Storm

【寮周辺の平原】

Licht
Storm

《Licht》
 ────あの人は、苦手だ。

 祝福に満ちた声色の端に、何か得体の知れないものが乗っている気がしたから。それでも繕うことだけはどうにか出来るようになった、これが、モラトリアムを一度乗り越えた成果なのだとしたら、ほとほと、苦しいばかり。また誰かが、と諦念にも似た焦燥が、耳元で囁いて。

 昨日のロゼの波打つ髪が、ちらついた。爆ぜるように。

「よっ、ストーム」

 待ち人はようやく来たようで、羊雲の流れゆく向こうから、静かな夜の色が歩いてきた。リヒトは頭を振って、心配と後悔の色をした錨を、心の海の底に沈めた。今は別の話を、もっと外の話を、みんなの未来の話を。携えてきたいつものノートが、埃を被らないように。

「……発信機の、話。しようと思って」

 そう言うと、自分から数歩、やって来てくれた友の元へ歩み寄る。

 空虚になった頭の中を、百足が蠢く。
 幽微という名の百足が。

 長い夜の事はまるで夢のようだった。
 夢だと思いたかった。
 だが、海底に沈んだおもちゃ箱で確かに起こってしまった数々の出来事。ストームの冷静を揺るがすには十分過ぎた。
 夜の束縛から解放されても何一つ変わらない。

 笑ってしまいたくなるほど酷い朝、星からの誘いを受けた。

 そして今、ここに来た。
 彼らしくない重たげな足取りを確実に進めながら、ひとつの星に向かって歩いてゆく。星は待たされた事に何を言う事もなく朧気な光を輝かせた。
 ストームは、じわりと溶け込む光に引き寄せられて行く。

「そうですね。発信機。
 ……在処はどなたからか聞きましたか?」

 百足の足音から目を背けるように、リヒトに向き合う。
 彼の朧気な光は、ストームには心地好かった。

《Licht》
「……フェリ。どうやって見つけたのかは分かんないけど、オレは信じてる」

 くっ、と声に出そうとした言葉が止まって、リヒトは自分が言葉を止めた違和感に立ち止まった。いつだってそうだ。テーセラとして設計された体は、とても忠実に、言葉のキャッチボールを手助けしてくれる。時に思考を飛び越えて。
 ……だから、引っかかったのには理由があって、躊躇ったのには訳がある。どこかにきっと違和感があって、それに小指を取られている。リヒトは考え始めた。欠けた頭で。

「……発信機は、ここ。なん、だけど……」

 続いて、両目を閉じる。そして自分の手を上げて、右手の指で右目の瞼を軽く叩いた。軽い圧迫感がして、誤魔化すようにリヒトはそのまま手を持ち上げ、髪をかきあげた。花かんむりが少しズレて……あれ、これ、いつ作ったんだっけ。
 そんな疑問を押し流すように、リヒトはようやく気がついた。パチリと目を瞬かせ、ゆっくり言葉を選びだす。声に出来ない直観の世界で、彼の背を這う百足を見つけた。理由も分からないそれがきっと、どうにも調子が悪そうなストームの答えだっ。

「大丈夫か?」

 ちらちら、ちかちか。光っているのさえ分かりにくい六等星は、不器用にそう声をかける。彼のノートは未だに、彼の腕の中。大丈夫かどうか教えるまで、見せないよ、と伝えている。

「フィリーですか。ジブンも同じです。」

 ストームを疑わしい目で見ながら発信機の場所を伝えるリヒトの仕草を、なんの取りこぼしも無いほどに見つめる。リヒトからすれば軽く蛇に睨まれた蛙の状態だろう。
 誤魔化すように頭を掻き上げる仕草があまりに彼らしい。
 ストームはリヒトのズレた思い出の花かんむりを元に戻し、指の甲で柔らかに撫でる。

「えぇ、異常はないかと。
 ロゼットが壊れてしまって、ジブンも少し動揺してしまっているのかもしれませんね。」

 目を伏せつつストームは言う。
 伏せられた目は彼の腕の中に眠るノートを、静かに見ているだろう。
 次には、答えましたよ? と目線を上げリヒトの双眸を射抜く。

《Licht》
 腑分けされているようだと思った。ひとつずつ、丁寧に、ストームは見つめていた。軽く、息を飲んだ。この目を確か、何処かで知っていた。あの時も、そういや。

「ん、ぇ、もう知ってんの?! ……ならまあ、そっか、よし」

 同じです、と言われて、拍子抜けしたようにこてん、と首を傾げて。一人でうんうんと唸りながら、リヒトは言葉を閉じ込める。まあ、知ってたなら、いいけれど。

 大丈夫なら、食い下がる理由は無い。本当はもう少し引っ張りたいけれど、聞きたいことは沢山あるけれど、それはきっとノートの価値より優先されるべきものでは無い。目を下ろしたその先の紙片は、いつもより冷たく思えて、リヒトはぐっと躊躇いを跨いだ。

「ん、こっから。ストームも何か見つけてたら、教えてくれよな」

 ノートを開いて、渡す。どこまで見せたっけ、どこから見せていないっけ。とりあえず、フェリに発信機について教わった所から。風がノートをめくろうとして、作り物の指に阻まれる。ストームにノートを渡せたら、彼はそっと頷くだろう。陽光は暖かに、青空は伸びやかに。デザインされた箱庭の中で、それからリヒトは、ふらりと湖面の方を向いた。

「わかりました。拝見させて頂きますね。」
 
 リヒトからノートを受け取ると、ゆっくりページをめくり上から下へ、左から右へちぐはぐの双眸を滑らせた。
 自身が犯してしまった失態は黒く塗り潰され、新たな情報がびっしり続いている。
 引っかかる情報も含め、全て。

「ノート、お返ししますね。
 内容に関して聞きたいことがあるのでそれは後程。まずはジブンの知ってる事を伝えます。」

 湖の方を向くリヒトの肩を叩き、ノートを返す。
 木漏れ陽が優しく、風が穏やか。のんびり流れゆく雲は能天気に消えてゆく始末。なんの嫌がらせだろう。
 横で結ばれた三つ編みが軽く靡き、揺れる。
 軽く張った緊張を絆すようにストームは口を開いた。

「ジゼル先生は、ジブン達がお披露目の実態を知っている事を認知していたようです。
 昨日、デイビッド先生をお送りした後それを知らされました。その上で知りたい事があるなら聞けと。

 化け物の存在、オミクロンクラスの存在意義、ユークロニアという組織、これらをジゼル先生は話してくださいました。」

 全て全て、壊してしまいたい。

《Licht》
 雲がのびのびと流れていた。風が柔らかく吹いていた。リヒトはそれを、どこか新鮮に眺めて……肩を叩かれて、ようやく気づいた。ああ、そうだ。もしそうなら、きっとそうだ。謝らなきゃいけないことが、あるんだ。

 吹き抜けた風が一旦止んだ時、リヒトはゆるりと振り返って。絆すように紡がれた言葉に、逆に体を固くした。

「……っ、うそ、それってやばいんじゃ?! あれ、でも、え? バレてるなら、ストームたちは、ここには居ないかもだし、だから、えーっと……ジゼル先生は何がしたいんだ……?」

 靡いた三つ編みの向こうで、丸い目がぐらりと揺れた。薄皮一枚で騙し通していたはずのそれが、筒抜けであったことは、きっと、これからに大きく関わる、のかもしれない。リヒトにその影響は計り知れない。計り知れないなら、考えずに置いておく。そして、今、できることを。

 化け物がいること、オミクロンクラスの存在意義。言われたことをそのまま書き取りながら、リヒトは声に出して繰り返した。たどたどしく見えるだろうが、これが彼にとっての道だ。十を聞いて一を知るように、彼には多くの言葉が必要だった。だから、ただひたすらに書き留める。

「化け物、ってのはええと、あの。お披露目のやつ? それから、オミクロンクラスのそんざい意義、ってなると……なんだっけ。研究、か、なんか、が。
 それから、えーっと……ゆー、ゆー………ゆー、かりにあ」

 これだけ、すこし間違えてしまったようだけど。

 慌てるリヒトにストームは軽く手を上下に動かし、落ち着かせるようなジェスチャーを見せた。

「ひとつずつ、説明致します。
 まずは、ジゼル先生の事。ジゼル先生の目的は定かではありませんが、トイボックスの管理者になりたいと仰っていました。恐らく、デイビッド先生が現在の管理者なのでしょう。その地位を狙っているような発言をしていらっしゃいましたよ。」

 リヒトの手が落ち着くのを待ち、ストームはまた口を開く。

「次に化け物ですね。ジブンが聞いたのはお披露目の方でした。彼らは『顧客』と呼ばれているらしく、大切な人の面影を強く求めているそうです。
 そしてそれに相当しなければ、引き裂かれる。」

 ちらりとリヒトの表情を見る。
 顧客の思う大切な人はドールズであるなら、ドールズの擬似記憶の大切な人は……。
 考えさせる間も与えぬように、ストームは続けた。

「最後にオミクロンクラスの存在意義ですね。
 ジゼル先生曰く、意図的に集められたと。それこそ先程リヒトが仰った研究に関連してると思われます。
 そうなれば、ゆーかりにあ。またの名をユークロニアの組織がその研究を指揮していると仮説を立てることも出来ますしね。」

 彼のおっちょこちょいを丁寧に拾い上げて、ストームはいたずらっぽい表情を見せた。
 彼との会話は、何もかもが気楽でいい麻酔になってゆく。

《Licht》
「トイボックスの、かんりしゃ? センセーの中でも、一位、二位とか、あんのかな」

 考えが及ぶ前に。

「お披露目の、化け物。イコール、顧客。顧客は、大切な人を探してて、出されたものが大切な人に満たなければ、引き────」

 思考が形を成す前に。

 貴方の誘導は成功した。リヒトは考えよりも先に手を動かして、メモを取っている。もとより考えないのは得意なのだから。ガーデンの他に現れた、ゆーかり改めてユークロニアについても、言われた通り記載して。

「そっ────、そうだな。ユークロニア、だな。誰だよ“ゆーかりにあ”なんて言ったやつ………オレか……」

 ちょっとだけの不平は木々の間に溶かしこみ、リヒトはようやく筆を止めた。書いた言葉の意味が、その連なりが、彼には分からない。だけどこれはきっと、誰かにとっての鍵になる。そう信じるしか、ないじゃないか。
 そして明るく、『オレからは終わり! 次はストームの質問の番、な』と貴方の方を向いた。

 麻酔が効いてゆく。
 どんどんどんどん、身体中に。
 頭の雑音はもう程遠くに追いやられて行ったかのよう。
 ……雑音はこびりついて離れない。

「……えぇ。リヒトのユーモアが芽吹く季節でしょうかね」

 なんて、小言を言っても“アイツ”が頭の中で蠢くのが消えない。毒されてもう治らないみたい。
 沈黙が流れればすぐに衝動に飲まれそうで、恐ろしい。
 なにか、なにかを……。なにも。

 リヒトの呼び掛けが無ければストームは彼を壊しでもしていたのだろうか。拳を握り締め抑え込む。「では……」と発せられた乾いた声は、妙に低くくぐもっていた。

「この『片腕のない子』とは、どなたですか? ジブンに話そうと書いてありますが、ジブンと面識がある方で?」

《Licht》
 なんだよユーモアって、こっちは真面目に。むっと唇をとがらせながら、リヒトは眉をひそめた。あの悪い気配は消えたわけじゃないけれど、少し安心できたような気もして、ノートを閉じながら、彼はようやく目を伏せた。

 そして、続くストームの声は、どこか低く、くぐもっていた。それは鼓膜を揺らして、リヒトははっと息を飲む。さっきお前に振ったのに、オレの番かよ。どこかの自分がボヤいた。

「あっ────」

 瞬間。どっと風が吹く。春の名残りの、嵐のように。はっとストームの方を見た、リヒトの頭の上から、花かんむりから花弁が飛んだ。一枚、二枚、そしてたくさん。その時の彼はどんな目をしていただろうか。

「あ、ええと、その。そうだな。えーっと……あの子。あの、ほら、さ、あのー……ぽやぽや、してて。ちょっと危なっかしくて。でも、なんか……ええと…………」

 ────そうじゃない。

 繕おうと思って選んだ言葉が、ぼろぼろと手の中から溢れていって、もうだいぶ限界を悟る。前は上手くやれていた気だったけど、こうやって誤魔化すことさえ、なんだか疲れて来るような気がする。だから、だ。だから、言うならせめて、ストームがいいと思ったんだ。

「…………いや、もういっか。もういいって、決めたもんな」

 謝らなきゃいけないことが、あるんだ。

 息を吸った。吐いた。
 欠けていた。

「ストーム。オミクロンって、オレたちの仲間って、何人だった? 教えて」

 ノートを小脇に抱え、両手をぱっと開いたリヒトは、いつもの顔でストームに尋ねた。まるで、いつもの授業の傍らに、教室の机からぐっと体を前のめりにして、こっそり耳打ちして教えてもらうように。掛け算の答えを聞くように、リヒトはストームに尋ねた。突然で申し訳無いけど。急でびっくりしただろうけど。答えて。答えて。

 春の甘い残り香と青々しい草の匂いが、身体を持ち上げるように吹き上げた。
 うっかり絵の具を滑らせてしまった、あのキャンパス。
 様々な色で塗られていたのに、所々真っ白になった。
 千切れた花びらは、もの悲しそうに白いインクで乾ききっていないキャンパスの上に身を落としただろう。
 言葉を探すような間、失態を隠そうとする子供のよう。

 ─────違うでしょう?

 リヒトが息を吐き出した。
 吐き切るのを見ると、ストームは淡々と告げる。

「16人です。
 ソフィア、アティス、ミーチェ、リヒト、フィリー、ロゼット、アメリア、ミュゲイア、ブラザー、エル、カンパネラ、サラ、オディー、リリィ……ディア。ジブン。」

 リヒトは自然だった。授業中に困った! と視線を送って来る時の表情と同じで、取り繕う事も一切しない。
 質問の趣旨が理解しきれないが、嫌な予感がした。ガンガンと警報を鳴らしている。
 まるで……。まるで昨日のサラのようだから。

《Licht》
「……ん、だよな。16人だ。オレも知ってる。知ってるだけ、だけど」

 そう言って、リヒトは何度か頷いて、両手の指を軽く折り始めた。1、2。緩やかな風がまた吹き始めて、花かんむりとその下の、にんじん色の髪の毛を揺らしていく。3、4。彼はどこか、穏やかな顔だった。出航する船を見送る時の、長いサテンのリボンを持っているような。ふつりといつか切れるそのリボンを、大事に握っているような。5、6。風が遠のく。リヒトは遠く、ずっと遠く、みんなが至るどこかを見つめて、そっと目を細めた。7、8。

「だけど、自信もって、大丈夫だって、思い出せたのは……。
 ……半分だけ、なんだ」

 緩く曲げられた指は、八本目で止まっていた。自分以外で、元から居たうちで、これ。最近オミクロンに来た二人を合わせても、指はそれだけしか増えない。リヒトは笑った。仕方ないよな、と笑った。どことなく不器用で、どことなく幼い笑顔だった。

「とうとう頭までダメになってきたみたいで、さ。最近、ずっと。だから何だって言われたら、まあ、そこでおしまいなんだけど。でも言いたいのは、えーと、忘れたから起きることで。記憶と、心には確か、関係があって……あるよな。それで、思い出がドールの感情を作る、みたいな話があったはずで、さ。だから、さあ」

 ドールの人格面の形成においては、学園での生活が大きく影響する。誰と関わり、どう思うか。それを効率良く発生させるために、トイボックスがあるのではないかと推測できるほどだ。ドールの人格面の形成においては、学園での生活が大きく影響する。

 だから、とリヒトは続けた。

 おぼつかない言葉で、たどたどしい思考で、絶対に聞いて欲しいから、途切れさせることなく続けた。絶対に聞いて欲しいから、縋るように声を繋げた。もう、つぐなうことすら出来なくなるかもしれないから。もう、君にあげる心が、感情(こころ)が、無くなってしまうかもしれないから。

 だから、聞いて。
 わがままだって分かるけど。


「ごめん、ストーム。
 ───約束、守れないかも」


 殴ってくれてもいいんだよ。
 リヒトは笑った。

 ストームはリヒトの折る指を見ていた。
 花びらが一枚、また一枚と散ってゆく。
 1、2……。
 こうして夏が春を奪って、飲み込んでいくのだろう。
 3、4……。
 燃やすには早すぎる火薬の匂い。
 5、6……。
 焼き切れた、春の花々はもう居ない。
 7、8……。
 そこで、リヒトの指は固まった。

「───は?」

 ストームは目を見開いた。
 不器用で幼い笑い方に、諦めたような言葉。
 お前の罪は、知るのが遅すぎだと告げられている。
 必死に縋るように紡がれた言葉を聞いて、また笑うリヒト。
 彼に着せられた実刑は、生き殺しなのだろう。
 切なさを含んだ彼の笑みを目に焼き付け、言葉を咀嚼する。
 まだまだ、じんわりと暖かい。
 大丈夫。貴方様はリヒトだ。

「……欠けてしまっても、無くなってしまってもリヒトはリヒトでしょう? 生憎、ジブンは欠けているリヒトしかよく知らないもので。
 それに、貴方様は知っているはずです。ジブンは元より皆様を喋らぬ芸術品にしたいと願っていた事。」

 ゆらりくらりと唄うように述べて、猟奇犯は笑って見せた。独りにさせる気など記憶の中、サラサラないと宣戦布告しているように。
 記憶がドールの人格面を生成しようが、感情が消えていこうがそこに自身を無理矢理にでもねじ込んでやるから、と軽やかな笑みだった。


「リヒト、貴方様がどうなろうがジブンは貴方様を奪います。これは決定事項ですので。

 ……まだ、吐き出したりない感情(モノ)があるなら、消えぬ内に吐き出してしまってください」



 ねぇ 、リヒト。
   言いたいこと、言ってくださいよ。

 ジブンは貴方様の感情を観るのが、
        お気に入りなんですから。

《Licht》
「な────、んだよそれ。なん、だよ、それ」

 予想外で、期待内の、
 素敵な言葉をもらった時。

 人は、とっても驚いて、
 とっても泣きたくなるものだ。

「オレ、お前が、怒る、と、思ってた。約束なんて、なくなる、と、思ってた。コワれかけ、とか、要らないと、思って……ああ、クソ。お前って、ストームってさあ」

 あの約束が、まだ続いている。

 何も救われていないくせに、何もなんとかなってないくせに、何にも出来てないくせに、何も助けてないくせに、それを確認するだけで、なんだか随分楽になるから、ああ、ずるい。本当に。それに、あの言葉なんてよくよく聞けばワガママ千万、ジブン勝手のトンチンカンで、こっちの事なんて何にも考えてないよーな、一方的な宣言なのに。もう期待に応えらんないかもしれないって、言うの、とっても、苦労したのに。

「……もしかして、めちゃくちゃ、欲張り?」

 無理やり擦って赤くなった眦が、目元を隠すように持ち上げられた手の中から見える瞳が、からかうようにストームを捉えた。ちょっと悔しげな色をして。

「そ、そのうち、そのうち、な。今ちょっと、今、その、なんか……悔しいような、恥ずかしいような、情けないような、そんなこと思っちゃいけねえような、それでも、なんか、うれ……ああ、クソ! というかストームの方もなんか抱えてんだろ、バレないと思ったか、教えろ!! それであいこだ!!」

 結局、最後の方はわあわあと喚きながら、リヒトはビシッと人差し指をストームの方に伸ばして言った。彼ほどの威圧感は無いけれど、なんならぺしょ、と目が潤んでいるけれど、それはそれ。言うまで逃がす気は無いのである。少なくとも、リヒトは。

