戒しておくに越したことは無いでしょう。
身体に違和感を覚えたらロゼットでもフィリーでもいい。もちろんジブンでも。誰かにお伝えください」
具体的な命令を下され、ストームは頷く。
不具合なんかで壊れてくれるなよ。
貴方様はそんな詰まらない方じゃないのだから──
《Rosetta》
一段一段、駆け上がるように。飛び上がる前の鳥のような軽やかさで、ロゼットは階段を登っていく。
目的地は埃と知識の累積する、三階の図書室だ。
待ち合わせをしていたことをすっかり忘れ、お茶を嗜んでいたためだろう。彼女の顔にいつもの平静は見られず、時計ウサギのように急く焦燥が浮かんでいた。
「ご……めん、遅れちゃった」
扉の向こうに飛び込むように、前のめりで入室して。
ストームの姿を見つければ、息を切らしながら笑ってみせた。
「ヘンゼルと、話してきたよ。得たモノも、一応……あるんだけど」
情報共有をしよう、と持ちかけたのはどちらからだったか。
ロゼットはヘンゼルと接触して、ストームもグレーテルに関する情報を幾度か得ていた。
だからそろそろ潮時だろう、とは思っていたのだが。まさか遅れて来るとは誰も思っていなかっただろう。
アップテンポのメトロノームのように靴が床に当たる音。
だんだんと近付いて来るようで、ストームは入口の方向に視線を向けた。
数秒後、狂った時計でも持たされた白うさぎが、大慌てで入ってくる。
「そうですか。よかった。
それほど急がれなくても良かったのに。
転んで怪我でもされたらせっかくの綺麗なお身体に、もうひとつ傷をつけることになりますよ。」
息も絶え絶えそうに見えるのは、白うさぎもといロゼットがトゥリアだからだろうか。ストームは彼女に近付くと、近くの席までエスコートするだろう。
彼は、どこか楽しげであった。
さて、彼女の呼吸が整い次第、愉快な姉弟達の事を話そうじゃないか。
《Rosetta》
多少遅れてしまったが、どうやら相手は怒っていないらしい。よかった、とちいさく呟いた。
その心配は完璧な良心から来るものではないことも分かっているが、取り繕ってくれるのであれば、無碍にする必要もないだろう。
「ありがとう。……そうだね、割れちゃったら、全部出てきちゃうもの。気を付けるよ」
アイリス、ネモフィラ、フリージア。
今日の中身を思い出しながら、服越しに腹部をそっと撫でた。
エスコートしてくれるなら、その手を取って席に着くだろう。どこまでも紳士的なドールだ。あとは内面さえどうにかなれば完璧なのに。
コアの拍動も平常に戻った頃、ロゼットはいつも通りの微笑みを浮かべる。悪趣味さも恐怖もない、なんてことない話をする時のように。
「そうだね……何から話そうか。ヘンゼルに会う前に、グレーテルのノートを見つけた話をした方がいいかな。
見つけた場所は備品室。布に包まれて、隠すみたいに保管してあったの」
髪を耳にかけながら、ロゼットは先に話し始める。
「表紙と中身には、たくさん燃料がついててね。一番燃料がついてたページは開けないくらいだった。
そのページを開いてみたらオミクロンに行くことを言われた日の話と……デイビッド先生から何かを言われて、ヘンゼルとお披露目に行くことを決めた、っていうことが書かれてたの。ここまではいい?」
質問があれば受け付ける、と言うように。
軽く足を組んで、朝と夜を表したようなヘテロクロミアを見つめ返す。
ロゼットが語り始めると、ストームはちぐはぐの瞳を穏やかに伏せつつ彼女を見詰めた。
落ち着いた口調。聞き取りやすい低い声色。
流れる様な自然な仕草。
相手に熱を帯びさせるようにプログラムされているのがはっきり分かる。
ストームは彼女の語る情報を聞きながら、軽く握った拳で口を覆い隠した。途中、何度か目を見開き頷く。
ロゼットがストームを気にかけ、問い掛けるとストームは肩ほどまで手を挙げた。
「お披露目に行く事を“決めた”とはどう言った意味です?
自身で決めるなんて、可能なのですか?」
ストーム自身が口にしてみても、おかしい事がわかる。
なぜ? どうして?
お披露目に焦がれ拗らせてしまったドールが聞いたら、飛んで喜び迷いなくお披露目の舞台に立つことを決めるだろう。それが出来ないのだから拗らせてるのに。
グレーテルはデイビッド先生から何を話され、運命を決めたのか全く分からない。
夜と夕暮れを宿す瞳は、真相を望み光を反射させた。
《Rosetta》
問答をする生徒のようだ──なんて思いながら、ロゼットは少年ドールを見つめる。 はいどうぞストームくん、なんてふざけて見せようと思ったが、そういうわけにもいかないのだろう。
何せ、今の話題はあの忌々しい殺戮ショーなのだから。
真相を探る意思に応えるように、銀の双眼は瞬きをする。エーナほどではないが、その語りには相手に理解させようとする意思があった。
「文字通り、グレーテルはヘンゼルとお披露目に行く決意を固めたという意味だよ。
自分自身で決められるかは……私も分からないなあ。汚れてて読めないところも多かったもの。
ただ、彼女は自分の……なんて言うんだろうね。レゾンデートルというか、根幹に関わるようなことをデイビッド先生に聞いていたみたいだし、掛け合えばどうにかできたりするのかな」
その先生はもういなくなっちゃうわけだけど、なんて。
思考の過程を口にしながら、赤薔薇は返事をする。
お披露目に行かない方法も、行く方法もあるならば、それはオミクロンの仲間の役に立つことだろう。
ドロシーだって、あれだけのことを知りながらまだ“普通”のドールとして在籍できているのだ。裏があるのは間違いないと見ていい。
「ただ……本当にそんなことができるとしても、大きな問題があってね。
このノートを見た後、私はフェリシアとヘンゼルに会いに行ったの。そうしたら、ここに」
ぬ、と白い手が伸びる。遠慮のない動きは、トゥリアらしい親密さを意識させるモノだ。
触れれば砕けそうな白磁の指は、ストームの手首を指した。
「一筋、傷があって。それを指摘したら怒ってたけど……まあ、その前から怒ってたしどうでもいいか。
私が気になるのは、ヘンゼルが傷物になっていたってこと。あんなモノ、洗浄や着替えの時にすぐ見つかってしまうでしょう?
それでヘンゼルがオミクロンに来てしまったら、あの子はどうするんだろう。グレーテルもオミクロンに落ちてきたばかりだし、お披露目に行くことにしたって言っても、どうするのか想像できないよ」
銀の双眸がちぐはぐの瞳からのモールス信号を受け取ったかのように瞬いた。
赤薔薇からの考察を含んだ答えに耳を傾ける。
「決意。妙ですね。
自身で決められるかについては……おおよそは不可能でしょうね。可能であればあのドールが必ず手を高々にあげるでしょうから。」
何も知らないドールがお披露目に行くのに意気込んで先生に宣言までするだろうか。もちろん、今までお披露目に行ったドールがご主人様の役に立つといったふうな、錚々たる目標や夢を先生に話していた事は知っている。
ストームにはどうも、そういった類にグレーテルが当てはまるとは思えないらしい。呪詛師はドス黒い雲をその腸に抱え込み、平然と良き姉を全うしているのか。
想像しただけでも、まともじゃない事なんてはっきりしている。
そんな中に、ロゼットの話は続く。
するとストームの手が唐突に取られる。なんの躊躇も確認もなし、呼吸するように捲られた手首にロゼットの整った指が乗っかった。
目を点にさせていれば、ロゼットからの説明がされようやくピクリと眉を動かした。
ゆっくり息を吸い込むと、ロゼットの指さした手首に一筋の線を引きながら話し始める。
「傷がついたのでしたら、“普通なら”ジブン達のクラスメイトになるでしょうね。
ですが、アティスは身体に傷がついたままお披露目に行きました。当然、ジブン達は商品にならない欠陥品な訳ですからスクラップ行きになるでしょうが、彼女はならなかった。