 なぁ、ストーム。
 言いたいこと言うなら、そっちも一緒だろ。そういうもんだろ、きっと。忘れるまで、ずっと。

「何を今更」

 分かりきったことを言うリヒトの背景に、今までどんな重しがのしかかっていたかなんてストームには分からない。自己中心的で唯我独尊。まるで駄々っ子のような発言に、リヒトは涙ぐませているから、ストームはおかしくてまた笑う。
猟奇犯は笑顔なんて得意じゃなかったのに、驚く程ごくごく自然に少年のように笑えていた。擦れて赤くなった眦に、指の間から垣間見える潤んだ瞳。それらに応えるようにストームはちぐはぐな瞳を向けていた。
 最初からプログラムされている感情の中は、驚くほど息がしやすい。友が泣いて、揶揄って、友が強がって、共に笑う。
 本来在るべき、テーセラモデルの理想像なんだ。

「嬉しかったのならそう仰れば良いのに。素直じゃない。それも記憶の欠損のせいだとは、言いませんよね?」

 自身に振られたかと思えば、紛らわすように軽口を叩く。
 向き合いたくない。せっかく、せっかく麻酔で眠れそうだったのに。
 見ないように、感じないように。
 潤んだ瞳はぴしりとストームを捉えて、離してくれそうにないだろう。



 ────無理だ。逃げられない。

 逃がしてくれる気なんて、無いんだ。
 ストームはリヒトの強い眼差しを、その意味を知っている。ストームを欲張りと言うが、彼も同じくらい強引だ。
 本当に呆れる。呆れるほど優しい温もりは執拗いのに鬱陶しいのに、彼の温もりを拒むにはストームはあまりに無力だった。


「────あーあ、敵わないな。
 ジブンの異常になんの躊躇いもなく踏み込めるの、きっとリヒトだけですよ。」

 小突きたくなるにんじんカラーの頭に、希望を見つけるのにはうってつけのペリドットをじっとり見下ろした。
 奇麗で、美しい。
 青苦い風が草を撫で、湖に波紋を作った。
 風が過ぎ去ってからは、すぅ、と吸い込む息遣いですらはっきり聞こえる静寂がストームを飲み込んでいる。微かに震える自身の手を重ねて包み込んで、抑えた。

「些細な事です。ジブンの在り方を、見失った。それだけ」

《Licht》
 他の奴にもできるだろう、と言いたい気持ちをぐっと抑える。今は、素直に受け取るべきだろう。リヒトだけ、なんて言う、特別にも似た面映ゆい言葉を。

「……迷子か」

 些細なことらしい。そんな些細なことで、ここまで様子が変わってしまうのは、珍しい。リヒトはぽつりと呟いた。迷子か、彼も。

「でもそれで、立ち止まるつもりじゃねえよな、きっと」

 それが、リヒトと違う所。それが、ストームである所。彼が立ち止まってるところなんて、リヒトには想像もつかなかったものだから、ちょっと驚いて、ちょっと安心して、だから素直に背中を押せた。

「分かんなくなっても、迷子になっても、ストームはストームだろ。あいにく、オレはどんなにコワれていても結局諦めない、欲張りなストームしか知らねーんだ」

 あいにく、な。
 ストームの言葉を踏襲して、リヒトは伝えた。はにかみながら。

「在り方が見つかんないなら、探そうよ。オレは……まあ、あんま頼りになんねえけど。みんなは、きっとみんなは、何かしらの答えをたくさん、持ってるはずだろ……聞いてみようぜ」

 水面の向こうの、二人のせいたかのっぽ。斜めの屋根を見やって、リヒトはそっと手を伸ばす。そこに居るはずのみんなを想う。きっと、と。はず、と。そうつけることで保管された、半分欠けてひび割れたドール。まだ、まだ“リヒト”で在れることを、教えてくれた、貴方が。

 貴方はゆっくりと変わっていく途中なのだ、きっと。長い長い迷路の先へ、迷いながら進んでいくのだ。その先にひとつの答えがあることを、欲張りなストームが、ちゃんとそれに辿り着くことを……リヒトは希求する、眠たい頭で。風が、心地いい。

 迷子、迷子か……。
 溶け込むように入ってくる言葉に、ストームは頷く事しか出来なかった。ずっと、ずっと迷子だったのだろう。
 成熟しきらない酸っぱくて苦い青い果実が、じんわり舌の上に広がる。自分でさえ気付かなかった自分を暴かれたと言うのに、清々しくてさっぱりしていた。
 込み上げてくる感情が気恥ずかしく、ストームは長い前髪をくしゃりと掴み瞳を伏せる。

「っはは、ふふっ。あはは! リヒト貴方様、良い性格していらっしゃる。ステキですね。
 頼りにしてますよ、相棒。」

 ストームの言葉をそのままに、彼に伝えたリヒトの笑顔は宝石や太陽の光よりも純粋無垢で輝いて見えた。
 ── 欲しい 。
 ストームの暴力的で狂気的な感性は、未だに彼の中に居て彼に甘い誘惑を囁いている。壊れていて、高々に笑うジョーカーフェイスをその時までしっかり仮面の奥に隠しておこう。

「では、迷子仲間のリヒトの事も共に探しておきましょうかね。一緒に手でも繋いで行きますか?」

 半分欠けた貴方様を探しに。
 お手をどうぞ、と差し出した手。
 朧気に輝く一等星のおかげで冗談を吐くくらいには回復した猟奇犯は、消えてゆく星を無視して行く気はないらしい。遠い目的地まで、一等星を連れ去ってその輝きを手に入れるまで。
 風が彼を連れ去って逝く前に。

《Licht》
 几帳面に整えられた髪型を、自分でぐしゃっと歪めてしまった、ストームを見て今度こそ、リヒトは目を丸くした。あのストームが、そんなこと!

「良い性格ってなんだよ?! 褒めてんのかよ、それ!」

 軽口を叩いて、うんと背伸びをする間、ストームはようやく北極星を見つけたようだ。しんと静かな森の夜、木々の開けた向こうに。じゃあ、朧な星の役割は終わり。むしろこちらが薪をもらったようなものだから、心のうちでひっそりと、あの喜びを宝石に変えようとして。

 その時、差し出された手を見てびっくりする。……まだ、いいの?

 ストームの仮面の表にも、裏にも。いずれ、気づかなくなっていく。いずれ、気づけなくなっていく。心を欠くとはそういう事だ。彼は摩耗する、春を待つ雪のように。

 悩んだ末に、彼の手を取った。

「……寮の近くまで行ったら、離すからな、相棒」

 だから、それまでは、まあ、この距離感に甘んじていよう。繋いだ手を信じていよう。出来ることをしよう。出来なくても。あの人に手を伸ばそう。あの火を探そう。そして、きっとどこかに至るのだろう。自分は、何処まで行けるだろう。

 君は、何処まで行けるだろう。

 初めは、ほんの少しの悪戯心でお手をどうぞだなんて出した手。リヒトの表情のゆらぎにストームは気付いた。
 リヒトがリヒトである為に、微々たる安らぎとなるならストームは迷いなく彼の手を引くだろう。

「えぇ承知しました。
 妙なものですね。迷子というのは。」

 草を掻き分け、握られた信頼を手放さぬように引いていく。身体に染み付いた癖で、無意識にエスコートして。バラバラだった歩幅が、だんだんリヒトと合ってくる。迷子二人が道標を探している。
 何処まででも、探しに行ってやろうじゃないか。
 たとえ捜し求めるものが無かったとしても。
 君が屍になってでも、連れていくよ。

 百足の足音は相変わらず響いていて、吐き気を催す程恐ろしい。なのに、足は軽やかに進んでいる。
 温もりを、朧に光る星から教わった。
 一番始めに見つけた六等星から、迷路の解き方を。
 向き合わなければならないモノに歩み寄る小さな覚悟を。
 寮が目と鼻のすぐ先にある所まで辿り着いた時、躊躇いからかストームはリヒトから手を離されるのを待った。忘れられるのは、とあるドールの影響もあり慣れているはずだが、やはり引っかかるものがあるようだ。
 寂しさと苛立ちが無いと言えば嘘になる。だから。


「……約束だけはお忘れなく。」

 念を込めるように、願うようにストームは言った。
 脅迫と信頼が彼の中で混じり合い、半ば脅しているように聞こえるかもしれない。
 実際、脅している。
 彼からの反応があれば、「では」と一言。くるりと彼に背を向け寮に戻るだろう。
 夏が始まった匂いに、背中を押されたような気がした。

《Licht》
 彼の一歩後ろを歩いていく。きっとエスコートが染み付いているのだろう。だんだんと歩幅があっていく中で、リヒトはちらりと目線を上げた。

(ストームの、背中だ)

 大きくて、自分と同じくらい、小さく見えた。

 寮の前についた時、そこには不自然な時間があった。期限を決めたのはリヒトなのに、惜しむように手は繋がれたまま。言葉のない空白の中で、伏せられた目が足元を見つめる。まだ、まだ、まだ……いいの?

 そしてその内、リヒトの手がするりとストームの手の中から滑り落ちた。そして迷子は、ひとりに戻った。……二人は、どちらも自分から手を離そうとしなかったから。だから二人を引き離したのは、きっと地球の重力だ。

「忘れないよ」

 声に出して、何度でも。味の薄くなった恐怖と信頼が、喉の奥で絡まりあって、飽和していた。脅されている。それを期待と勘違いして、嬉しい、なんて変なこと思ってる。そんな矛盾した螺旋のような感情さえ、いつか欠ける。無くなっていく。

 そして、ストームが背を向けて寮へ歩いてゆくのを見ながら、リヒトはもう一度、聞こえないように声に出した。舌先に言葉を乗せて、ゆっくりと確かめるように。

「忘れないよ、……忘れるまで」

 リヒトは立ち止まっている。足首を草の先が擽る。通りすがった大きな雲が、草原に落とし穴のような影を作る。リヒトはその中にいる。リヒトは立ち止まっている。陽だまりはまだ来ない。

 どっ、と。風が吹く。

 ──モラトリアムはもうじき“また”終わる。
 殺伐とした空気が寮全体に充満していて、まるで水中。もがけばもがくほど苦しくなってゆく。
 もういっそのこと沈んだままでも、幸せなのかもしれない。そんな絶望が、もうすぐ近くに迫っている。
 猟奇犯には、関係の無い事かもしれない。

 ストームは寝室に足を運んでいた。
 そこで天使に出逢うのは必然だったかのようで、招かれていたのかもしれない。

「エル、外は晴れていますよ。遊びには行かないのですか?」

 ストームは酷いくらい優しい声で、エルに声を掛けた。
 なるべく怖がらせぬように、なるべく相手の視線に合わせて。
 猟奇犯のような彼とは似ても似つかぬ行動。
 猟奇犯と天使にはごくごく当たり前の日常の一ページに過ぎないのだろう。

【学生寮2F 少年たちの部屋】

Ael
Storm

《Ael》
「え、っと……エル、その、……あの、ごめんなさい、なのです、お名前は、なんなのです? ごめんなさいなのです、ごめんなさい、なのです………」

 ごめんなさい。名前を思い出せない天使がまた帰ってきた。申し訳なさそうに下げられた眉に、ふ、と伏せられた左目。そう、先ほどエルはドールの名前と顔がごちゃ混ぜになり、存在はわかるけれども、名前と顔の判別ができなくなっていた。遊びに行くなど、どうでもいいほどに悲しみに暮れていた。謝罪の言葉なんて、いくらでも出せそうなのに、ごめんなさいの一言しか出てこなくて、息が詰まるようだった。
 このドールも、お披露目に出されて、死んでしまうの? そう頭に思い浮かんでは、悲しみが込み上げて。うる、目を濡らした。申し訳なさも相まって、何度目かわからない透明な血を流した。あぁ、名前も知らない大切なドールよ、死なないでおくれ。エルと一緒に、この苦しい金魚鉢の底で呼吸をしてくれ。まだ、まだ、まだ………。
 行かないでという言葉の代わりにまた目から涙をこぼす。ごめんねと行かないでがブレンドされた、優しい天使の涙を。

「Shh……エル。落ち着いて下さい。
 大丈夫、まずは深呼吸からしましょうか。上手に出来ましたら、自己紹介させてください」

 日常は消えてた。
 なんの跡形もなく。
 だが、猟奇犯にとってそんな事は些細な事でいつも通りであった。
 しかし今回は何か異質な物を感じてならない。
 ストームは袖で天使様から流れる大粒の雨を拭い、そっと抱きとめた。あまりにも小さい宝石を、潰さぬように。
 真っ暗闇に誘い込んで、背中を摩る。
 芸術品が助けを求めているから、身体は勝手に動いていた。
 呼吸がゆっくりになって、謝罪の言葉も止むとストームはエルの顔を覗き込む。

「落ち着きましたか?
 初めましてエル。ジブンはストームと申します。テーセラモデルのドールです。」

 丁寧なお辞儀、何十回と繰り返してきた自己紹介。
 前にエルにしたのはいつだっただろう……。

《Ael》
「っ、っうぅ、すと、すと………すと、なのです、スト…………」

 深呼吸をして、前を見て、名前を聞いて、思い出す。あぁ、スト──優しくて、なんでも教えてくれて、これも、また、何回繰り返したのかわからない光景で。それでもエルを愛してくれる、大切で、たいせつで。
 彼によって少し落ち着きを取り戻した涙は、止まることを忘れてまた溢れた。エルは、苦しさと同時に、安らぎを覚えた。ごめんなさい。忘れてごめんなさい。これを声帯を通して言ってしまったら、なにも止まれなくて壊れてしまいそうだったから、口をつぐんで目から血を流した。愛おしい存在、どうか離れないで──
 このまま溺れて、死なないようにしなくてはならないのに、このままじゃ人生の終点がこちらに近づいて来てしまう。いやだ、いやだ、いやだ。もう、このままの死んでしまった(忘れてしまった)エルのままでいられたら、幸せだったのだろうか。やはり、ドロシーの言うことが正しいのではないか。でも、でも、生きたい。幸せを、しあわせを、まだ手につかみたい。縋る思いだった。こんなの、苦しくて辛くて怖くて恐ろしくて馬鹿で惨めで哀れで。そんなこと、わかりきっている。でも、涙は止まることを忘れている。

「え、っエル、また、また………っ、スト、スト、おねがいなのです、おねがいなのです、まだ、どこにもいかないで、まだそばにいてほしいのです、まだ、まだ………」

 えぐっ、えぐっ。しゃくりあげるように声を出した。生まれたての子供のように、泣きじゃくる。酸素のないこの場所で、呼吸をするために。もう、死にたくない(わすれたくない)。いやだ。愛おしいすべてのものよ。エルの前からいなくならないで、ひとりにしないで。もう、こんな独りぼっちは嫌だから。だけれども、エルができることはみんなを愛し、微笑みを一つ与えること。それだけ。こんなの、ジャンク品だと言われても仕方ない。あの子は、あの子は、こんなエルを望んでなんかいないのだろう。あぁ、ああ。まだ、また、ダメなのかなぁ。

 ───何故、望まれている。
 ───何故、縋られている。
 何故?

 ストームは泣きじゃくる天使の願いを、聞いていた。
 言葉を返そうにも、喉の奥につっかえて吐き出すことが叶わない。どう声をかけるべきかも、分からない。
 ただ酷く、奇麗に見えた。
 息を吸う度、喉の震えが収まらない。

 “これ以上この子を抱き締めるのは許されない”。

 直感的にストームはエルを抱き締める腕を緩めていた。
 突き放してしまえば、壊れてしまう。
 だから縋らせた。彼が満たされるまで。

 エルの望みを叶えるには、ストームは汚れ過ぎている。
 エルが哀れだ惨めだと評価する(ソレ)は、ストームには喉から手が出るほど欲していたはずの輝きで聖域。
 今まで欲望を抑え込んで、ナイフを突き立てなかったモノ。
 今なら奇麗に形をとってジブンのモノに出来るかも。

「…………」

《Ael》
 ただ泣いていた。こぼれ落ちる美しい液体は床に落ち、床を濡らす。何も言わず、エルの望みを叶えてくれるストームに甘えた。震える声は止まず、ただ目を濡らした。ぎゅう、優しく彼の服を握る。ぎゅう。優しく、強く、抱きしめる。ぎゅう。できるだけ優しく、顔を彼に押し付ける。ぎゅう。ぎゅう。肩を震わせて恐怖と、申し訳なさと、惨めさで自分を戒める。天使とはなんだったのだろう。神様はお告げをくれない。ああきっと、エルは神様から見放されてしまったのだろう。これはきっと、エルのせいなのだ。神様の試練は辛く、苦しく、死も同然のこと。そんなことを体験しなければならなかったのは、エルが何か悪いことをしてしまったからなのだ。かみさまは、エルを堕天させたのだろうか? そんなことはないはずだと思いたい。でも。でも。

「える、え、る、みんなを、しあわせに、するのです、したいのです、でも、でも、でもっ…………」

 皆殺し。ドロシーの声が脳内で反響する。粘土の匂いがまた、繰り返される。いやだ、死にたくない。死にたくない。みんなを、死なせたくない(忘れたくない)。でも方法はない。ただ、ただ。願いを星にかけるしかない。おねがい神様。また、チャンスをください。哀れな天使に、もう一度試練を。もう一度、生きる道を。

「すと、すと………エルに、みんなのことを思い出させてほしいのです、おねがいなのです」

 涙ぐんだ声で、甘える猫のように離れないで、子供のように懇願した。エンジェルリングが割れないように。やさしく、やさしくしてねと言葉に感情を滲ませながら。

 目と鼻の先、エルの生命機関を繋ぐ細い(パイプ)。エルが泣きじゃくり息を吸う度ヒック、ヒックと鳴いてパキりと折れてしまいそう。
 空中に手を掲げる。エルの首目掛けて。

 何も分からない。なら、試してみても良いかも。

 苦しいのは一瞬で。
 後悔から解放されるから──



 泣き声、針の音、呼吸音、心音、耳鳴り、心音、心音、心音、心音、耳鳴り、耳鳴り。
 壊れちゃえ。


『みんなを、しあわせに、するのです』

 その瞬間、ストームの手はその場で拘束されたように動かなくなった。ピクリともせずその場に制止する。
 しあわせ、しあわせにしたいって言った?
 何も知らない方が何百倍も幸せで、もうそれは叶わないのに。
 邪魔な物は全部、消せば幸せになれるのに。
 なんて愚かな子。
 ただ──
 ただ、興味が湧いた。
 記憶が抜け落ちてゆくこの天使に、どこまで出来るのだろう、と。

「えぇ、長い長い話になりますがお付き合いくださいね。エル、貴方様のノートをお貸しください。」

 紳士の皮を被った猟奇犯は、空中に浮いていた手を彼の頭に乗せ、優しく撫で下ろした。そう言えば、この子に近付いたのもほんの興味だった事を今更思い出す。
 エルのしあわせを描いた世界を魅せて。

《Ael》
「ノー、ト?」

 ノートは、どこにおいたっけ。そこには、何を書いていたっけ。忘れている。だが、ストームがノートを貸してというのであれば、そこにみんなのことが書いてあるに違いない。どこに置いたか思い出せなかったため、自分のベット付近を探してみれば、ベッドの側にそれらしき、いや、それがあった。

「これ、なのです?」

 すん、すん。鼻を少し啜って、まだ涙目なままでストームへノートの表紙を見せる。当たっているか定かではないため、確認をしたのだ。これで、おもいだせるなら。復活の時が来た。十字架から外され、墓に閉じ込められ、その後、もう一度やってくるイエスさながら。紳士のあなた、天使をもう一度生かせて。

 エルが自身のノートを見つけてくれば、ストームはエルの瞳に溜められた大きな雫を親指で拭い取り「そうですよ」と短く返事する。そして、彼からノートを受け取った。
 ノートにはエルの学習の数々が記録されている。
 オミクロンドールズの名前は繰り返し何度も何度も書かれていた。
 ペラ、ペラとページをめくり続ける。
 するとストーム自身が書いたページに辿り着いたのだった。しっかりページの端は折られたまま。
 ストームはポケットからペンを取り出すとサラサラと追記してゆく。ピタリとペンを止めればエルに見せるだろう。
 最初に指さしたのは金髪、青眼の少女。

「彼女はソフィア。
 デュオモデルの元プリマドール。
 デュオモデルの中でもトップの成績を誇っている方です。頭脳明晰で勇敢。お人好しで繊細でもあります。
 貴方様は『ソフィ』と呼び、慕っておりました。」

 エルが自身の中に落とし込むのを待ち、次のドールを指さす。月明かりの髪に瑠璃色の瞳の少女。

「彼女はアストレア。
 エーナモデルの元プリマドール。
 引く手数多の物語をよく聞かせてくださった方だ。優麗で気高い。彼女はローズヒップに紅茶のクッキーを合わせよく嗜んでいらっしゃいました。
 『アス』と呼んでいらしゃいましたね。」

「彼はディア。
 トゥリアモデルの元プリマドール。
 黄金比で造られるジブン達ドールですが、彼は群を抜いて美しく誰もが毒されます。
 『ディア』そう呼んでいらしゃいました。」

 滑り落ちた者も、救う余地がない者も細かく。

 みんなのヒーローだった子。
 朧気で消えかかった星の子。
 お腹の花束が壊れてしまった子。
 “姉”と一つの素体で共存する子。
 勤勉で愛を追い求める子。
 バレエが大好きな子。
 片手のない夢遊病の子。
 純粋無垢で柔らかな百合の花の子。
 淑やかで落ち着いた振る舞いを見せる子に、姉である事に執着してる子。

 特別に目を輝かせた子。

 ひとりひとり丁寧に。

「彼はブラザー。トゥリアモデル。
 世話焼きでお人好し。手先も器用で何でも卒なくこなし、自身を兄だと仰います。
 それから、ミュゲイア。同じくトゥリアモデル。
 常に笑顔で不気味なドールです。ただ、笑顔はどの方よりも上手かと。
 それぞれ『おにいちゃん』『ミュゲ』と呼んでいらしてました。

 ……お披露目が決まったドール達でもあります」

 ストームは説明を終えると、エルを見た。
 どう地団駄踏もうとも、変えられない物が目の前にはある。こぼれ落ちてしまった子と選ばれてしまった子。
 どうしようもないことが分かりきったドールたちに、天使様は何を下すだろう。

《Ael》
「……おにいちゃんと、ミュゲ、が? そんな、そんな、お披露目に……? うそ、もう、話せなくなっちゃうのです、いやなのです」

 一つ一つ記憶をなぞる。あぁ、愛おしいドール達。わすれてしまったことの罪悪感、また記憶が死んでしまうことへの苦しみ、絶望感。これは、エルの意識がある時に必ず起きる。こんな思いをし、最後は無惨にも残酷な結末を辿る。自分で死んでしまったほうがだいぶマシである。でも、それを再確認してもなおエルは生きる力を失わなかった。素敵で、大好きで、愛おしいみんながいるから。まだ、しあわせを感じていたいから。ひとりひとり、大事な記憶をまた刻み直す。ゆっくり、ゆっくり。

 お披露目が決まったドール。

 その言葉に、大きな目をさらに見開く。お披露目が、決まった? お披露目に行ったミシェラにアストレア。ミシェラに至っては焼却処分だったはず。またひとり、ふたりと記憶からではなく存在が消されていく。いやだ、いやだ、いやだ。素敵な日が、大好きな日常はもうここまできたらどうやっても取り戻すことができないというのか? 信じることができない、でも、真実だ。ガックリと肩を落としていやだ、声に出す。

「……エル、二人とお話しするのです、スト、もう、忘れたくないから」

 真剣な目つきで、そう宣言した。エルの目の前からいなくなってしまうなんて、寂しい以上に物足りなくなる。もう、心にたくさんの穴が開いていると言うのに、それを埋めてくれる記憶がないのはいやだ。行ってくるねとほほえんで、紳士のいってらっしゃいを待った。

 エルにひとりひとり簡単なエピソードを交えながら話す間、ぼんやりと温かく喉元を締められたような感覚がストームを襲う。
 『アストレア』『ミシェラ』彼女等の話をする時は特に。
 修復不可能なパズルとなったオミクロンの面々。新たなクラスメイトが入ってきても、彼女等のピースを埋めることは叶わない。
 完成しなくなったパズルが、切ないのだ。悔しくてならないのだ。それが理解る。それを感じる。
 今まではフィルターの外の傍観者のようだったが、今は少し違うように思える。

 話し終え、エルを見ると肩を大袈裟に落とす様子を捉えた。ストームはエルの肩に触れる。

「行って、お話してあげてください。
 ブラザーもミュゲも殺されに行くと分かっているはずです。きっと……ツライ、はず」

 真剣な眼差しに射抜かれる。彼の瞳が輝いている。
 一等星の輝きを携えたエルに、ストームは首を横に振る選択肢など持ち合わせていなかった。
 だが、後押しするのにはストームにはまだ感情が欠落している。死を前にした感情。彼にはそれが分からない。
 可愛らしいエンジェル。彼を快く見送るため、ストームは立ち上がって彼の背中に回るだろう。
 ストームの分からない感情を彼は理解しているのだから、あとは送り出すだけ。
 飛び方を思い出した天使に手助けは必要ない。
 ポン、と背中を軽く押し見送るだろう。

「お気を付けて」

《Ael》
「ありがとうなのです、スト!」

 優しい手つきで勇気をもらう。彼の手が触れるたび、力が戻ってくるような感覚に陥る。ああ、これが空の飛び方か。飛ぶことば怖くて臆病だった天使。でも、いまは違う。飛び方も、天使の羽も、バッチリだ。一つハグをする。いってきますの優しいハグを。兄のように慕っている彼を、無邪気に、子供のように抱きしめた。
 愛すべき存在、15分の1。ここにまた戻ってくるからね。愛らしい笑顔で感謝を告げる。そして、地に着いた足を離すように離れた。手を振って、たいせつな15分の2の子達を探しにいこう。毛量のせいで少しフラッとくるのは、いつぶりだろう。こんなに元気に動けたことが久しぶりで、なんだか足元がふわふわする。本当に、飛んでいるみたい。誰かは翼がないなら走ってくわ、そう言った。でもエルは翼がある。走るより、はやい、大きな翼が。大空を舞うガブリエル。神様、少しの寄り道は許してくださいね。

 早朝。
 鳥の鳴き声の音声も聞かぬ間に身支度を済ませ、ストームは学園に居た。そして以前まで乗っていたエレベーターの前、壁沿いに立ちとあるドールを待っている。
 授業の為出てきたテーセラドール達は皆、ストームを見てはそそくさとその前を通り過ぎて行く。それか、気さくに挨拶を交わすドールも居るのだろうが彼らの目には依然として微かに差別的な冷たさが含まれていた。
 ストームはそれらに対し、今現在の彼のままに挨拶を交わしたり、会釈をしたりした。
 彼らはなんの材料にもならない。
 少なくともストームには。
 間違いなく、旧友は数多く居るはずだが彼らは無知のままこの先もトイボックスの日常を送り続けるだろう。
 そんな、未来の犠牲者達を見送る。

 そしてターゲットが現れるとすぐに彼に近寄ってゆく。
 ストームよりも数センチ高く、目つきの悪いドールに、一歩一歩追い詰めるように。

「ジャック、今よろしいでしょうか?」

【学園1F エレベーターホール】

Jack
Storm

 トイボックスという学び場に足繁く通うドールズの疎らとした往来の最中で、あなたは立ち尽くしている。深紅の広間にあなたと言う深藍は異物そのものであるように見えた。
 事実、零落したプリマドールとして悪名轟くあなたの姿は、遠巻きに通りすがるドールズから奇異の目を向けられる要因となろう。陽の光の届かぬ冷ややかな学園の途上、あなたは一つの大扉を前にしている。かつてテーセラクラスに属していた頃に頻繁に行き来をした昇降機の扉である。
 現在のあなたは招かれざる客、相応しくない場だ。擦れ違うかつての同級生も足早にあなたの隣を通り過ぎて行ったが、さて。

 あなたが冷静沈着な声を掛けると、昇降機から降りた偉丈夫はそのセノーテのように蒼く揺らめく瞳にストームを映し出すことだろう。

「……ストーム、か。ここに足を運ぶとは、珍しいな……お前がテーセラクラスを去った日以来、だろう……。

 ……俺に何か用、か。」

 ジャックは多くのドールのようにあなたを邪険にはせず、足を止めて要件を聞いてくれる。だが突如として現れたあなたが、わざわざ手を繋いで引き連れてくるような要件に大した予想も付かず、僅かに声は硬いように思える。

 辺りの生徒とは違う、ストームを同等な者として扱い足を止めたジャックに敬意を持って頭を下げた。
 ひどく澄んだ瞳と対称的な、淀んだヘテロクロミアは瞬く。
 以前、テーセラクラスとしてこの学園で過ごしてた日々にほんの少しの苦手意識を覚えた瞳と対峙する。自身の見えない内部までも見透かされてそうで、心地としてはいいとは言い難かった。今は不思議とそんな心地もしない。
 迷子のストームにとって、彼の瞳はただの硝子玉と化していた。

「そう言えば、そうですね。
 
 お聞きしたいことがいくつか。
 ここではなんなので、移動しましょう。」

 テーセラ寮に帰る日常を送っていた日々が、もう遠い昔のように感じる。模範的(プログラム通り)にフレンドリー。堅実で空白だらけだった日々。もう錆びれて擦り切れてしまったビデオテープのよう。
 読み取れない思い出話をそこそこに、ストームは提案する。落ち着いて話せるところ、と合唱室か演奏室を候補にあげるだろう。
 有無を言わなぬ眼光を突きつけながら。

 かつて、テーセラクラスの生真面目でひたむきな優等生であったジャックは、勿論優秀なプリマドールであったあなたを師として仰いでいた。何をやらせても卒なくこなし、数多の賛美やプリマの戴冠を経てもなお、謙虚で質実たる姿を見せる彼は、彼にとっての規範であったのだ。

 いつも成績上ではストームにあと一歩と及ばなかったジャックであるが、デュオクラスのように苛烈な闘争心によって腐ることもなく、健全に前向きにあなたを尊敬していた。故にこそ、突然のあなたのジャンククラス堕ちには驚いたものであった。

 リヒト、オディーリア、サラ。立て続けにテーセラモデルがオミクロンへ滑落し、彼らの身を案じていたところにプリマドールであるストームが玉座から転がり落ちた。その衝撃は並大抵ではない。

「……俺も、お前とは話したいことがいくつもあった。願ってもない、話だ……」

 ジャックはあなたからの申し出に、悩むでもなく頷いた。警戒はしていたが、彼との対話はこちらとしても望むところであったのだ。
 あなたとジャックはその足先を階段へと運ぶことだろう。

【学園2F 合唱室】

 扉を閉めると、外界とは隔絶された空間になるこの部屋は、内緒話には最適であった。幸にもドールの姿もなく、ジャックは改めてストームに向き直る。

「ストーム。俺に聞きたいことというのは、何だ……? まずはお前の話から聞かせてくれ。」

「感謝致します。」

 驚きつつも了承したジャックへ、柔らかに礼を述べる。彼の行動ひとつひとつを横目に捉えながらストームは彼の後に続いた。
 バタン……。
 音が止んだ空間に、かつてのクラスメイトと二人。
 ジャックがストームの方を向き、話を切り出すとストームは両手を前に組んで微かな間の後口を開く。

「だいたいご存知かと思いますが、ジブンは、ジブン達はトイボックスに関し探りを入れています。それは貴方様も同じだと人づてに聞いてますよ。ドロシーとの行動も増えたとも。
 初めに聞いた時、まさか貴方様のような方が規則を破るなんて、信じられなくて驚きました。
 ジャック。ドロシーから何を聞き、何を見せられましたか?」

 トイボックスを疑う事は容易な事では無い。特に、ジャックのような良きドールを目指し日々努力を重ねていたドールにとっては。
 ストームは図っているのだろう。信用が置けるか、否か。
 それから彼はどこまで知っているのかを。
 アリスのような前例が在る以上、確かめたかったようだ。
 耳心地良く揺らがせた声色と、緩やかな視線を彼に向け疑惑の感情なんかはバレないように腸に隠してしまおう。
 かつてアップルパイに混ぜた隠し味のように。

 礼節を重んじながらも、穏やかで肩の力が抜けるような声色。こちらの緊張を解こうと意識したような厳しくはない眼差し。それとは些か不釣り合いな、ドールズの未来、トイボックスの明日を問うような問答に、ジャックは口を引き結んで暫しの沈黙の後、告げる。

「……成る程。やはりお前は既に多くの事を知っていたか。そうではないかと疑っていた、俺などよりも余程早くこのトイボックスの絡繰りに気づいていると……。

 だが人伝に、か……存外に、四方へ知れ渡っているようだな……」

 自分達の行動が自分達の知らぬ内に、伝播するように事伝っている。その事実にジャックはいささか渋い表情を浮かべる。
 ストームからの問いにも僅かな難色を示しながら。彼は静かに口を開く。

「その全てを語る前にこちらからもお前に質問させて欲しい。

 ストーム、お前の目的は何だ? お前はトイボックスの真実に探りを入れているのか? それとも──事実を知っている者に探りを入れているのか?

 真実を知ってそれをどうする? 何に使う?」

 鍾乳洞に差し込む鮮烈な光を孕んだ清らかなるジャックの瞳が、その眼差しがあなたを真っ直ぐに射抜く。どうやら彼は、内通を案じているのだろう。実直であり誰よりも友人想いであった、テーセラモデルの鑑のようであったジャックが、他者を、それも元同級生を疑っているようだ。
 そしてあなたがそれに誠実に応えなければ、きっと彼は何も語らないであろうことも察するだろう。

 神秘なる鋭い眼光が、パッチワークのような瞳を射抜く。
 突きつけられた拳銃はかつての友から。
 ストームがジャックを疑うのと同様に、彼もまたストームを疑っている。
 疑われている。
 また、しばらくの間。
 いつの間にか、ストームから朗らかな表情は消え失せていた。


「……ジブンの目的は」


 息を吸い込む音がやけに反響する。

「──海を見ること。
 トイボックスからの逃亡。及び破壊。その為にトイボックスを知ろうとしている状況です。」


 ストームはジャックに伺いをたてるように首を傾げた。それ以上は目的を口にすること無く、ジャックに切り返すだろう。


「先程の質問の答え、お聞かせ願えますか?」

 先程とは違う、低く重い声色。
 ジャックからの眩く鋭い眼光を遮るように伏せられた睫毛からは、監視するように異色の双眸を光らせる。
 “友”と言うのは厄介なもので、少しの懐疑心が芽生えてしまえばいつでも相手の首を掻き切る為にナイフを磨ぐ。
 ちょうど、今の彼らのように。

「………………そうか。」

 あなたが滑り落として浮かべた流氷のような美しい無貌を、ジャックはただありのままに映し出していた。聖なる泉がその者の本性を露わにするように、飾る事も、貶める事もなく、ジャックの眼窩のセノーテはあなたの心を写し見る。

 やがて彼は泉を隠して、一言呟いた。
 海を見るため、トイボックスを破壊し、逃れようとしている。あなたの言葉の是非も、真偽も、彼はそれ以上に問い返す事はなかった。ストームが話すつもりもなさそうであると言うことを察しているのだろう。

「……勿体ぶったが、俺が知っている事もそう多くはない。

 ドロシーが“おかしくなって”から、彼女は目に見えない何かを信奉するようになっていた。ドロシーはそれを『√0』と呼んでいた。√0という不定形の存在は、いかにトイボックスが俺達ドールを苦しめるために存在しているかを、頻りに語って聞かせるのだという。」

 ジャックは静かにあなたに語り聞かせた。ドロシーが受けたと言う『天啓』の内容を。
 お披露目の実態。
 ジャンクドールの末路。
 ドールズに待ち受ける終わりなきサイクル。
 そのいずれも、あなたが知っている事実であろう。

「俺も初めは信じられなかった。トイボックスと先生方、それからヒト達を信用していたからな。だがドロシーの様子を案じて彼女に同行するうち、『√0』の語った話が事実としか思えない証左がいくつも出てきた。トイボックスの在り方を疑うしかないと言える残酷な真実が……。

 お前たちも、今俺が語ったことが真実である事は知っているんだろう。だからこそ、このトイボックスから逃れようとしている。今はそう考えることにしよう……」

 低い声で、木々の擦れ合うような小さな音で、ジャックは語り続ける。

「曰く、√0という存在は青い蝶の形の案内役として、たびたびドールズの目の前に現れる。青い蝶を目撃したドールは決まって擬似記憶のその先を思い出す事になるが、その代償として現在の記憶を失う事も稀にあるらしい。

 青い蝶が垣間見せる擬似記憶の延長は、ドールズの無意識領域の深層に眠っている、真実の記憶だ。ほとんどのドールは、自分が人間であった頃の記憶を思い出す。擬似記憶がそうであったように、大切な人との蜜月の記憶だ。

 つまり俺達は、かつて生きた人間だった『誰か』を模して造られたドールということになる、らしい。」

 自身の胸板に手を添えて、彼は目を伏せたままに告げる。

「なぜ√0が俺達に真実の記憶を見せるのか、ということだが……。

 ドロシーによると、青い蝶と接触すればするほど、√0と繋がりやすくなるらしい。√0はドールへの接触の際、俺達の脳神経に干渉してくるようだ。もしかすると記憶の懐古はその副作用で起こっている可能性がある。そして現在の記憶が消える件については、脳神経に負荷がかかりすぎた影響であるとも考えられる。

 √0との接触には大きなリスクがある。それでもドロシーは√0を追うことに意義を見出しているらしい。

 √0を追えばドールズは解放されると。……俺はそんな胡乱な存在を信じているわけではないが、危ういところに立っているドロシーを監視すること、それから脱出方法の検討の為に彼女と行動を共にしている。

 ……こんな所か。理解は出来たか?」

 耳に心地の良い、テノールバスの波長。
 すんなりと入ってくる音をストームは静かに聞いていた。
 √0、ドールズが辿る道、外れることが許されないサイクル。ジャックの聞き取りやすい声と裏腹に、聞き入れることを拒絶したい内容の数々が語られていく。
 一通りを話し、ジャックがストームへ投げかけるとストームは電源が着いたように動き出した。

「えぇ。貴方様には感謝しかありません。
 貴方様がドロシーの監視をしてくださっているのなら、心配しすぎる事は無いですね。恐らくですが、彼女はまだ企んでいることがありそうですし、その為なら自身が犠牲になる事も厭わないでしょう。

 ……ジャック。厚顔無恥なのは分かっておりますが、ひとつ頼まれ事してくださいませんか?
 ほんの少しの変化でもいい、なにかドロシーが企んでいる素振りを見せたら探りを入れて頂きたい。
 彼女は随分ここに詳しいはずです。それに、“完全に”おかしくなってはいない。
 彼女は何か行動を起こすと思われます。
 そして貴方様の事だ、放っておけないはず。」


 膨大な情報を咀嚼する。
 大人になりきれないモデルにはあまりに苦々しい情報を数々だが、善悪の味も区別出来なくなったドールには些細なことの様に思えただろう。
 だからこそ、ストームはなんの揺らぎもなく凪いだ瞳を携えてジャックに向き合う。


「代わりに貴方様の望む事を致しましょう」

 右手を差し出した。
 これは契約だと言わんばかりに。

 ジャックが語り始めると同時に動作を停止し、そして口を閉ざすに合わせて再び火が灯されたように動き出すストーム。彼の配慮によって最後まで話し終えたジャックは、一つ息を吐き出しながらツイ、と目を逸らした。
 憂いの止まぬコメットブルーは、変わらずあなたの真意を図りかねていた。
 それはストームがテーセラクラスを去った日から、ずっと同じこと。ジャックは彼の背を追ってはいたが、その途上で彼の表情を見ることの出来た試しがない。
 故にジャックはストームを測ることが出来ない。どうあっても。

「俺は……初めから、そのつもりだった。ドロシーは、彼女のお披露目が取り下げになった日から……いや、それよりも前から少しずつ追い詰められているように見えた。お前の目にもそう映っていただろう?