ジブンの調べた限りですと『欠損部位の修復』が行われる場合もあるそうです。アティスはそうでした。
ですから、ヘンゼル自身、それとロゼットやフィリーが彼に傷がある事を周りに知られぬままにしておけば、彼は修復され滞りなくお披露目に出される可能性もあります。
グレーテルについてはすみません。判断しかねます。」
《Rosetta》
「なるほど……なるほどねえ」
ぱっ、と手を離す。触れた時と同様に、ロゼットは唐突に距離を取った。
決意云々はともかく、傷付いたドールもお披露目に行くというのは剣呑ではない話だ。
そういうことがあり得るのであれば、フェリシアや他のドールも問題なくお披露目に行けてしまうだろう。自分やサラがどうなるかは分からないが。
ヘンゼルの傷の有無は最早問題ではないのだろう。グレーテルと同じクラスになるか否か程度の違いしかないようだ。
「ありがとう。じゃあ、傷のことはそんなに重要じゃないね。
あと伝えられることは……そうだなあ。ペンダントを取られた時のことは詳しく聞けなかったけど、少なくとも同意の上じゃなかったみたい」
ストームから視線を外しているのは、決して後ろめたさからではない。
愛玩用のドールなりに頭を回し、ノートの内容を思い出そうとしているからだ。やや伏せられたまなじりは、怜悧な光を湛えていた。
「それから、これは伝えておかなきゃまずいかな。
グレーテルは誰か、女の子のドールを排除しようとしてるみたい。これについては多分……というか確実に、お姉ちゃんのことじゃないかと思ってるよ。悪魔とか何とか、散々言ってるのを聞いたことがあるもの」
飄々としたロゼットの行動に、ストームはまた置いていかれそうになる。
彼女の距離感は実に独特だ。
「姉弟仲は、なんと言いますか。
悲しいほどに一方通行のようですね。」
もはや同情すら湧きそうにもなかった。
弟を想うあまりに弟の宝物を奪ってきたグレーテル。
オミクロンに行く事が決まった姉に宝物を奪われ取り返すことも出来ないヘンゼル。
どちらに対しても。
“不信感に満ち満ちた姉弟のドール”。
ストームにはそんな印象しか与えないだろう。
「えぇ、間違いなくソフィアでしょうね。
実際グレーテル本人がソフィアに宣戦布告していらっしゃいました。『死に至る病』という本を抱え、殺してあげる、と。ソフィアの事を『絶望』で殺す、と。
そのための準備でもしているんじゃないでしょうか。」
一見大人しく見えたグレーテルが、ソフィアに対し並々ならぬ殺意を抱いているのが垣間見えた対話を思い出す。
今でも鮮明な記憶で、印象的であった。
何らかの形でソフィアの精神を害するのなら、止めなければならない。銀の双眸がちぐはぐの瞳と合えば、そう目線で訴えるだろう。
「ロゼット、引き続き協力してくださいますか?」
《Rosetta》
少年ドールの言葉に、ロゼットは深い肯首でもって返事をする。コメントするだけで気が重くなりそうな気がした。
グレーテルとヘンゼルが何故あそこまで不仲なのか、と考えれば。まあ、半分以上はデュオクラスのせいなのかもしれない。
知識という見えないモノを蓄え、その優劣で競い合う。ドールズの中でも最も競争が苛烈なクラスにいれば、上下関係を嫌でも意識させられてしまうのだろう。
だが、それ以前にあの二体は異様だ。
ヘンゼルはともかく、グレーテルは初めから目的が違うような節さえ見られる。彼女が何をしたいのか、直接問いただす必要があるかもしれない。
「絶望で殺す、って言うと……直接的な加害をする気はないのかな。
まあそうだよね、自分が衝動的に暴力を振るってオミクロンに来てしまったんだもの。逆に壊れるより辛い目に遭わされると思うと、いっそ同情するよ」
デュオドールは刃物のような存在だ。
上手く扱えば切れ者として存分に力を発揮するだろうが、気を抜いていればその知恵でいくらでもこちらを傷付ける。
自分で考えることは得意ではないが、まさかそんなドールの相手をする羽目になるとは。
頭の中で、高笑いをするソフィアとそれを睨みつけるグレーテルが対峙する。おねえちゃんは本当に敵が多いなあ、とぼやいても、悲観以外に何もできそうになかった。
「もちろん。乗り掛かった船だし、最後まで付き合うよ。
ああ、あとストームの方はどうだったのかな。グレーテルとかトイボックスのことを、他に知ることはできた?」
協力を求められれば、あっさりと彼女は承諾するだろう。
ヘンゼルのことはいまいち庇う気になれないが、ソフィアや他の仲間に何かあれば大変だ。
身体能力に優れた元プリマであれば、きっと自分よりは上手く守れるのかもしれないが──なんて。
ゆっくりと瞬きをして、赤薔薇はストームに話すことを促す。
多方面からの恨みを買ってる魔女は、ロゼットから見ても似たような印象を受けるらしい。
デュオクラスにいた時のソフィアを深くは知らないが、容姿端麗で頭もよく回る。それに加え、矯正しようも無い性格と来た。
頭の良さがヒエラルキーを決めるデュオクラスでの、おおよそのソフィアの立ち位置が手に取るように分かる。
同情する、と評価したロゼットの言葉に、ストームは「そうですね……」と曖昧に返すと目を逸らした。
「感謝します。
ジブンですか? ……グレーテルについては特に情報を得られませんでした。強いて言うのなら先程言ったようにソフィアを絶望で殺すつもりと言うことだけです。
その他と言いますと、これを……。」
ストームはポケットから四つ折りの紙を取り出す。丁寧に広げるとそれは数学の課題について内容や提出日などが記載されている学習室の掲示物だ言うことが分かるだろう。
だが、吹き出しを埋め尽くす程の文字の羅列が異様な存在感を放っていた。
以下の通りに書かれた紙を、くるりとロゼットの方向に向け差し出した。
墓場。五十六個の歯車。青い蝶。赤い目。邪魔だ。
邪魔だ。邪魔だ。あなたは暗い穴の中。
邪魔だ。どうすれば? 黒い部屋。そして黒い人。
アレが邪魔だ。思い出せない。もう失敗は出来ない。
《Rosetta》
ストームも計画の手がかりになるような情報を手に入れられたわけではないらしい。残念。
だが、何もかもを取りこぼしたというわけではないようだ。差し出された紙を手に取って、ロゼットは「へえ」と呟いた。
「なんて言うか……ものすごい執念だね。青い蝶とか、思い出せないっていう文は√0に関係してそうだけど、よく分かんないや」
裏返したり、光に透かして見たり。そこまでしても怪文書である以上の情報を得られないと知って、彼女は諦めたらしかった。
特に補足や何かがなければ、その白い指がストームに紙を返すべく差し出されることだろう。
「見せてくれてありがとう。もう失敗はできない、っていうのが気になるけど……よく分かんないね」
これ以上共有できることがなければ、一度解散してしまうのも手ではないだろうか。
ロゼットはぼんやりと、少年ドールの瞳を見つめている。
渡した紙は、ロゼットの繊細な陶器のような指に捕まり隅々まで確認された。
だが、紙自体にこれといった仕掛けもなく彼女が紙を返そうと差し出した時、ストームは書かれた文字を指さした。
「確認してみたんです。誰の字なのか。
エルでした。
エルは、最近不可解な点が多いんです。」
告げられたのは、自身を天使と呼ぶドールの名前。
お披露目の翌日、目を覚ましてこなかったうちの一人だった。未だに自身の目を疑うかのような目線が、銀のクリスタルに向く。ちぐはぐの瞳の夜と朝の色に雲がかかったように、ぐるりぐるりと渦を巻いていた。
かわいい天使に何が起こっているのか。
天使を誑かすのは誰なのか。
ストームは一つ大きく息を吐き出した。
そして、ロゼットの細い指に捕まった紙を抜き、再び四つ折りにするとポケットの中に眠らせる。
「分からないことを考えても仕方ありませんね。
この件に関する結論は急ぎではありませんし。
一応、お伝えした方が良いかと思い告げさせて頂きました。ロゼットなら分かる場合もあるかもしれませんから。」