 ──ドールズを皆殺しにしてサイクルを崩壊させる、と、以前ドロシーはそう俺に言ったんだ……。

 俺は当然、反発した。
 方向性が分かたれたと理解した彼女は、表立って対立しようとはしないものの、俺に目的や目標の全てを開示しなくなった。

 近頃はドロシーと話をしようとしても、訳のわからない言葉と態度で煙に巻かれることが多くなってきた程だ。それは√0のせいばかりではない。自分がしでかそうとしていることを邪魔されたくないんだろう。」

 彼らの間にやんわりと隔たった断絶の存在を、ジャックは詳らかにした。
 ドールズを皆殺しにする。
 ドールズを求める顧客の手から、自らを強引に奪い去る。
 それは彼女のトイボックスを巻き込んだ派手な自爆による、壮大な復讐劇のようであった。

「俺には……ドロシーのやろうとしていることを見逃すことは到底出来ない。リヒトにサラ、オディーリアは、己に欠陥があることに日々苛まれながらも、ヒトの為に熱心になっていた。テーセラクラスの他のドールズも、他クラスのドールズも、抱えている気持ちは皆違えど、本質は同じもの……。

 彼等の熱意が、希望が、或いは信心が、残酷な形で裏切られていいはずはない。
 俺達には意志があって、思考があり、この胸には鼓動もあるんだ。皆殺しも、無益に消費され続けることも間違っている。

 俺もお前と同じ。出来ることならば脱出を目指したい。生きて自由を勝ち取りたい。」


 ストームから差し出された右手。
 ジャックはそれに目を落としながら、ドロシーとは相容れない己の理想を、遥かなる頂きを語った。簡単なことではないと分かっていながら、彼はそれを口にしている。
 堂々たる態度で、ジャックはストームの前に立ちはだかる。


「──だが、その手を取るには、俺にとってお前には分からないことが多過ぎる。

 あの日からずっと、そうだ。

 お前は小動物を痛め付けて、その結果オミクロンに陥った。あの行動の意図は今でも俺には分からないまま。お前は昔から謙遜が過ぎるところがあった。己を必要以上に出さず、いつも粛々としていた。

 その腹の中に何を抱えているのか。俺にはドロシー以上に、お前のことがわからない……」

 彼は、その手をすぐに取らなかった。
 それは一重に、謎に満ちたあなたへの抑えきれない不信感が最たる理由であった。或いはジャックは、勘付いていたのかもしれない。あなたの底に息づく、得体の知れない嗜虐心を。

 ジク……。
 コメットブルーの瞳は、どこまでも誠実で生真面目だった。ざわめきがストームの背中を這う。
 ドロシーの歯車がズレた瞬間をストームは知らない。
 彼女が狂っていくのと同じくして、ストームの中にも小さくてドロドロした欲が生まれたから。
 ドロシーにとってジャックは信頼の置けた友人であったのだろう。が、彼は少々、いや異常と言っていい程に真面目過ぎた。それが彼らの悲劇の始まり。
 ジャックから語られた事実や理想に、ストームは何を言う訳でも無いまま続く彼の話を聞いた。

 ジク、ジク、ジク……ジュプン……。
 塗り固めた偽善の仮面が融かされ落ちた音がする。
 なんということだ。あろう事かジャックはストームの内に眠る肥大しすぎた欲望を嗅ぎつけているようだ。
 彼の勘は鋭い。鋭く危険だ。

「さすが優等生と言われるだけありますね。相手を知ろうとする姿勢、模範的なテーセラドールの行動です。」

 ゆらりと瞳が揺れた。
 信念からの態度か、彼の本質か、ジャックはその大きな体躯を真っ直ぐにストームに向けている。
 ストームは胸元に指を添えて瞳を細めた。

「ではジブンの事も監視してみますか?
 貴方様が可能であるなら、ジブンは構いませんよ。
 ですが、ドロシーがいつ行動に出るか定かではない。ドロシーを止めたいのなら、情報も人手もあるに越したことは無いです。彼女が行動してからじゃ遅い事はご理解頂けるでしょう?

 決めるのはジャック、貴方様です。」


 ストームは真っ直ぐに見下ろすコメットブルーから目を逸らすことは無かった。悠然と構え、相も変わらず淀んだ心の内に真意なんて見えやしない。


「もう疲れたでしょう? おひとりでドロシーを監視し、常に彼女の行動に注意払うのは。
 独りで苦しむ彼女を見るのは辛いでしょう?」


 曝け出してしまいなよ。カタブツ君。
 さぁ手を取って?
 狂気的なステップで踊ろうよ。

 少年の皮を被った怪物は、いかにも優しそうな笑顔を目元にだけ浮かべる。色違いの双眸が瞳の輪郭に合わせてぐにゃりと歪んで、トパーズが、アメシストが、禍々しい色を渦巻いたように見えた。

 もし神の視点でこのやりとりを見る者が居たとすれば、彼の立ち居振る舞いを、この対話そのものを、悪魔との取引と形容するであろう。差し伸べられた手は暗くて得体が知れず、彼の足元には深淵が広がっている様である。

 しかしジャックの持つ澄み渡った泉でさえも、それら全てを見通す事など当然出来る筈はない。彼もまた舞台上で操り糸に引かれる役者であり、神々たる観客ではないのだから。

「……話すつもりは、ないんだな」

 あの日。
 彼がテーセラクラスでの日々の全てを捨て置き、オミクロンへ下ったあの日の事。
 ジャックはあなたから、これを機に全てを聞き出すつもりだった。だが、どうやらそれは叶わぬ相談らしい。

 ストームはジャックを過日の友として見てはいない。だからこそ語る言葉を持たない。
 そしてジャックもまた、彼への不信感が拭えぬままでいるのだから。


「やはり、その手を取ることは俺には出来ん……。同級生のよしみとして、知り得ることは全て話した。お前が俺から聞いた情報をどうするかは、お前の良心を信じて、委ねる事にする……。

 だが、勘違いはしてくれるな。俺は変わらず、お前のことを理解したいと思う。……今も友人だと思っているからな。お前もそうあれと強制するつもりはないが、もしも心変わりがあったなら、お前も俺に話してほしい。……お前の抱えているものを。」

 ジャックはそう最後に付け加えると、あなたの手を取ることなく踵を返す。止められることはないと分かっているからか、彼はそのまま足を止めずに合唱室から姿を消した。

 あーあ。
 善人の立ち振る舞いも、第三者(ドロシー)をダシに使う作戦も失敗。分かるのはジャックが口を開けば開くほど、ブレない真面目なドールってだけ。
 “正しい”事を行おうとする賢者は、その清らかなる瞳をただの一度も揺るがすことが無かった。
 交渉決裂の音が鳴る。

 握られること無く宙に浮きっぱなしの手を引いたのは、ジャックが教室から完全に姿を消してからだった。
 真っ黒に淀みきった自身の手を見つめ、握り締める。

「理解したい、ですか。
 あなたのような賢者が狂人(ジブン)を理解するなんてトイボックスが壊れても不可能でしょうに。」

 くらりと頭を傾けると、微かに三つ編みが揺れる。
 善人がニガテだ。
 特に、あんな風に良心を振りかざしズケズケと信念に介入しようとしてくる輩が。
 秩序の檻の中にお高くとまって異常者(落ちこぼれ)に慈悲をかける姿は、無性に消したくなる。

 ────『ストーム』。

 ジャックの声が遠くで聞こえたような気がした。
 遠く。遥か彼方の、昔に。
 どうしてそんなに心配そうなの?
 廃れきってるのはトイボックスの方なのに。
 正攻法で上手くいくはずないのに。

「クソ」


 ガンッ……。
 拳を握りしめたストームは、あろう事かそのまま壁を殴った。ピリッと走った指先の痛みは爪の割れた場所。

 すぅ、と息を吸い込み吐き出した。
 そしてストームは合唱室を出て行く。
 ジャックの友人としての肩書きを、その場に置き忘れて。

【学園1F テーセラドールズ専用控え室】

Campanella
Storm

《Campanella》
 線の細い夜鷹は歩く。その静かな美貌を隠さない指揮棒のような姿勢で、その布のような髪を翻し、コンパスのような足を淡々と動かして。
 その堂々とした態度は、通常の“彼女”とは似ても似つかない。バージンロードを歩く花嫁のように、粛々と、麗しく。

 階段を下り終えた姉なるものは、まるで何かの導きを受けたかのようにその扉を一瞥した。閉ざされた瞼の奥で瞳が色を変える。
 ノックは四回。「失礼いたします」と、声は扉の向こうへ届くよう、はっきりと。

「こちらにいらっしゃいましたか。……ストーム様。」

 そこはテーセラクラスの控室である。今まで、数々のドールが胸を高鳴らせながらここで絢爛な衣装を纏い、これから出会うヒトのためにさまざまな準備をして、果ての見えない美しい未来に目を輝かせた、そんな空間。
 本当に、ふざけた場所だ。

「妹が、借りてそれきりだったとお聞きしています。使ってはいませんが、洗濯は済ませておきました。こちらを」

 あなたから反応が返る前にと足早に歩み寄ると、姉なるものはそのヘテロクロミアを見据えながら、あなたによく覚えのあるハンカチを差し出すだろう。警戒を絶やさず、常に自身を緊張状態に置く聡明な少女を、あなたはどう見るだろうか。

 ドレッサーの前、煌びやかに着飾られるドールの幻影を浮かべ、ストームは椅子に指を滑らせる。
 死に逝く時、ドールズは生涯で最も美しくなる。
 それらが、調理過程だということも知らずにぬか喜びまでするのだろう。

 可哀想に……。

 カツ、カツ、カツ。
 力強く嫋やかな足音が近付いてくるのに気付く。ゆったりとパッチワークの瞳をドアの方へ向け、訪問者を待った。
四回のノック。
 礼節なマナーを重んじるドールの声。ストームが「どうぞ」と告げれば扉が開かれるだろう。

「“カンパネラ”ではないですか。お久しぶりです。
 ……そういえば貸していましたね。お心遣い感謝いたします。」

 高潔で凛とした黒百合に、ストームは身体を向け頭を下げた。今朝も同じ食卓で顔を合わせたはずだが、彼女は“違う”。久方振りの再会だった。
 有無を言わさずに突き付けられたハンカチを見下ろす。肩身離さず持っていたソレを、彼女の小さな手から受け取ると再度礼を尽くすだろう。
 彼女の隠す気のサラサラない警戒心を痛いほど肌に感じ、目を細める。いつもの事ながら感心する防衛本能だ。
 『彼女』の為にも、ストームは一歩後ろへ身を引いた。

「貴方様を取って食ったりはしませんよ。もちろん、彼女も。
 ちょうどいい。彼女に聞きたい事があったんですよ。貴方様でも構いませんが。」

 深く鮮やかな青に訴えかけた。
 深い深い夜を共に過ごす彼女達に、ストームは話し掛けている。どちらか一方では無い、カンパネラへ。

《Campanella》
 久方振りというストームの感覚は正しい。最近は、身体の所有権は妹が握っていた。彼女は明確な目的を持って行動をするようになったのだ。“オートプレイ”を必要としなくなった彼女の成長に、姉なるものは仄かに喜んでいる。この役割が終わるのも、そう遠い未来の話ではないのかもしれない。
 とは言えども、この猟奇犯・ストームとの相手をするにはカンパネラはまだ弱い。というかシンプルに危険だ。急速な成長、或いは回帰を見せる彼女とて、この男に立ち向かう勇気はない。何をされるか分かったことではない……。

 ストームが頭を下げると、姉なるものはそれに応えるように麗しいカーテシーを披露した。ここだけ見れば、まるで宮殿で開かれたサロン、紳士淑女の交流である。
 面を上げる。透明な視線は、あなたと明確にかち合っていることだろう。

「それならば受け答えは私で充分でしょう。あの子の握る情報は、私も全てくまなく把握しております。
 ……私も一応、今後のために貴方様にお訊きしたいことがございますから、後ほど。対価はそれとしましょう。」

 どうぞ。姉なるものは唇を引き結び、貴方からの質問を待つだろう。足は揃え、手は臍の下に、塔のごとき姿勢と圧を持って。

 ここが調理台と認識していなければ、ワルツ第九番が灘らかに奏でられていたことだろう。残念ながら、全てを知ってしまった罰として音を奪われたピアノからは何も聞こえてこない。ピアニストは逃げおおせ、戻っては来ない。
 ただ、冷たい温度で辺りを満たされるだけ。
 初夏の温度を忘れてしまったみたいね。

 彼女が口を閉ざし、青い眼差しを向けてくればストームは口を開く。


「感謝いたします。
 では、貴方様は開かずの扉に入った事はありますか?」

 ミルクを溶かしたような声色、角砂糖の代わりに冷たい鉛玉を乗せる。
 音の止んだ社交界はあまりにも殺伐としていた。

《Campanella》
 みんな、いなくなった。隣にギロチン台が立っているというのに、談笑などできるわけがなかった。ピアノも弦を失い、形だけがここに残っている。それがバレないように皆、空虚な鍵盤を叩いて、唯一のサロニエールに出会う夢を見ているふりをするのだ。
 ヘテロクロミアは問う。透明な水に血を一滴垂らしたような、そんな声で。
 姉なるものはあなたの聴覚が変わらず優れているのを信じて、控室の外に漏れないよう、極小の囁き声を放つ。

「開かずの扉……黒い塔に繋がっているという、あの踊り場にあったものですね。私や彼女が覚えている限りでは、そのような記憶はございません。
 が……“前回”の彼女の記憶の多くが欠けている以上、断言はできませんね。」

 シャーロットやカンパネラの友人・グレゴリーは、お披露目に行ったシャーロットにカメラを届けるため、複数人で寮を抜け出したのだという。なにせシャーロットは彼女の大親友である、カンパネラもそれに同行した可能性はないとは言えないだろう。

「ああ、けれどどちらにせよ、私達はあの夜にその扉の向こうで何が起きたのかは、存じています。
 さて……何故、そのような質問を?」

 何気ない問いであったとしても、警戒するに越したことはないと姉なるものは問い返す。

 静寂なるサロンは始まっている。
 外に居る監視者にバレないように、囁き声で話す黒百合の言葉に耳を傾けた。

「前回の……なるほど。
 アレは過去の記憶で間違い無いのですね。

 あぁ申し訳ない。質問の意図を説明していませんでしたね。彼女です。

 ──“ミズ・シャーロット”ですよ。」


 考え込む仕草をしたかと思えば、高貴なる黒百合からの問い掛けに猟奇犯は頷く。そして口に出されたのは、貴方が追い掛け続けた親友。シャーロットの名前であった。
 ヘテロクロミアをまん丸く開き、続けた。


「彼女の素体の半分がオミクロン寮、ツリーハウスに居ることを耳に入れまして疑問に思ったんですよ。
 彼女はどこから?
 身体は半分になっていて、個人を特定することが出来た。この点から上半身のみだったと推測できます。そしてドールが解体される場所について。一般的にはお披露目の時のダンスホールか、開かずの扉の奥の焼却炉です。あくまで自論ですが個性というものは大抵顔に出ます。顧客がドールを気に入らず引き裂くのなら、狙われるのは大抵首から上かと思われます。なので恐らく、焼却炉から彼女はいらした。
 既に亡くなってしまった者が動くなんて事は無いので、どなたかが運んだと推測され、貴方様は彼女を運んだ記憶は無い。では他に誰かがミズ・シャーロットをツリーハウスまで運んで来た可能性があげられます。

 彼女は知り合いなのでしょ?
 他に誰か、“以前”の貴方様とご友人だったドールはいらっしゃいますか?」


 ひとつひとつ指を折り曲げながら、ストームは質問に至る根拠を述べた。捲し立てることはせず、ただ淡々と。
 答えを得られないようならあっさり引き下がるだろう。
 彼女を刺激したい訳ではないのだから。

《Campanella》
 出された名前に、姉なるものは片眉を僅かに動かして反応した。シャーロット。それはまさしく唯一無二の極光。
 妹の、そして或いは、同じ“カンパネラ”である、彼女の。

 あなたの双眸の奥に、姉なるものは獣のそれのような瞳孔を見る。ああ、逃れられないのだと獲物に悟らせるように。影を縫うように。

 演説ともまごうストームの言葉を、姉なるものは静かに聞いている。珍しく髪で表情を隠し、口許に指を当てて何かを思考する所作をしながら。

「……あれは、焼死体でした。あなたのおっしゃるとおり、彼女は焼却炉で処分されたドールです。ミシェラ様と、同じように。」

 頭のよく回るドールだ。テーセラモデルのプリマドールの名は、かつて座っていた玉座は、伊達ではない。いつか叩き落とされるためのものであれども、その冠は間違いなく彼らの優秀さと賢さを示している。……厄介な相手だ。
 額に手を当てながら、躊躇いつつ応答する。姉なるものはひとつため息をつくと、横髪を耳にかけた。涼しく、変わらず、冷静な貌を晒す。余裕があるという表明をするかのように。

「シャーロット様の遺体を運んだのは、ドールです。恐らく、“前回”のカンパネラとも多少は面識があった。
 しかし、それが誰なのかは不明です。性別やモデルなどの人物の詳細も、どうやって運んだのか、どう焼却炉に忍び込んだのか……そのことも、一切が分からない状態です。」

 敢えて、グレゴリーの存在には触れなかった。対価を要求する以上はある程度の情報を提供する必要があったが、なるべく何も教えたくないという心情もある。
 あの思い出は、カンパネラの何よりもの宝物だ。易々とは明け渡せない。妹のことを想うのならば──同じ“カンパネラ”なのならば。

「カンパネラは多くを忘却しています。今のところ、貴方様の役に立つ情報は、ほとんど握っていないと言えるでしょう。」

 然り気無く、無闇な詮索をさせないようにと言紡ぐ。慎重に盾を構えるように。

 黒百合の彼女はその美しい空の蒼を、パッチワークの奥に届かせる。相変わらず鋭い蒼だった。
 微かな揺らぎの後、蒼い光は帳の奥に身を隠す。

 焼死体……ミーチェと同じ……。
 ストームに焼かれた記憶は無い。元より共感性が乏しいドールだ。その痛みも苦しみも理解らない。
 肌が焼けるとは、呼吸が苦しいとは、爛れた肌が張り付くとは、どんな感覚なのだろう。
 全くの未知の世界だった。
 前に組んだ手で、もう一方の手の甲を摩る。
 一つのため息の後、カンパネラはその麗美で冷ややかなる瞳を携えたかんばせを見せ付けた。
 点と点を繋ぐ。まるで星座を作るように。
 不格好に繋がってゆく星々には、あの星座にはなんという名が与えられているのだろう。

「……なるほど。不躾な質問をしてしまい申し訳ございませんでした。」

 彼女からの防衛線を感じ取れば、ストームは身を引く。想像よりずっと多くの情報が得られ彼女に感謝する事だろう。ストームが今見てる星座の答え合わせは、しなかった。彼女にとっても、カンパネラにとっても最良でストームには都合が良かったから。

「貴方様もジブンに訊きたい事があるのでしょう? お望み通りの返答が出来るか分かりませんがお聞かせください。」

 対価の支払い。相手を暴く事によって求められる対価は、ストーム自身を暴く事だろうか。
 ストームは口を噤む。
 犯す者から、犯される者へ。
 突き立てたナイフは自然とそのナリを潜めた。