《Rosetta》
「天使くんの?」
銀の眼はより丸く、大きく開かれた。どうやら、エルの存在が関わっているのは想定外だったらしい。
彼が√0に関わっているという話は聞いたことがない気がする。そもそも、ここ最近の騒動に関わっているところを見たことさえなかった。
虚を突かれたような顔で、彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。それからポケットに視線をやって、ちいさく息を吐いた。
「私には何も分からないけど……天使くんが何か知ってるなら、もっと早く訊いてみればよかったな。
他にも変なところはあった? 今度、√0について知ってる子と話す時に訊いてみたいんだけど」
こんな近くに√0を知るドールがいるなんて、まるで自分たちはチルチルとミチルみたいだ。
忘れっぽいエルが、この紙に書いた内容をしっかりと覚えていてくれるといいのだが。考え込むような表情で、ロゼットは問いを投げかける。
エルの名前がロゼットから呟かれれば、ストームは深く頷いた。
まさか、彼の名前が出てくると思いもしていなかったのだろう。きょとり、と時間に置いてかれてしまったような表情を見せ、瞬きをするロゼットの沈黙をストームも共に過ごした。
小さな息遣いの後、ロゼットが問いを投げるとストームは唸るような声色で「そうですね……」と切り出す。
「エルの棺、蓋の裏におびただしいほど√0が刻まれていました。それを問い質したところ、エルは√0を救世主と仰っていましたよ。
訊くのは良いと思いますが、エルが覚えてる事がどの程度あるかどうか……」
青い鳥は忘れっぽい。ベールを被ったら自身が青い鳥であることを忘れてどこかに連れていかれてしまうだろう。
ストームは希望は大きくは無いだろうと首を横に振る。
次の瞬間にはピタリと一点を見つめた。
希望が全く無いわけでは無い。
√0を教えてくれた時のように。
《Rosetta》
棺の裏の、√0。
ドロシーやツリーハウスの示すあの数字が、本当にドールズの救世主足り得るのだろうか。
──私には何も見えないのにね。
青い蝶も、忘れていた友達との思い出も、ロゼットの頭の中には何もない。
何も思い出せなくても、きっと自分たちを助けてくれると信じていたくて、いつも通りの口調で返事をする。
「まあ、最近はみんな忘れていたことを思い出したりしてるし……ちょっとぐらいは期待していいと思うな。
救世主って言うんだから、きっと私たちのことを何とかしてくれる作戦とか、計画みたいなモノだって信じたいし。訊いてみないことには何も始まらないよ」
意図的な楽観視がどう転ずるか、この段階ではまだ分からない。
だが、ある程度行動の指針も定まった。
グレーテルを警戒することと、エルに質問をすること。単純だが、これだけ分かれば十分だ。
「じゃあ、今日はこんなところかな。また何か分かれば、報告し合おうか。あなたの好む“芸術”の話もできたらいいね」
音を立てず、赤薔薇は席を立つ。
これ以上に何もなければ、彼女は部屋を出ていくことだろう。
当然のような口調で応えたロゼットに、ストームは朧気な瞳を彼女に向けた。
大袈裟すぎる楽観視。ロゼットは仲間というものを信じていたいのだろう。ストームはそう直感した。
同時に、自身から拭いきれぬ懐疑的な感情との差異をありありと突き付けられた。
救世主、作戦、計画……。√0……。
全く認識した事の無い得体の知れない存在に、そこまで信頼を寄せても良いのだろうか。
だが、彼女の言う通り信頼するも疑うも行動しなければ判断できないのも事実。ストームは口を噤んでただ肯定を示すように頷く。
赤薔薇が立ち上がれば、猟奇犯も同じくして立ち上がるだろう。立ち去ってゆく彼女に、送り出すお辞儀をする為に。
「そうですね。
ヘンゼルの件、調べて下さり感謝致します。
貴方様と言う“芸術品”にまた嗜好の話が出来る日々が訪れる事、心から願っております。
ではまた、良きタイミングで」