《Campanella》
「いえ。数人にはもう伝わっている情報ですから。」

 ゆるゆると頭を振る。別にこんなこと、今更聞かれたって、大して傷付きはしないのだ。だってカンパネラは、彼女と再会できるはずだから。
 諦めなければ叶うはずの夢なのだ、もし“今回”で失敗しても、きっとまた、チャンスが……。そう、カンパネラは信じている。妹が信じるものは姉も信じる。彼女達にとって、姉妹とはそういうものだ。

「ええ。答えられる範囲で構いません。」

 この手にあるものが、凶器であるかは分からない。分からないが、妹は、『彼に訊いてほしい』と頼んできた。

『分からないことをなるべく減らしたいの。お父様が怖い。何考えてるんだろう。怖いけど知りたい。おねがい。』

 目覚めたときに手に持っていたノートには、そう乱れた文字で書かれていた。いくつかのメモと、姉へのメッセージ。
 少しの逡巡の後、姉なるものは声を更に潜めて伺う。

「医務室での、先生との“面談”についてです。」

 夜の帳のような髪を揺るがす。表情の機微から何かを読み取れないか……睨むように覗き込む。瞼は閉ざされたままに。

「ストーム様。貴方様はカンパネラと同様に、精神的な欠陥を持っていらっしゃる。だから定期的に、先生……管理者デイビッドと定期的に面談を行っている。そのような認識でよろしいですね?」

 寧ろ、そうでなくては困るのだが。

「面談中、彼に何かを探られたという経験は。……記憶の回帰についてなど。」

 “面談”という単語に、ストームは微かに眉を上げた。
 彼女の声は音で言えばピアニッシモの囁きだった。
 その単語には良く馴染みがある。ストームも、カンパネラも。
 鋭い眼光にストームは眉を提げた。そんなに睨まれた覚えは無いが、仕方がない。彼は異常者なのだから。

「えぇ、間違いありません。
 やんわりとはお聞きしてましたが、彼女もですか。
 記憶に関しましては、ジブンは聞かれた事がありません。問われる内容は精神状態を確認する簡易的な問答ですね。」

 彼女の質問に対し、肯定の意志を示すよう頷く。
 ストームの欠陥は過激な暴力性。精神の欠陥とされオミクロンまで堕ちた彼は定期的に面談をする必要があると評価され、その狂気を抑制するトレーニングをしてきた。
 デイビッド先生の計らいで孤立感を感じさせないようにだろうか。オミクロンに来たばかりのストームに、他にも彼と同じように面談を受けている生徒が居るとデイビッド先生は教えた。それが、カンパネラであった。

 しかし、カンパネラの言っている記憶の回帰について、ストームは分からなかった。眉を下げ、彼女の顔を覗き込むように見る。

「失礼ですが、記憶障害をお持ちなんですか?」

 同情した“ような”表情は得意だった。

《Campanella》
「……なるほど。ええ、カンパネラも概ね同様です。露骨に探りを入れられている訳ではなさそうですね」

 カンパネラの欠陥は人格乖離。乖離性同一性障害……ヒトにも見られる、二重人格障害とも呼ばれる精神疾患だ。
 副人格である“姉”の様子やカンパネラ自身の状態、原因の追求。内容はストームのものと同じく、概ね名目通りのものだ。
 ただこの面談は、医務室でデイビッドと二人きりで行われるもの。二週間に一回と、頻度は高いとは言えないもののそれなりの回数を重ねる。管理者として、ドールが隠していることを暴く場、若しくは管理者とドールが内緒の話をする場として有用な環境になり得る。
 内通者の話を、カンパネラは知っている。その疑いを仄かにかけつつも、同じ面談を受けている人物としてストームに話を訊いてほしいと、姉に頼んだのであった。

「…………」

 ポーカーフェイスは何事も語らない。愛する妹にさえ、何も。

「いえ、そういう訳ではなく。……先程、“前回のカンパネラ”の話をしましたね。記憶の回帰とは、彼女の前回…前世とも言うべきでしょうか。過去の学園で、今のあの子とは少し異なる『カンパネラ』として生きていた時の記憶の話でございます。」

 同情の真似事、型にはめたような表面だけの感情表現を冷たく見上げながら、姉なるものは淡々と述べるだろう。

「記憶は、ドールズにとって最も重要な要素であるそうです。植え付けられた疑似記憶と、無意識領域の中の深い場所に潜む本来の記憶。それらは厳重に、『監視者』を設けるほどに管理されている。
 しかし現在はカンパネラを含め、真実の記憶を取り戻しているドールズが複数名存在するようなのです。貴方様にも思い当たりはありませんか。
 ───そのことを、このトイボックスの管理者が誰一人把握していないなど、有り得ない。」

 姉なるものは、瞼を上げる。
 まるで子を守る母獣の威嚇のように、鋭い目をぎらりと光らせて。

「貴方様がカンパネラの、ソフィア様の、オミクロンの裏切り者ではないのならば。トイボックスの管理者……特にデイビッドに対しては、更なる警戒を。今まではそうでなくとも、今後あの場で何かを仕掛けられるかもしれません。」

 絶対零度の嫌悪を向けられる。どうやら仮面はあっさりと壊されてしまったらしい。
 流石はカンパネラの姉と名乗る女性だ。並外れの警戒心にトゥリアの洞察力を持ってして、あっさりと虚偽の感情を剥ぎ取ってしまう。
 淡々と述べられる話に、ストームは瞬いた。

「記憶を監視されている可能性がある、と。
 ………………すみません。気分が良いものでは無く」

 ぐるぐるぐるぐる。
 頭を黒い影が支配していくような気がした。気配を感じてしまえば、ソコにはもう『居る』。
 ストームは咄嗟に口を抑え、眉を顰める。

 管理者が思い出を?
 冗談じゃない、本物の母上との大事な思い出に土足で踏み込んで荒らして。許されるわけが無いだろ?

 どこまで行っても、どこまで否定しても、どこまで足掻いても。所詮はマリオネットだと突き付けられた。
 ぐわりぐわりと揺れる頭に彼女の言葉が注がれてゆく。
 まるで追い討ちだった。

「先生、がですか。
 ……心得ておきます。」


 この身体は、この思考は、この記憶は
 全て全て、全部全部全部全部全部!
 ───デイビッドに知られている。

 底なし沼に突き落とされたようだった。
 最初から沈んでいっていることに気付いていなかった愚か者だっただけなのかもしれない。

《Campanella》
 突如吐き気を催しでもしたかのような反応を示すストームに、姉なるものは僅かに困惑する。決壊した仮面の奥にファントムの素顔を見る。

「……………」

 存外、人間みたいな顔もできるのか。姉なるものは少しのやりづらさを感じながらも、その場に立ち尽くしてストームの様子を眺めている。
 警告を終えれば、瞼はとうに閉じられていて。冷たい氷のような相貌を向けながら、ストームの言葉に軽く頷いた。
 姉なるものの愛する愚者は、彼女の妹ただ一人。沼から引きずり出してやることもできたはずの手は動くことなく、あなたに触れることもなく。

「……訊きたいことと、お伝えしたいことは以上です。」

 どこか機械的に話を切り上げると、姉なるものは黒髪を翻してまた扉の方へ歩んでいく。何の蟠りも残さない、いっそ清々しい立ち振舞いだ。
 まっすぐに歩み行き、ドアノブに手を掛ける。特に制止がなければ彼女はすぐに部屋を出ていってしまうことだろう。その表情は少なくとも、あなたからは見えない。

 最愛の妹と、妹の身を脅かす彼では慈悲の手が差し伸べられることはあるはず無かった。悪魔に引き摺り込まれるのも、時間の問題なのだ。
 ストームに目をくれることも無く、くるりと背を向けた彼女の凛とした背中を見つめる。口に添えた手をゆっくり下ろした。
 引き止めることはしない。夜の黒を揺らす彼女を見るのは、いつになるか分からないから別れの言葉を告げるのだ。

「さようなら、“カンパネラ”」

 厳粛な社交界は、音楽無しで終焉を迎えた。
 カーテシーは無し。
 高潔なる淑女の眠りは、存外近いのかもしれないから。

【学生寮3F 図書室】

Rosetta
Storm

《Rosetta》
 静謐な図書室の中。赤薔薇は、俯いて手の中で何かをもてあそんでいる。
 グレーテルの話をしよう、とストームに誘われたのが朝のことだ。
 話しかけられた時は、自分がいつも通りに振る舞えている自信はなかったが──今は、大丈夫だ。
 大丈夫。傷付けない。殺しもしない。リヒトがそう望んでいる。
 ただ、少し。彼も償いに巻き込むだけだ。同じ道に引き摺り込むだけ。

「いつ来るのかなあ、ストーム」

 今回は、少しだけ早く着いたからだろう。
 余裕を持って、ロゼットは車椅子に座している。待ち人が来たのなら、人形らしい薄い笑顔を向けるつもりで。

 あの日以来、ロゼットと言葉を交わすことが無かった。
 ジゼル先生に手を貸してほしいと頼まれ、彼女を引き上げたあの日以来。
 ストームから声を掛けたのに、食器の片付けやらエルの手伝いやらをしていて遅くなってしまった。
 大股で薔薇の元まで飛んでゆく。
 勢いのまま扉を開け彼女の元まで近付けば、ほら、前と逆だ。

「お待たせ致しました。遅れてしまい申し訳ございません。」

 ストームは、車椅子の彼女の前まで行って深々と頭を下げた。気味の悪い薄笑いに気付いたのは顔を上げた時。
 彼女の表情に、眉を寄せ伺うように彼女の顔を覗き込むだろう。

「お身体は大丈夫ですか?」

《Rosetta》
「私も今来たところだよ。気にしないで」

 訝しげな表情を浮かべられても、ロゼットは気にしない。
 どこにでもいる、凡庸なトゥリアドールのように。穏やかに言葉を返してみせる。
 目を細めているのは、きっと内にある感情を悟られないためだろう。磨りガラスの向こうから機会を伺っている、醜い獣のような憎悪を。

「まあ、車椅子も慣れてきたからね。みんなが助けてくれるから、大丈夫になってきたよ」

 毒にも薬にもならない返答。その話題が世間話に過ぎないことを、ロゼットは無感動に示す。

「グレーテルの話、するんでしょう。何から話そうか。私がグレーテルに壊された話でも、する?」

 穏やかな返事だった。
 下半身不随、体の支障もそうだが何より精神的支障が重たくのしかかる。そんな中にも関わらず、ロゼットはいつも通りだった。
 ストームは安堵し、近くの椅子を引いて座る。
 彼女の中で今か今かと目を光らせる獣に気付きやしない。

「……は?」

 まるで世間話の延長線上のように、パッと告げられた言葉にストームの表情は固まる。

『──必ず殺してあげるから。』

 彼女が言い放った殺害予告の相手はソフィア。
 それも絶望による精神的殺害のはずだった。

「詳しく……お聞かせください。」

 ストームは握り締めた拳を抑える。
 瞳は何処までも冷えていく。
 ソフィアとロゼットの関係性を、深くは知らない。
 何を信じていいかも分からぬ状況、他者への思いなんかコロリと変わってしまう。
 そのため、グレーテルがロゼットを襲った理由がストームには分からない。

 胸の奥、静かなる憎悪が宿る。
 ラズベリー色の瞳を揺らす彼女に向けた明確な憎悪が。

《Rosetta》
 控えめかつ、謙遜の美徳が目立つ振る舞い。 ファイルに書いてあった通りだと、そんなことを考える。
 礼儀正しく、秩序の内で破壊を試みる、躾をされた猟犬のような青年ドール。
 友愛を重んじるテーサラは、思っていたよりもこちらを気にかけてくれていたらしい。
 ならば、こちらも仲間のペルソナでもって応えよう。自分たちは元々、協力し合うクラスメイトなのだから。

「いいよ。そもそも、何で床下収納なんかに落ちたかっていう話なんだけど……あの日、ダイニングでみんなを待っていたら、グレーテルが通信室の鍵を落としていってね。ついでにソフィアの話もしようと思って、サラとオディーと一緒に通信室に入ったの。
 通信室の場所って、分かるかな。先生の部屋の本棚をずらしたら扉があって、そこから入るんだけど……三人とも入ったタイミングで、本棚を元に戻されちゃって。
 それから出口を何とか探して、床下収納からエントランスホールに戻れるかも、っていうところまできたんだ。先にふたりを持ち上げて、私を引き上げてもらおうとしたら……バタン! って」

 人差し指と中指で、てくてくと歩くドールズを模したり。平手で勢いよく閉まる扉を再現したり、ロゼットは軽い調子で出来事を話していく。
 なるべく重くならないように、という気持ちもあるのだろう。その場にいなかったドールに、罪悪感など抱かれてしまっては困るから。
 自分がその場におらず、何か別のことをしていたなら、誰も責められるべきではないのだ。
 だって、その時はそのドールがするべきことをしていたはずなのだから。
 ちらりと相手の反応を窺いながら、赤薔薇は語りを続ける。

「勢いよく……床下収納の扉が閉められちゃってね。サラとオディーも、流石に手を離しちゃったみたい。それでこう、ぐしゃっと私は潰れちゃったの。
 壊れた私を見て、グレーテルは言ってたよ。ソフィアの弱味である私たちを傷付けられて嬉しいって。彼女の、死に至る病になってほしいって。
 ……だから、まあ。わざと鍵を落としたのも、扉を閉めて私を壊したのも、ソフィアを苦しめる計画のうちだったんだろうね」

 淀みなく話し終えて、彼女は美しいヘテロクロミアを見つめる。
 紫と黄色、異常ながらも美しい虹彩が赤色を見つめている。
 あの時も、今もそうだ。ストームはずっと美しい。自分は美しいモノを壊すのを、至上の喜びとしているくせに。

 ロゼットの小さな手のひらで繰り広げられる寸劇を、光を屈折しないヘテロクロミアが見下ろす。説明されれば、ストームはこくり、こくり、と相槌をうちながら聞いた。
 表情は変わらない。
 罪悪感を感じているようにも、同情しているようにも見えぬストームの顔は鉄で固めたようであった。
 確かにグレーテルは明確な意図を持ってロゼットを傷付けている。が、彼女は直接手を下した訳では無い。
 なんともデュオドールらしい姑息な手を使う。恐ろしい程合理的で、吐き気がするほど醜い手段に猟奇犯はどう思うのだろう。
 ロゼットの声が止めばストームは大きな溜め息をついた。

「……二度と彼女が造られなければ良いのに。」

 ストームはボソリと呟く。
 怒りを含んだ低音は閑静な本の森にへ消え入った。

「管理者が居ない状況でなにか行動を起こすとは思っていましたが、まさか貴方様を嵌めたとは。
 なんとも………………、いえ。辞めておきましょう。
 
 ヘンゼルもお披露目に選ばれたのですか?」

 ストームは悪態のひとつでもつこうと言いかけた言葉を飲み込む。目の前の赤薔薇に言っても意味が無い。
 今知れる情報を知るのが最も優先される事項だろうからと、すっかり思考を切りかえていたのだった。

《Rosetta》
 造られなければいいのに──という言葉に、薄い微笑だけを返した。
 ロゼットはグレーテルを赦しているが、それをストームに強要するつもりはない。
 それに、復讐なんて考えられては堪ったものではない。望み通りお披露目に行く相手に、砂をかけるつもりなんて、ほんの少ししかなかった。

「うん。ヘンゼルも一緒に行くみたい。彼はともかく、グレーテルは望みが叶って浮かれてるんじゃないかな。
 ……お披露目が決まった以上、オミクロンのみんなにこれ以上危害を加えることはないと思いたいね。自分が仕出かしたことが露呈して、お披露目が取りやめになるグレーテルが見たいなら、否定してくれていいけど」

 冗談めかして口にして、ロゼットはテーセラドールを見つめ直す。相手が気持ちを切り替えたのだと、わずかな動きで理解できたから。

「他に質問がなければ、通信室で見たモノの話でもしようか? 私、ストームに訊きたいことがあるんだ」

「ご冗談を。彼女が望んでお披露目に行くというのなら見送るのみですから。」

 ロゼットのユーモアに、ストームは顔を横に振って目を伏せた。死にたいと言うのなら止めるつもりは無い。そんな意思を露見させている。
 ヘテロクロミアはくるりと揺れた。
 ロゼットの言葉に眉を上げ、首を傾げる。

「? ……構いませんよ。」

 通信室で何を見たのだろう。全く検討がつかない。
 ストームは指を組んで膝の上に乗せた。
 微かに前傾姿勢になるのは、赤薔薇の声をよく聞くためであろう。
 猟奇犯は何とも良識的な紳士の振る舞いで、赤薔薇の心へ触れようとする。棘があるなんて知らずに。

《Rosetta》
「通信室の中には、みんなのことをまとめたファイルがあってね。私たちを作るように依頼したヒトのこととか、生前どうして亡くなったのかとか……色んなことが書かれていたんだ。
 それで、以前拾ったモノがストームに関係あるかもしれないなあって思ってさ。見てもらおうと思ったんだ」

 ちゃらり、手の中で音がする。
 差し出したのは、以前アメリアから譲ってもらった鑑札──ドッグタグとも称せるような、無骨な札付きの鎖だ。

「これ、セラフっていう組織に関わってるモノらしいんだ。……ストームは、知ってるんじゃないかな」

 少しだけ、車椅子を近づける。手を伸ばせば、すぐ届くような距離に。
 薄く浮かべられていた笑みが剥がれていく。表面上の親近感が、熟れすぎた果実のように落ちる。
 知らないと言われようと、知っていると言われようと。ロゼットはその鎖を、自分よりも大きい手に乗せてやることだろう。

 ロゼットが手にしたものは、見慣れない古く錆びれたチェーンだった。一体どこから見つけてきたのか、寮内や寮周辺の一帯にはこのような金属製のチェーンが必要になる場所があるとは思えなかった。
 チェーンは途中で何らかの圧力によって千切れたような痕跡が残っており、またチェーンの途中には何か札のようなものが取り付けられている。札には覚えのないマークが刻印されており、『3対6枚の翼で杭のようなものを守護する天使』を表しているようだ。

 この刻印を見て、あなたは脳幹部のあたりが燃えるような痛みを発するのを自覚する。断続的に目眩がして僅かにふらつき、そして瞼の裏にまったく同じ刻印が焼き付いた。
 鮮烈な既視感がする。間違いなくこの刻印を見るのは初めてであるはずなのに、あなたはこれを見たことがある気がする。

 痛みは加速度的に増していく。まやかしを食い破るようにして、あなたは過日の光景を目にした。

「……セラフ。」

 復唱してみても全く聞き馴染みが無い。
 少なくとも、今のストームには。
 ロゼットの憂いを帯びた笑みが何故だかストームには、受け入れ難く感じた。
 彼女から手のひらに乗せられたチェーン。

 ひんやりとする金属製のそれは、ストームの手からの熱伝播を受けるだろう。
 古びてるし、無惨に千切れてる。
 相当酷い扱いを受けた事が察せた。

 さらに目を凝らして見た時、中枢が焼き切れんばかりの痛みが脳で響き、身体を駆け抜ける。身体が痙攣し、ドっと汗が吹き出す程体温が上がる。呼吸は荒くなり、視界は歪む。
 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!
 今までとは比にならないほどの強烈な痛みにストームは椅子から崩れ落ちた。


 手のひらに収まるこの熾天使は、ストームの何を知っているのだろう。
 この熾天使が彼に見せる記憶は……。



 撫でられていた。暖かかった。
 甘い匂い。心地よい子守唄。
 ────母上。

 バチンと断ち切ったのは甘い声だった。
 『あいつ』に呼ばれれば大きな身体を起こし、テキパキと身支度を始める。
 色とりどりの錠剤やら散らばったガラスやらの上を歩き、机の上に散らばった物を全て払い落とす。彼の腕には、収まるべくして収まった巨大で無骨の銃が抱かれた。
 払い落とした荷物の中、ひとつの写真立てを抜き出し埃だらけのテーブルの上に乗せる。すっかりひび割れてしまったフレームなんて、知ったこっちゃない。

 亀裂の入った写真立てへ、キスを落とし写真を下に向けて寝かせた。
 さよなら母上。

 

 何を知っている……? 何を見ている?
 ストームには分かりやしない。
 ただ、酷く切ない。
 気付けば、朝と夜を示すヘテロクロミアには雨が降り始めた。

《Rosetta》
 可哀想なストーム。きっと悪夢を見ているのだろう。
 車椅子に伏すような形で、青年ドールの身体がくずおれる。美しい表情が苦悶に歪むが、そんなモノでは到底あの日の苦しみには及ばなかった。

「痛いんだね、ストームでも」

 膝があれば乗っていたであろう位置に、彼の頭がある。青い髪の間に、ロゼットは指を差し入れた。
 いたいのいたいの、とんでいけ。
 どこに飛んでいくかは、全く知らないけれど。
 あやしてみせるかのように、意識が過去に飛んだ子どもの頭を撫でる。腫れ物を扱うかのような、やさしい手つきだった。
 ──だが。涙を流しながら、彼が目覚めたのであれば話は別だ。

「何を思い出したの? ストーム」

 幼児に向けるような声を、トゥリアドールの喉が発する。
 それと、ほぼ同時に。母親のような白い手は、青い髪を強く掴んだ。
 その眼差しはずっと、冷ややかに罪人を見下ろしている。

「泣くほど辛いことを思い出したの? 可哀想にね。……おまえに殺された子どもたちは、それよりも辛い思いをしたはずだけど」

 相手はテーセラの元プリマドールだ。暴れれば、すぐに壊れたドールの腕くらいは振り解けるだろう。
 ストームが自らの意思で逃げない限り、銀の双眸はじっとそのオッドアイを見つめるだろう。相手の首を断ち切らんとするような、鮮烈な憎悪を向けたまま。

「おまえがラプンツェルたちを殺したんだから、泣く権利なんてあるはずないでしょう。
 何を思い出したか言いなさい、ストーム」

 あたたかい。やさしいてつき。
 ははうえ……?

 ロゼットに撫でられるストームは赤子のようであった。
 ひっぐ、ひっぐ、と啜り泣き身を震わせる。
 トゥリアドールからの愛情は、彼に空いた空虚な穴には良く染み込んだであろう。
 優しい、優しい。母親のような手つき。
 薬なんて必要ないのかもしれない……。
 一夜の夢を見る為に飲んだ薬なんて。

 憐れなストーム。その夢はもう終わるのに。


 意識がはっきりしてくれば、ロゼットの柔らかな声が注ぎ込まれた。そう、感じた。
 刹那──
 視界が開けた。長い前髪を鷲掴みにされ、無理矢理顔を上げられている。
 冷徹な眼が、そこにはあった。
 
 切れちゃったんだ、クスリ。
 母上は……もう……。大人になる時間だ。

 ストームの瞳は据わる。冷たい目を前に。
 目の前にはロゼットが居るのに、彼女を見ていない。
 薄ら笑いを浮かべなにかを見ている。


「殺してなんかいない。
 誰です? ラプンツェルとは。
 可哀想に、怪我をしておかしくなったのですか?」

 ストームはあっさりロゼットの手を振り払うだろう。乱れた身なりを整え、ロゼットの膝掛けも同じく整える。
 そして彼女へ再度ニッコリ笑うのだ。
 おかしくなったのはどっちだろうか。最初からおかしかったのだから、本来の姿に戻ったと言った方が正しいのか。
 自身から流れた涙を拭い、すぅ、と表情を消した。
 いつも通りの彼がそこにはいるだろう。

「何を見て、そう判断されたのですか?」

《Rosetta》
 掴んでいた髪が、あっさりと持ち主の手によって遠ざかる。
 それを惜しいとは思わない。思い出こそあれど、惜しむような温もりを彼から見出したことなんてないから。

「……まだ自分の咎について思い出せなかったみたいだね。運の悪い子。
 泣いて謝れば、少しくらいはやさしくしてあげようかと思ったのに」

 触れられた膝掛けを、汚いモノに触れたかのように軽く叩いた。見えない穢れを払い落として、ロゼットはストームを睨め付ける。
 赦してあげる、とはひと言も言わなかった。

「今のおまえみたいに、過去のことを思い出したんだよ。
 私は昔、ガーデンという組織にいたんだ。そこで親しくなった子どものひとりがラプンツェル。リヒトも、フェリシアも、みんなそこにいたの。
 ……でも、ねえ。そこにいた子は、みんなおまえが殺してしまったんだよ。たくさんの人間を連れて、銃火器を持って……私の植えた花も、全部燃やしちゃったんだろうね」

 地を這うような声で、赤薔薇は語る。どれほどの憎しみを抱こうと、まだその花はうつくしい。
 花弁が傷付き、葉は痛み、茎だって今にも折れんとしている。それでもストームに一矢報おうとする姿は、憐れなユディトのようにも見えた。

「他に根拠なんてないよ。強いて言うなら、通信室のファイルでストームの生前が匂わせられていたのを見たぐらい。
 ……例えこれが私の勘違いで、本当はおまえが助けに来てくれていたのだとしても、私は赦さない。
 リヒトがいてくれてよかったね、ストーム。あの子が止めなかったら、私はこの膝掛けでおまえの首を絞めるつもりだったんだよ」

 彼女の見せた挙動はまるで憎悪だった。
 ストームの触れた膝掛けを払い、ストームの瞳を睨み付ける。煮え滾った憎しみで美しく彩られた。

「………リヒトとフィリーも、ですか。」

 相棒の名とクラスメイトの名前を出されれば、ストームの眉は微かに上がる。威嚇するような低い声に、ハモるように彼は唸り声を出した。
 唇に指を添え、考え込む。
 彼女の目はストームを、ナチス党の軍人とでも言うのだろうか。全くその通りなのかもしれない。

「そうですか。ではリヒトに感謝ですね。
 
 ねぇロゼット。貴方様は輪廻転生がある世界で、前世のお前は罪を犯した。だからお前は罪人だ。と言われても納得出来ますか?
 確かに、過去の記憶を思い出す事はあります。過去は消えない。それも確か。
 しかし、ジブンはその時の“ストーム”では無い。過去の『自分』が起こした事を今精算しろと言われましても無理な話です。たとえアイツ……ディアの命令で貴方様を含む彼らを手にかけたとしてもジブンにディアを責める資格はサラサラない。」

 最後には、愛情でも憧憬でもないディアへの感情を告げる。すっかり散ってしまった桜の花びらは、一枚と残っていないよう。
 ストームは記憶にない過去に興味は無かった。
 ソフィアにすれ違った事、アティスが訪問してきた事、そして今回ディアが迎えに来た事。全て現在のストームには関係の無い話だとキッパリ言い切ったのだった。
 詫びる様子など無く、依然としてストームは大きな背中をピシャリと伸ばし憎しみに咲く赤薔薇を見下ろしているだろう。

《Rosetta》
 何を言い訳しているんだろう──と言うような顔で、ロゼットは瞬きをする。

「私は、納得するよ」

 リヒトにも同じことを言われたのを、思い出す。
 彼は罪なき存在だから深追いはしなかったが、ストームはそうであっていいはずがない。
 “ストーム”は残虐な人殺しで、自分たちの花園を奪った人間で──赦されるべき存在では、ないのだ。
 “ロゼット”だって、何ひとつ救えなかった罪人だ。
 少し動けば、それだけで大事なモノを取り落とさずに済んだかもしれないのに。簡単なことすら怠ったのだから、赦されるべきではない。
 ──それに。もし、本当に全ての罪が赦されてしまったとして。
 ここにいるロゼットは何も悪くなかった、ということになってしまったら、どうやってあの人への愛を示せばいいのだろう。
 罪を背負うことさえ許されないのなら、残るのは傷だけだ。
 傷付けられた後、捨てられておしまい、なんて。それじゃあまるで、ロゼットが友達に嫌われているみたいだ。

「私は、罪人だよ。何にも気付かなかった。何にもしてあげられなかった。
 この身体でしたことじゃなくても……私は、そういうことにしなきゃいけないの。そうじゃないと意味がないから。
 ……過去と今に、本当に関わりがないならさ。こんな風にわざわざ思い出したりしないでしょう。私も、おまえも、罪人なんだよ」

 自嘲するように、唇が持ち上がる。背筋は依然曲がったままだった。
 ロゼットは、ストームのように生きられない。芯がない。ドールも過去も捨てて生きていくだけの、理由がない。
 それこそ、少し探せばすぐ隣にあるはずなのに。
 足元の影ばかり見ているから、何も見つけられない。今までも、これからも、ずっとそうなのだろう。

 ロゼットは、何を言っているのだろう。
 ストームは眉を下げた。
 彼女の言いたいことが理解はできる。だが納得は出来ない。
 傍観が罪として成される世界を、ストームは知らない。故に、自身で罪をこじつけ、ハリボテの罪を背負いながら歩んでいくんだとロゼットが宣言しているように聞こえる。
 甚だ、おかしな話だ。

「罪を着ていたいのでしたら止めませんよ。
 確かに貴方様の見解は正しい。関連性が無ければ元より欠陥品ばかりが集められたこのクラスで、仲違いさせるような要素は入れ無いはずです。
 ですが、たとえ関係があったとしても貴方様に罪人と呼ばれる筋合いはありませんよね。」

 興味を無くしたストームは、どこまでも冷たい。
 傍観は罪だとは思ってもいないはずなのに、罪悪感に漬け込んで惨めったらしく背中を丸めた彼女に追撃をかける。
 頭を垂れるロゼットの姿が妙に小さく見えた。先程までは髪を掴む程威勢が良かったのに、すっかり弱々しくなっている。

《Rosetta》
「あるよ」

 あるよ、とは言ったけれど。
 それ以上に根拠を示すことはできなくて、萎れたように赤薔薇は俯く。
 自分がデュオドールだったなら、根拠を並べて説得することができたのに。エーナドールだったなら、根拠などなくても言い包めることができたのに。
 相手よりも強いテーセラドールだったなら、そのうるさい口を塞いで無理矢理黙らせてやれるのに。
 どうしてトゥリアドールなんかで作られてしまったのだろう。友達は一体、ロゼットに何を求めていたのだろうか。

「……もういいよ。私におまえは分からないし、おまえも私のことなんか分からないだろうし。
 ただ……ストームが過去の罪を思い出したら、私は絶対に罰を与えに行くよ。ソフィアにも、ディアにも、同様にね」

 軽く、溜め息を吐く。きっとそのうち、ストームも理解するはずだ。
 逃げられない脳髄の檻で、自分が何かしたことを──何もできなかったことを追体験させられる苦しみを。
 助けを求めたとしても、自分自身が何もないまま楽になるになることを赦せない感覚を。
 罪悪感に爪を立てられたことなんて、まるで自覚しないまま。今なお血を流す傷口を庇うように、ロゼットは呪詛を吐く。

「早く全部思い出してね。みんなのためにも、ストーム自身のためにも。
 全部償いきったら……おまえの作品でも、母親でも、何にでもなってあげるから」

 罰を与えに行く。そう宣言されれば、ストームは頷いた。
 ロゼットがしたいのなら止めることは無い。
 今の彼女であれば、たとえディアであれど抵抗すれば腕を振り解けるはずだ。
 まぁ、あの化け物の事だ。彼女の腕を振りほどくことはしないのだろう。

 喋れば喋るだけ、ロゼットとの溝は開いてゆくばかり。
 埋める為の話術も、地頭も無い。橋をかけるように寄り添う包容力も無い。
 だが、それらを望む劣等感ですら湧かなかった。

「…………母上は……、いえ。なんでもありません。」

 吐き出された呪詛を祓おうと口を開いたが、取り止めた。彼女に言っても意味が無い。誰に言おうと、意味は無い。
 ストームは息をつき、もう要件の無くなった彼女へ一礼をした。呼び止めることがなければ、ストームは別れを告げるだろう。

「スロープなどは備え付けられましたが、くれぐれもお気を付けて。」

【学園3F ガーデンテラス】

Lilie
Storm

 白百合のベールに、ストームは足を止めた。
 ガーデンテラスの花々を見ているのだろうか。同じヘテロクロミアを持った清らかな子。
 ストームのつま先の方向が、彼女へ向く。
 コツ、コツ──
 歩み寄る靴の音が妙に甲高い。

「最近、彼らはようやく水を与えられたようですね」

 青々と咲き誇る花は、以前のようにカラカラに乾ききった椅子に座っておらず、幸せそうに鮮やかな色彩を輝かせている。
 そんな彼らは、つい最近まで忘れられていたように寂しげだったのに。
 ストームはリーリエに見えない、長い前髪と三つ編みの後ろで花々に真っ黒な笑みを向けただろう。

 さて、白百合の花嫁を呼び止めておいてほっとくわけにはいかない。リーリエの方を向く時には、すっかり元通りの顔に。

「こんにちはリリィ。貴方様に聞きたい事があるのですが、今お時間よろしいでしょうか?」

 猟奇犯のいつもの好奇心はすっかり抜け落ちていた。もう、夢を見る事が出来ないから。
 かんばせには影が落ち、業務的。
 彼を怖がるあなたには、どう映るだろうか。

《Lilie》
 瑞々しく咲き誇る花々を目に写しては、ぼんやりと、何を考えるでもなく眺める。
 やっと、誰かが水を与えたのかしら。
 随分と、乾いた時を過ごしていたようだから、心配になっていたの。
 そんな、詮無いことが浮かんでは消えていく。自分から水を与えようとはしなかったと言うのに、憂う言葉だけを漏らしては、安堵の息をついた。

 彼の鳴らす靴音には気がついていた。
 後ろに立った、彼のことも勿論。
 恐ろしくって、強くって、どこか可笑しい彼。珍しく、あの愛を振りまく少年の気配のしない彼。リーリエは、白絹の髪を揺らし、静かに振り返った。

「こんにちは。勿論、構わないのよ。」

 端的に了承の言葉を紡いでは、立ち話もなんだろうと手近なガーデンテーブルに歩み寄っては椅子のひとつに腰掛ける。

「それで、わたしに聞きたいことというのは、何なの?」

 リーリエは、改めてストームの顔を見つめた。暗くて、あの陶酔の色のない貌を。それでも尚、美しさを保つソレを。
 ……嗚呼、なんて怖いのかしら。
 そんな、影のある顔をしていては、小鳥も子猫も逃げてしまう。悲鳴は漏らさず、白百合はあくまで微笑んだ。

「お心遣い感謝いたします」

 リーリエにテーブルへ招かれると、ストームは一礼した。微笑んでいながら、瞳の揺らぎ。覗かせたのは恐怖。何ともわかりやすい。可哀想なリーリエ。その恐怖はサイコキラーの渇きを潤すものだと言うのに。
 彼女が淑やかな所作で腰を下ろすのを見て座る。
 今は彼女を怖がらせたいわけでも、取って喰らいたい訳でもない。ストームの朝と夜を。リーリエの大地と神秘の湖へ。


「リリィ。貴方様はある朝、いつもの時刻に起きてこなかった事がありましたよね。なんの偶然かその日はエルも起きてきませんでした。
 なんの偶然かは分かりませんが、後日教室で落書きされた手紙を発見しまして。」

 ストームはそう言えばポケットから四つ折りに折られた手紙を取り出した。ごく普通の、数学の課題についての掲示物。しかし、ゾッとするようなことが書いてある。

墓場。五十六個の歯車。青い蝶。
赤い目。邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ。
あなたは暗い穴の中。邪魔だ。どうすれば?
黒い部屋。そして黒い人。アレが邪魔だ。
思い出せない。
もう失敗は出来ない。

 と。リーリエが目を通し顔を上げれば、ストームは再び話し出すだろう。


「これを書いたのはエルです。けれど、彼に聞いても彼は覚えていないでしょう。リリィがなにか知っている事があればお聞かせ願います。」

 ストームの瞳は真っ直ぐだった。いつものように威圧する事も、嘲笑の目でリーリエを見ることも無い。ほんの少しの懐疑的な感情を含めた眼を向けていた。
 凛と張り詰めた空気が、凍り始める。

《Lilie》
 ぴきり、ぴきり。
 どこからか、水が凍る音が聞こえるような気がした。
 ストームの差し出した紙片を眺めては、見覚えのない文字たちの羅列にそっと目を伏せる。確かに、あの夜リーリエとエルは有り得ないモノを目にした。しかし、二体のドールが目にしたモノが全て同じであった、だなんて誰が言ったのだろうか。
 最たる例は、『青い蝶』。
 リーリエは、その存在を感知することは出来なかった。だったら、他にも彼だけ、エルだけが視たモノがある、そう考えるのが妥当では無いのだろうか。そう思考した後、リーリエはストームの朝と夜の双眸に視線を合わせた。

「……ごめんなさい。確かに、わたしとエルくんがいつもの時間に起きてこられなかったことがあったことは事実なのよ。でも、それは、先生とお話をしていたから。他には、何も無いの。……エルくんの書いたものは、わたしには分からないのよ。『青い蝶』。わたしは、そんなものは、一度も見ていないもの。」

 エルだけの特別。
 リーリエには分からないソレを見ては、首を横に振る。何も分からない、不甲斐ない自分を戒めるかのように白百合の白魚の如き手は、テーブルの下で固く握られていた。

「力になれなくって、ごめんなさい。」

 花弁が萎れるように、苦しげな色を瞳に乗せては謝罪の言葉を口にする。辺りの空気は、相変わらず重苦しいままであった。

 ヘテロクロミアの交差。四色の光がぶつかり合う。すぅ、と小さなリーリエの息遣いを耳にすると、ストームは改めて姿勢を正した。
 多少なり、衝撃事実を聞いても無駄に驚かぬようにする為。しかし、期待した答えは得られなかったらしい。
 ストームは彼女に見せた紙を、再び四つ折りにしてポケットにしまい込む。

「いいえ、いいんです。」

 惨めたらしく頭を下げたリーリエの顔を、覗き見るように体をかがめた。今欲しいのは謝罪の言葉でも、懺悔でも無い。故に、ストームの瞳は依然として冷酷で灯火の灯らない朝と夜でリーリエを見つめる。
 しかし、二、三度ゆっくりと瞼で瞳を撫でるように瞬きをすると鋭さを宿した眼から、脅迫を奪い去った。代わりに、あどけない表情とマッチする柔らかな声を彼女へ向ける。

「先生と話してたという事は、朝から面談、という事ですか? ……悪夢でも見た、とか。」

 ストームが発したが発したのは同情に似たような言葉。眉をハの字に下げ、歩み寄りの姿勢を見せた。と言うのも、先生が今回のように『起きて来ない』という名目で説明したことに違和感を持ったらしい。起きてから急遽開かれた面談。前夜に何かがあると睨んだようだった。

《Lilie》
 ストームの柔らかな声にリーリエは瞳を瞬かせ、ほんの僅か思考する。
 アレは、果たして悪夢であったのだろうか、と。擬似記憶上の存在であった最愛の姉に出会えたことは幸福なことであったのだろう。
 まぁ、その前夜にあったことは、悪夢と称しても何ら問題ないことであったのだけど。

「ええと……、ね、悪夢ではないの。寧ろ、とっても幸せな夢だったのよ。……昔の、擬似記憶の幸せな夢。今まで、見たことの無い場面が流れて、目が覚めたら、ジゼル先生が居たの。」

 あの日、あの朝のことを思い出しながらリーリエは言葉を紡ぐ。夜のことは話さずに。話してしまって、先生に聞かれてしまっては堪らないのだから。

「わたしもね、何故先生がお話に来たのかは分からないの。……でも、アストレアお姉様のお披露目の夜、何かがあったことだけは確かなのよ。」

 先生達にとっても予想外の"何か"。例えば、柵越え。例えば、夜中の学園への侵入。例えば、開かずの塔への侵入。デュオドールには及ばずとも、頭の良いストームならば、それらが思い浮かぶかもしれない。そう、一縷の希望の元に発した言葉であった。

「悪夢ですよ………救いようのない……」

 ボソリ。口から漏れたのは空虚な感情。すぐに空気にのまれて消えてしまって、きっと彼女の元には届かない。
 惨めな想いを手のひらに握り締めたが、消えそうにもない。それどころかじんわり広がっていって、まるで遅効性の毒。母上は居ない。薬はもう必要無い。だってドールとヒトの『ストーム』は違うのだから。だけれど、幸せの渦中にいる彼女を妬まずにいられないのかもしれない。

 彼女から目を逸らし、続く話に耳を傾ける。

「何かがあった。それは確実でしょうね。
 ジブンの知ってる事はアストレアは『お医者様』により身体の傷を修復された後、レディ・ローライという方に引き取られたとのことです。」

 机の上で指を組み、話し出す。
 リーリエは特にソフィアとアストレアを尊敬していたドールだ。少しは話を聞きたいのだろう。
 彼女の意図をくんで、質問を受け入れる態勢を取った。

《Lilie》
「わたしはね、きっと、それにウェンディお姉様が関わっていることも、また事実だと思うの。……あのドールは、何か知っている。前、ウェンディお姉様と喋った時にアストレアお姉様の話になった途端動揺していたのよ。」

 あの、明らかな動揺具合。何かしらウェンディが知っていることは間違いないだろう。
 そして、リーリエは聞き覚えのない言葉に首を傾げた。「レディ・ローレライ」。アストレアを引き取った、と言うヒト。そのような、名をしていたのか、と。そんなこと、気にしても仕方がないのだろうけれど。何せ、そのレディはリーリエのご主人様ではないのだから。

「ストームくんは、アストレアお姉様とウェンディお姉様の間に何があったのか、知ってはいないの?」

 こてり、そう音の付きそうな仕草でリーリエは首をかしげる。きっと、あのドールたちの間で何かがあったことは確か。大方、お披露目のことで揉めたのだろうけれども。ウェンディはお披露目が、絢爛な未来を指し示すだけのものでは無いことも知っていたようであるし。
 リーリエの湖畔と新緑の色の瞳は、緩く撓み、ストームの返事を待っていた。

 淑やかな声に耳を澄ませる。
 彼女の口から出てきたのはグレーテルと共にオミクロンへ来たドール、ウェンディの事だった。意外な人物の話題に、ストームは眉を上げ顎に指を添えた。思い当たる節を探してみるが、残念ながら何も無い。

「ウェンディに関してはすみません。ジブンもよく知らず……」

 不意に彼女が初めてオミクロンへ来た時のことを思い出す。『昨晩のお披露目に出る予定』『不慮の事故』、ウェンディの暗い表情。ストームは一点を見つめた後、顔を上げリーリエの瞳を見つめた。
 据わった目を彼女に向けていた。

「様々な事情があるのでしょうね。汲んで差し上げてください。」

 緩く首を横に振る。アストレアと、彼女の終焉を知っているであろうドールがどんな関係性であったか、詮索するのはよそうと言う意図を込めて。

《Lilie》
 緩く左右に揺れる群青を眺めていた。ウェンディとアストレア。あの二人に何があったかは定かではない。
 ストームは、彼女らに何があったか探るつもりは無いようだ。嵐のような彼は、未だ沈黙を保つつもりであるらしい。

「えぇ、勿論なのよ。わたしだって、ウェンディお姉様を傷つけたい訳では無いの。……ずうっと、笑っていて欲しいと思っているの。」

 ふんわりと、花が綻ぶように笑った。
 恐ろしい彼の色違いの双眸に見つめられ、困ったように笑う。

 心底、心底、彼女の幸せを願っている白百合のドールは慈しむような視線を虚空に向ける。どこに向けるでもないソレは、さぞ不気味に映ることだろう。

「……ストームくん、お話はまだあるの?」

 花弁が風に煽られるかのように、ちいさく首を傾げた。
 まだ、話すことがあるのかどうか。彼もきっと暇で無いのだから。時間は有限である。大切な時間を無駄に使わせる訳には行かないだろう。そんな、思いを込めた問いかけだった。

 リーリエは笑った。
 何を見て、何に向けた笑みかも分からない。鏡の中に微笑んでいるようでありながら、もっと遠くの美人な小娘に向けた笑みのようでもあった。
 白百合の微笑みというのは時に魔女の微笑みとなるらしい、とストームは学んだ事だろう。

「いいえ特に。貴重なティータイムを邪魔してしまい、すみませんでした。」

 席を立ちながらストームは肩を払う。麗しく咲き乱れる花々の花粉を落とすように。リーリエのヘテロクロミアは、どこまでも透き通っている。ストームにはそう見える。光の灯らない朝と夜で見下ろす。彼女の可憐なヘテロクロミアの間に10ミリ口径を突き付けるように。

「……ずぅっと、笑えるように手を尽くしましょうね。幻想家さん(リリィ)

 敬意を込めてお辞儀をする。後には、ガーデンテラスには足音だけが響きわたった。
 誇らしげに咲き誇る花弁から、大きな水滴が光を反射しながら落ち土に染み込む。まるで流れ星のように。

【学園3F ガーデンテラス】

Brother
Storm

《Brother》
 この日、ミュゲイアがいなかったことを、喜ぶべきだった。

「ああ、急がないと」

 水のたっぷり入ったジョウロを持って、ぱたぱたとブラザーは走る。重たいものを持って居るから足取りは不安定で、今にも転んでしまいそうだ。しかし、悠長に歩いている時間はない。だってもうすぐ、夜になってしまう。

 時刻は17時過ぎ。
 日は落ちかけて、夕方から夜が徐々に顔を出してくる。

 夜に、花を見たくなかった。
 全身が砕け散ってしまいそうになるから。そうしたら、もう何にも出来なくなってしまうから。さめざめ泣いて自分を呪うことしか、出来なくなってしまうから。
 ブラザーには役目がある。愛する者の罪を晴らし、精算するという美しい役目が。それを果たせなくなることは、許されない。億千の罪を重ねてきた自分が、今度こそ果たさなければならない誓いである。

 だから、花壇へ急いだ。
 人が居なくなり始めたこの場所で、ブラザーだけが忙しなく動いていた。

 白髪が靡くのを見た。それが運の尽き。

 午後5時。夕方とは言え夏初めのこの時期は完全に暗くなるまで、もう少しの時間が必要だった。ストームはカフェテリアに続く螺旋階段を上がっていた。最後の段に差しかかる時、背丈は自身と同じくらいの華奢な体躯をしたドールがパタパタと駆けて行ったのを目にする。
 お披露目が決まったドール。ブラザーだった。
 随分慌てた様子の彼の背中を見ていれば、時折よたよたと身体をふらつかせている。
 あれでは転んでしまう。誰でもそう考えるだろう。
 ストームは、ブラザーの背中を追い掛けていった。

 ブラザーが開け放ったガーデンテラスへ続くドアが締まり切る前に扉を抑え、出る。
 哀れな花達の主人は、せっせと彼らに水をやっていた。
 なんとまぁ、慈悲深い事。ストームは目を細め様子を見つめる。

「貴方様でしたか。花の世話をしていたのは」

《Brother》
 なんとか花壇に辿り着いて、なんとか両手でジョウロを傾けて。伝う汗を拭うこともせず、勢いよく出過ぎないようにバランスを保つことに集中する。ジョウロの中身が減って、やっと片手で持てるようになった頃。背後から、涼しい声がする。

「……ストーム!
 ああ、会いたかったよ」

 ほんの一瞬、目を見開いた。
 それからぐるりと後ろを振り返って、爛漫と咲く花々に負けないほどの笑顔を咲かせてみせる。顎を滴る汗を拭って、にこにこと人当たり良さそうに微笑んだ。少し前まで、いつも暗い顔をしていた彼はどこに行ったのだろう。もうすっかり以前の穏やかさを取り戻した兄ヅラのジャンク品は、体の向きを軽くストームの方へと向けた。

「うん、約束したんだ。
 ラプンツェルって子が元々お世話していた花壇でね、あの子がお披露目に行ったから、今は僕がやっているんだ。結構ちゃんと出来ていると思ってるんだけど、どうかな」

 興奮気味に、早口に。
 いつものおっとりしたペースではなく、ブラザーはウキウキと喋る。一言で言えば、はしゃいでいるように。

 ストームと会えたことがそんなに嬉しいのだろうか。
 柔らかなトゥリアドールは、ただ微笑んでいる。

 彼を見た瞬間の寒気と言えば、他にない。
 いきなり首を掴まれたような、ナイフを当てられたような得体の知れないカイブツが脳を飲み込んでしまった。眉を寄せ、怪訝な表情で彼を見る。
 何度見ても、彼は屈託の無い笑みで笑っていた。
 ストームはつい最近の彼を知っているから、尚更。ずっと気が沈んでいた、はずなのに。お披露目の正体を知っているはずなのに。
 彼はオカしくなってしまった。そう表現する以外の言葉が見つからない。

「えぇ、完璧に出来ているかと……。
 明るい言葉をかけると、より生き生きと育つとどこかで読みましたが」

 またか。
 『ラプンツェル』という名前。最近聞いた名前。その人物に、いったい何があるというのだろう。
 ストームはコワれてしまったブラザーを刺激しないよう、穏やかな声で返事する。
 トゥリアで優秀だった彼の微笑みは、蠱惑的で、可愛らしくて。

 そして、不気味だった。

《Brother》
「ふふ、良かった。
 あの子の形見みたいなものだから」

 ジョウロを胸の前で持って、ブラザーは笑みを深めた。底知れない、腹の見えない、微笑み。
 ストームが訝しむような顔をしていることに気づいているはずなのに、ブラザーは少しも不思議そうにしなかった。形見、なんて言葉を楽しそうに踊らせている。
 辺りのドールズはもうとっくにいなくなって、この場所には二人だけになってしまった。さあと風が吹き、二人の間を抜けていく。

「そういえば、ストーム。
 ロゼットとはもう話した?」

 穏やかな微笑みのまま、ブラザーは談笑を続ける。これは他愛ない世間話。視線を花壇に戻した。水やりを再開し、最後の雫が花に落ちた頃、もう一度ストームを見る。

 アメジストは歪に光っていた。
 陰鬱に曇った夜のような、全てを焼き尽くす極光のような。華奢な体に渦巻く感情の正体を、ストームはまだ知らない。

 まるで蟻地獄のような笑みに、一歩後ろへ下がった。本能が、彼を危険だと言っている。硝子細工のように繊細に見えるのに、感情が透けて見えるわけじゃない。夕焼けの最後の一欠片が、ブラザーの白髪に反射してプリズムに似た屈折を生み出し、消えていった。辺りに他のドールも居ない。ランダムに調整された見せかけの自然ですら、ストームを見放したように夕凪が訪れた。

「………………あぁ。その話ですか。
 すみませんがジブンはラプンツェルを知りませんし、“この手で”殺めた訳では無いですよ。」

 ロゼットの名前が出されるとストームは納得したように目を伏せる。原罪の意識など、ストームには無い。ただ、お披露目に出されたドール。ただ、知人の友人。ただ。
 ──オリジナルの自身が殺めたヒト。
 淡々と告げるだろう。
 この得体の知れない感情を引き出してしまうのなら、それでも構わない。おかしな事など何ひとつとして言っていないのだから。

 ストームが夕凪の中、世間話のように言葉を返すと草花が連れ去られんばかりの強風が吹き抜ける。
 夜が、始まろうとしている。

《Brother》
「君の罪は」

 花壇に水をやる。
 誰にでも笑顔で接する。
 都合のいい愛を囁く。

 ブラザーは善人だ。
 虫すらも殺さないような、穏やかな愛のドール。自罰的で絶望的に生きることに向いていない、優しい欠陥品。きっと、みんなそう思っていた。

 でも、違う。
 彼はいつだって、自分のエゴを押し付けることしかしない。

「あの日、お披露目を見に行ったこと。
 ラプンツェルを忘れていること。
 過去を思い出さないこと。
 それを償う気がまるでないこと」

 ハンカチを静かにはらう。
 目のいいテーセラなら、暗くなったテラスでも光る銀がなにか分かるはずだ。夜空を引き裂くようにギラついた双眸は、狂おしいほどの憎しみと愛情に満ちている。真っ直ぐに、ストームのちぐはぐな両目をを見つめた。

 彼は異常だ。
 もう取り返しのつかないところまで、彼は来てしまったのだ。


 こうなったのは誰のせいかと言えば、間違いなく彼自身のせいなのだ。


「清算しよう、罪を。
 僕が君を綺麗にしてあげる。

 僕も君も綺麗になって、そうしたら、また出会おう。
 そのときは、心から君を愛せるから」


 月光のような白銀の人形は、世界でいちばん美しい不幸な処刑人。
 全ての助けを拒絶して、果てまで走った空っぽの死人。
 無責任で逃げてばかりの、許されざる罪の象徴。


 もう誰も、彼を救えない。

 ブラザーの声は、愛を囁く声だった。
 春を奪って、桜と共に消えていきそうな儚さを帯びた。甘くて柔らかくて優しい声。
 その声と共に、銀色が出始めた月の光で反射する。冷たい一筋の銀の光。
 ギラギラと月夜に光るアメジストを宿した、断罪者の誕生だ。アメジストに宿る愛情、憎悪はかつて自身がディアに抱いていた感情に近しく気色が悪い。盲目的、そういうのがピッタリ。
 告げられた罪名は全て冤罪だった。
 押し付けられたエゴが、ストームの首を絞める。

 ナイフを向けられてもなお、ストームの表情は崩れなかった。むしろ、納得したように腕を組み睫毛を伏せる。

「『僕が愛したいから、生まれ変わろう』と。ねぇブラザー。貴方様、一度だって心から他人をアイした事があるんですか?」

 少年の声は、低くなっていた。
 一歩一歩、大人に向かって成長していくヒトのように。
 少年の唱える『アイ』は不確定なモノで、複雑で、繊細なモノ。理解していないからこそ、兄だと自称した彼に聞く。
 断罪者なら、罪人の言葉を聞くべきだ。
 そんなエゴが強く、言葉に乗っていった。

《Brother》
 長く、トゥリアモデルなど簡単に折れそうな腕が組まれる。鈍色を登り始めた星々に輝かせて、ブラザーはじっと立っていた。すぐに襲いかかるように混乱している様子も、我を忘れている様子もない。
 つまり、彼は冷静かつ安定した精神状態で、ストームに刃を向けている。

「どうだろう、分からないよ。
 僕、本当に、すごく汚れてしまったから。

 だから愛したい。
 ストーム、君のことも大好きなんだ。ちゃんと愛したいって思ってるんだよ」

 悲しそうに、苦しそうに。
 ブラザーは眉尻を下げて、懇願するような顔をした。君を愛させてくれと願う姿は、かの恋人によく似ている。愛のカタチをした最悪と、よく似ている。

「僕が愛したいからだけじゃない。
 ストームだって、誰かを愛することが出来る。綺麗な体になれる。

 ね、いいことしかないでしょう?
 動かないでね。パンやハムで練習したけど、やっぱり本物は違うかもしれないから。痛くて長い間苦しむのは、可哀想だもの」

 腰を落とした。
 ぎゅうと両手で包丁の柄を握りしめる。キッチンでデイビッドやジゼルが握っていた日常の欠片が、不条理を纏ってストームに向いた。
 日常の通りに優雅な微笑みを浮かべて、ブラザーは走り出す。一度ぱちりと瞳が瞬けば、ゾッとするほどぐずぐずに煮詰められた愛と憎しみが籠ったアメジストが顔を出した。

 沈黙のガーデンテラス。
 最早話し合いを亡くした二人の元に、車輪の薔薇が近づいていた。

Rosetta
Brother
Storm

《Rosetta》
 ガーデンテラスは、まさに一触即発といった様相を呈していた。
 悲劇を押し付けられる人形と、切先を向ける復讐者。
 ブラザーが走り出す、その瞬間。怜悧さを失った、動揺に満ちた声が響いた。

「あなたたち、何してるの……!?」

 現れたのは、車椅子のロゼットだ。
 花でも見て、憂鬱な気分を紛らわせようと思っていたのかもしれない。まさか彼らがいるとは思わなかったようだが。
 冷静ではないながらも、トゥリアの目は煌めく刃物を捉えた。
 思わず身を硬くしたが──ストームが狙われていると気付けば、近付くことに躊躇はしなかった。

「ブラザー、やめなさい! ストームを壊したところで償いにはならないよ!」

 ストームはテーセラだ。自分のように故障しているわけではないし、まだ何とかなるだろう。
 しかし、ここで放っておいては他のドールにも類が及ぶはずだ。
 一番脆い自分が刺される可能性には、まるで至らないまま。ロゼットはそんな風に声を上げる。

 儚く、嫋やかで、醜いバケモノが目の前の罪人を喰らおうとしている。大好きだとか、アイしたいだとかアイツに似たおかしな感情を押し付けてくるバケモノの牙は、青白い光を放っていた。 猟奇犯は背筋を真っ直ぐに対峙し、バケモノの煮え滾る憎しみのアメジストを見下ろしていた。

 ブラザーとの距離、数メートルの所で叫び声が耳を劈く。声の正体は手折られた赤薔薇。この危険な状態で、横槍を入れるとはあまりにも無鉄砲な行動で、勇敢だと評価するには愚かに思える。
 ストームは彼女を一瞬視界の中に捉えると、一歩、二歩。ブラザーに近付いて行った。
 勢いのままに迫るブラザーの片腕を取り、勢いを吸収するように引き寄せる。自身の横へ受け流すとそのまま片腕を柄から離させる為、肘めがけ上から軽い衝撃を与えた。腕をなぞり、指を絡める。包丁は二人で持ってしまおう。
 ──アン・ドゥ・トロワ。
 狂気的な舞踏会。華奢な彼をくるりとエスコートする。
 ステップを緩めていくと、カツン、カツンと、革靴の音が夜の静寂によく響き渡っただろう。指を離して。二人で持った青白く光るブーケの側面をなぞって先端を軽く弾くと、ダンスは終わり。
 キン……と甲高い音が後に響くだけだった。

「大事な商品でしょうに。あまり無茶をなさらないでください。」

 これは狂ってしまったドールにも、赤薔薇にも向けた言葉。乱れてしまった服装を整え、咳払いをひとつ。ストームはブラザーとロゼットの間へ入るように立ち尽くしていた。

《Brother》
 からから、車輪の回る音。
 激しい声が遠くで聞こえた。赤薔薇の刺々しい制止は、ブラザーの耳に届いている。届いているだけで、体は止まらない。

 がっしりとした体に突き立てんと握った鈍色が、どんどんストームに近づいていく。一番星の光は刀身に反射して、甘く気品よく微笑む人形が照らされた。パンやハムと同じだと貴方を認識するとち狂った“おにいちゃん”は、手を取られれば簡単にワルツを踊る。敵意はまるで無かった。月が静かに登る。ブラザーの白銀はいやに眩しく、扇情的に輝いていた。

「……大事な商品?
 君と違って買い手もいないのに、大事にする理由なんてないじゃない」

 とたん、とん、たたん。
 軽やかなステップを踏んで、ブラザーはダンスから着地する。優雅に髪を整えては、ストームの方を向いた。
 未だ手には鈍い銀。二人の距離は一撃目よりも近づいている。ブラザーは口角を緩めたいつもの微笑みのままで、次の攻撃のタイミングを考えていた。

「止めないで、ロゼット。
 君もストームも、僕も、罪を清算しないといけないんだよ」

 諭すような、けれども対話の意思なんてないような。柔らかな拒絶な声がロゼットに届く。
 ブラザーは腰を落とした。

《Rosetta》
 五体満足のドール二体が、オルゴールの中身のように踊っている。 その足取りは軽やかに。リードしていることすら悟らせないような、自然な動きでストームは動いていた。
 ブラザーの所作も美しいものだ。繰り糸を取られた人形のように、相手の意図を汲んで、淀みなく身体を動かしている。
 観客はロゼットだけだ。天国への片道切符を気にしているのも、きっとロゼットだけだっただろう。
 聞こえもしない伴奏が消えた後。ブラザーが淡々と口にしたのは、自分が話したことだ。
 空ドール。贖罪。ストームのこと。
 彼が明るくなったのは知っていたが──まさか、こうなったのは自分のせいなのだろうか。
 またひとつ、罪が重なっていく。ミュゲがこれを知ったら、どんな顔をするだろう。

「……確かに、私たちは罪を背負ってはいるよ」

 少し、距離を取る。
 テーセラのストームが間に入ってくれたのはいいが、ナイフがあるなら話は別だ。

「でも、あなたに償いの方法を決めてほしいなんて言ってない。同じ罪を背負っているわけじゃないし、ストームにも生きていてほしいと願っているドールはいるもの。
 みんな殺して終わりになるわけないでしょう、ブラザー。少なくとも、お披露目に行くわけでもないストームを傷つけるのはやめて」

 車椅子に乗ったまま、何ができるかなんて分からないけれど。
 何か投げつけられるモノがないか、ロゼットは探している。──ストーム越しに投げられるモノなんて、大したモノではないだろうけれど。

 舞踏会はまだ続いていたようだ。
 軽快でリズミカルなステップの後、ブラザーはもう一度自身らの方を向き直っている。
 ハグでもしに来るように、ブラザーはストームを刺そうとしてきた。なんの殺意も乗っていない、弟に抱き着くための歩み寄り。
 もし包丁を持っている事が分からなかったら、ストーム程の動体視力を持っていても避け切れるかどうか。嫌な汗が背中を伝っていった。不快感を隠すこと無く、眉間に皺を寄せる。
 
 ロゼットの諭す説得が後方から飛んでいった。彼女の主張はやはり変わらない。『清算』と『償い』二人の行動起源は同じだろうに、全く異なる事のように感じてならない。残念ながらストームにとって、そのどちらも許容し難い。
 バラバラの方向に向いてしまったドールズは、どう分かり合えるだろう。
 夏に差し掛かっているとは言え、冷たさを含む夜風がドールズの身体を横切った。

「凶器を向けるべき相手は別に居ます。
 ……正しい選択をしてください。」

 声は届いていないだろうな。この愚かなドールを救える手立ては無い。だが、怪我されては困る。お披露目が決まったドールほど動きやすいドールは他に居ないのに。
 ストームがブラザーを捉える目は、すっかり無機物に向ける瞳をしていた。顧客の居ないドール。ブラザーの言ったことが本当なら、本来向けるべき目なのだと信じて疑う様子もない。

 割れた指先を親指の腹で撫でた。
 傷の一切許されないドールの、傷付いた身体。切り傷も刺し傷も変わらないかもな。
 心のバグも、きっと同じだよね。
 ストームの口端が不敵に持ち上がった。

《Brother》
「僕だってストームに生きてほしい。生きて、幸せになってほしいよ。
 でも僕が生きてほしいと思っているのは、なんの罪もないストームだ。
 仕方ないんだよ、ロゼット」

 未だ、ブラザーはステージの上にいるようだった。
 悲痛な嘆き。空虚な懇願。姿勢を戻して、空を見上げる。星々が輝いていて、最悪の気分になった。銀の光を浴びる彼の姿は、誰がどう見ても芸術品のように美しい。さらさらと絹糸のような髪をなびかせて、ストームの背中に隠れた赤薔薇に答える。伸びやかなテノールの甘い声に嘘はない。

 ストームを愛していた。
 心の底から、ずっと。

 そしてこれからも、愛していくつもりだった。

「別にいるって、例えば?
 先生たちかな。グレーテルかな。他のプリマドールの子達かな。

 大丈夫だよ。
 みんな、僕が清算してあげるから」

 長い前髪に片目が隠れる。
 アメジストは今も狂気に輝いて、ストームを見つめていた。姿勢を戻して、一歩一歩近づいていく。安心させるように柔らかく微笑んで、じわじわと距離を詰めていく。
 ナイフを両手で握りこんで、祈りを捧げるように胸の前で構えた。純新無垢な願い。ストームを真っ直ぐ見つめて、ブラザーは歩き続ける。

 ストームがその場から離れないのならば、ブラザーはその眼前1mほどの距離にまで近づいて止まるはずだ。離れるのなら、2,3mほどの距離を残して止まるだろう。

《Rosetta》
「そんなの、全然仕方なくないよ。落ち着いて考えて、絶対そんなの……変だよ」

 ──本当に?
 ロゼットは、ブラザーを突き放すことができない。
 ストームが刺されそうなのに、自分ごと突っ込んで止める度胸もない。
 自分も、心のどこかで同じことを願っているから。
 子どもを踏み台にした上に、化け物に変じてしまった化学者と。あのやさしい温室で、自分に植木鉢を預けた誰かが、同じ存在なのだと思いたくないのだ。
 だって、誰かを殺した手で触れられるのが嫌だから。未来ある子どもを踏みにじった脚で、近づいてきてほしくないから。
 多くの人々を傷つけておいて、悪びれずに「愛している」なんて言われた日には、ロゼットは耳を切り取って死ぬだろう。
 ブラザーも、顧客も、グレーテルも。植物を剪定するように、見たくないところを切り離して。美しい形に切りそろえて、それで“正しい”関係に戻ったとして、本当にそれでいいのだろうか。
 愛のけだものに成り果てた青年には、最早何を言っていいのかも分からなかった。
 ストームは今、どんな顔をしているのだろう。何を考えているのか、ブラザーを止める意思があるのかすら、赤薔薇には分からない。

「他にいるって……あなたに指示を出していたディアとか、それ以外にも誰かいるの?」

 ただ、先ほど彼が言っていた「凶器を向けるべき相手」について問いかけるしかできないのだ。

 舞台上の麗しい俳優は愛を謳う。
 手の包丁の青い光は彼の甘ったるいテノールに似つかわしくない温度でストームを睨んでいた。甘さが、あの毒に。身体を蝕む毒に似ている。

「本当に? みんな? デイビッドもジゼル先生も全員?」

 目を見開く。声は浮ついて。まるで子供。

「あぁブラザー。こんなに細い腕で。痛ましい……」

 ストームは無垢な笑顔を見せる。近付いてきたブラザーの腕を取ろうと手を伸ばすだろう。この奇麗なアメジスト色をしたクロッカスを手折ってしまおうか。背中でくすぶっている赤薔薇にも聞こえる笑い声で、ストームは謳った。

「凶器を向けるべき相手が誰か。トイボックスの管理者ですよ。彼らが居るからこのスパイラルは終わらない。
 今のジブン達で終わらせなければならないのに、このドールは何も分かってない。

 平気ですよブラザー。ロゼットを直すついでに貴方様もきっと直してもらえるでしょうから。」

《Brother》
「……ディア?」

 ブラザーは狂ってしまった。
 しかし、彼は優秀なトゥリアドール。今もそれは変わらない。
 ロゼットの言葉に強い否定が乗っていないことなんて、手に取るようにわかる。他者の機微を感じ取り、欲しい言葉を与えるための人形。特定の顧客を持たない彼は、誰にでもそうするように作られている。

 故に、その言葉に引っかかった。
 きっとロゼットは本心から止めたいわけではない。だからこそ、口にした情報。なんの他意もない真実。それはこの場において、何よりもブラザーの思考を研ぐ材料になる。

 ぱちりと瞳を一度瞬いて、瞬間に歩幅を変えた。大きく一歩踏み出し、手を伸ばしたストームの胸に飛び込む。無機質な紳士の両腕の中で、ブラザーはナイフをその顎下に突きつけた。


「答えて。
 ディアが指示を出していたってどういうこと? まさか、ラプンツェルたちを殺すように、あの子が命じたの?

 ……動いたら、刺すよ」


 ぎゅう、と。ナイフを握る手に力が籠る。
 全てを射殺さんと見開かれたアメジストは、激しい毒に似た愛情を持ってストームを見据えていた。刃先は少しも震えていない。昨日まで愛を囁いた“弟”を、彼は本当に刺せる。ただの脅しではないことは、一目瞭然だ。

 しかし、相手はテーセラのプリマドール。ストームはその気を出せば、ブラザーがナイフを突き上げるより先に彼から距離を取れるに決まっている。
 避けた先でこの硝子細工が何をするかは、置いておくとして。

《Rosetta》
 軽やかにステップを踏んで、ジュッテをひとつ。
 ブラザーは風に吹かれたかのように、自然にストームの懐へ飛び込んだ。
 ロゼットからは何も見えない。テーセラドールが刺されてしまったかも、ブラザーがどんな目をしているのかも。

「ストーム!」

 自分の迂闊さで傷付く誰かがこれ以上出てきてほしくない、なんて思ったのだろうか。
 悲痛なだけの声をあげて、赤薔薇は動向を注視する。
 彼を破壊せしめたなら、きっとブラザーは自分を狙うだろう。そうなった時、どうやって逃げればいいのかなんて少しも思い付かない。
 肩甲骨を汗が伝う。背中とも呼べない、背面のふちを雫がなぞる感覚は、非常に不快なものだ。
 今の彼女にできることと言えば、いつでも投げつけられるよう、膝掛けを握り締めるだけだ。

 冷たい。
 首筋に当てられた鉄の温度。押し付けられた死。
 赤薔薇は時に、白の女王へ生け贄を明け渡すのだろうか。ストームは後ろに控えたロゼットを見る。これが本当の望みなのですね。なんて。淀んだ瞳で一瞥して。

「いいえブラザー。ディアは何も関係ありません。
 ラプンツェルはトイボックスに殺されたのですから。さらに言うと、顧客……。最愛の方がお気に召さなかったが為に食いちぎられたんです。」

 ストームはそれだけ答えると、一歩二歩、後ろへ下がった。腕を折ってやろうかと思ったがやめにしよう。怪我人が二人もいるオミクロンのバリアフリー化が進むだけだ。

「申し訳ありませんがブラザー。貴方様もロゼットと同じ様に現在の素体以前からラプンツェルとお知り合いで?
 そうでなければ貴方様がジブンやロゼットを殺そうとするのは何故です? ロゼットの言い分もおかしな話ですが、貴方様のは理解に苦しみます。
 仮に、ヒトだったラプンツェルを同様にヒトだったジブンが殺していたとしても、それは貴方様には関係の無いことでしょう?」

 刃を当てられた首筋を撫でる。これは隠せそうもない。重たい溜息をひとつ着いた後に、上記のように質問を投げかけた。ブラザーのエゴがどれだけ大きかろうが、重たかろうが、生前の記憶と今は一切関係が無い。お披露目だって、見に行った時ちょうどラプンツェルが出た。そして喰い殺された。それだけ。それなのに突き付けられる理不尽には嫌気がさす。まるで災害。ストームは押し付けられる罪を睨み付けた。

《Brother》
 眉を寄せる。
 ブラザーは優秀なトゥリアドールで、他者の機微を感じ取ることに優れた人形だった。


「……その、“前”の話だよ。
 君に治験室の子供たちを殺すよう命じたのが、ディアだったのかって聞いてるの。

 今、わざと隠したでしょ。
 ストーム、君は賢い子だもんね。自慢の、可愛い弟だった。本当に……。

 ……ああ、やっぱり、僕が清算してあげなきゃ……」
 
 
 ぶん、風を切り裂く音。
 下がったストームの眼前を銀が走る。了承を得ずに動いたことに対する牽制だろうか、ブラザーは腕を横薙ぎに振ったのだ。一切の迷いがない切っ先は、下がったストームの僅か前を通る。……あと少し歩幅が小さければ、その高い鼻筋に赤い線でも入ったかもしれない。
 月光に照らされた銀の直線を、きっとロゼットも見たはずだ。

 ブラザーはナイフを振った腕をだらりと落とし、凍てつく双眼でストームを見る。彫刻のような顔から表情を消し、淡々と言葉を重ねた。しかし、それは次第に優美な微笑みになり、声も蕩けそうなほど甘くなる。最後にはナイフを抱き寄せるように体に近づけ、星空を宿した燃えるアメジストが瞬いた。


「違うよ。僕はこのトイボックスで作られたんだもの、素体以前なんてないさ。

 確かに関係ないかもね。
 でも、そんなことこそ関係ないんだ。

 僕にとって、ラプンツェルは大切な弟だった。笑顔のかわいい、優しい子だった。
 そんなあの子の運命が許せない。あの子を見殺しにしたプリマドールも、あの子の生前を殺した君も」


 依然踊るように、細い足が前に出た。開いた距離を埋めるように、ブラザーは前に出る。
 相も変わらず、御伽噺のように呪われた運命を語る吟遊詩人。なんてことないように、理解し難い理不尽を振り翳す。
もう刃先はストームに向いていた。


「僕はね、ストーム。
 僕の大切なものや子たちを傷つけた存在が許せないの。

 だから清算する。
 僕も、君も、ロゼットも」

《Rosetta》
 話は延々と平行線をなぞっていく。
 同じ列車に乗り、破滅に向かって進んでいく同乗者のはずなのに。
 連続した事象が運命のように絡み付いて、この場の誰ひとりをも逃がしてはくれない。
 ブラザーは話が通じないし、ストームは冷たすぎる。ロゼットだって、口を開いたところで片方の肩を持つこともできない。
 この場に誰かが現れて、どちらに正当性があるのかはっきりさせてくれたらよかったが──ここは門限ギリギリのガーデンテラスだ。そんな都合のいい存在が現れるはずもない。
 結論ありきの話に、折衷案を期待するだけ無駄なのだろう。ロゼットはゆっくりと、少しずつ後退しようとする。

「……壊すしかないって思ってるなら、勝手にしたらいいよ。私はここで壊れるつもりなんかないし、ストームだって同じはずだし。でもね」

 警戒するように、背後を一瞥する。
 ストームはあの話を聞いたのだろうか。ミュゲイアとブラザーの精神に、深い爪痕を残した化け物の話を。

「いつまでもその話をするつもりなら、私は帰るよ。こんな所でバラバラになりたくないもの。
 学園には……あの、アラジンを傷付けた化け物が出るんでしょう? フェリシアから聞いたよ。こうしてもだもだしている間に、その子が皆殺しにするのを望んでるのかな。
 それとも、門限に間に合わなかった私たち諸共、ジゼル先生に焼却炉送りにしてもらうの?」

 いい加減にしなさい──なんて口にしたのは、きっと焦燥や恐怖からではないだろう。
 ブラザーのアクション次第で、ロゼットは車椅子ごと突っ込むことだって辞さないつもりだ。

 はらり──
 藍色に光る髪が数本宙に舞った。ぷちりと切れるゴムから開放された三つ編みがゆっくりゆっくり解けていく。
 目の前を、銀の筋が走った。
 あと少し、体を仰け反らせるのが遅ければ陽の光を見ることは出来なかっただろう。
 確かな殺意をはっきり見せつけられゴクリと生唾を通した。
 まるで死神。そう見える。
 
「そうです、か……。」

 ブラザーの言っていることは支離滅裂で、身勝手で。世界の中心に躍り出たつもりのような真っ白な器に溢れる程に注がれたドス黒い赤、それに黄色と黄緑を掛け合わせた歪なカタチ。見ているだけでもあまりに痛々しい。果たして『──』と呼べるだろうか。

「ロゼットの他も“精算”しに行くつもりなのでしょ?
 ……そうなればジブンが止めない理由はありません。」

 夜風に靡く横髪の奥、トパーズが光る。身構えようと手を宙に浮かせた瞬間に時間が切り取られた。


「は? ……バケモノはお披露目の時のみしか学園に入れないので……は……、?」

 思えば、証明出来る物がない。ただ学園の中に目立った引っ掻き傷や残り香などが感じられないと言うだけ。ロゼットの言っていることが本当なら早く帰らねばならないのは明白だ。ロゼットの口ぶりから、ブラザーもおそらく関与しているはずだ。
 アメジストへ真っ直ぐ瞳を向けた。

「アラジンに、なにがあったのですか?」

《Brother》
「随分と、対等に喋るね」

 ただそれだけ、ブラザーはロゼットに答えた。

 車椅子を細枝のような体に叩きつけたのなら、彼の狂った理想はその身諸共砕け散る。そんなこと彼も分かっているはずだ。猫のような銀の目がストームの背中越しにこちらを見ているのを、ブラザーはどんな顔で見つめ返したのだろうか。
 甘い伸びと酷く鋭い茨を含んだ声はいっそ淡々と、静かに降る雪のようだ。

「……知りたい? ストーム」

 ストームの腰元、ロゼットに向けられた視線が静かに持ち上がる。毒と煮詰めた砂糖漬けのアメジストは柔らかく細められ、嫋やかに光った。内緒話をするみたいに潜めた声は、触れれば溶けてしまいそうな響きを持っている。
 一歩、一歩。バレエシューズではないショートブーツが、コツコツと石畳を踊る。花の香りを纏ったうつくしい処刑人は、次の罪人を探している。

「知りたいよね。君の大切な家族が、愛する子が、めちゃくちゃにされちゃうかもしれないもの。勝てっこないさ。あんなの、誰も勝てない。勝てなかったんだ。なのに、僕が飛び込んだから。ああ、駄目だ、また…………。

 ……うん、教えてあげる。
僕のさっきの質問に、ちゃんと答えが出たらね。

 ……ああ、別にロゼットが答えてくれてもいいんだよ。知ってるんだよね?」

 ペラペラと。
 月光を背に眩く光る、トイボックスに埋まる博愛の月下美人。

《Rosetta》
 ──よりにもよって、自分に語らせるのか。
 軽薄な語り口のまま、重責を意識させられた気がした。
  ストームも、それ以外のドールも。きっといずれ知ることだ。今言うか、後から知られるかの違いしかない。
 だが。加害者に肩入れし、その一端を担っていた“人間”としては、それらの出来事が鉛のように思える。

「……違うよ、ストーム。あなたの言う化け物と、アラジンを襲った化け物は違う存在なの」

 気が立っていた雌猫も、今では雨の中で震える子猫と変わらない。
 ロゼットはその目を誰とも合わせず、軽く俯いていた。前髪が御簾のように顔を遮り、無遠慮な視線を遮断する。
 何度、誰に伝えたのか。誰に伝わっているのかも分からないまま、淡々と赤薔薇は事実を告げる。

「夜の学園に出るのは、開かずの扉の番人。虫みたいな見た目をした、鋭い爪を持つ怪物だって。……その見た目をガワって喩えてる子がいたから、もしかしたら鎧なのかもしれないけどね。
 アラジンはその子に切り裂かれて、開かずの扉に拐われた……っていうのが、私の聞いた話。付け足すところがあるなら、後で話して」

 ブラザーの返事など、今は求めていないらしい。
 吐き捨てるように口にして、一度深呼吸をした。ストームにとっては、聞いたことをまとめるための時間となったかもしれない。
 質問があろうと、ロゼットは話し終えるまで答えることはない。強張る指を軽く動かし、もう一種類の化け物について語り出す。

「あなたが言う“化け物”は、厳密に言うと化け物じゃない。
 あれは元々人間だった存在なの。ガーデンが……おまえが壊した場所に生かされた、人類の生き残り。
 デイビッド先生も、ずっと言っていたでしょう。他でもない私たちに会うことを心から渇望している人が、外の世界には必ず存在するって。
 彼らは死んでしまった誰かに会いたくて、トイボックスに依頼してるの。モデルや見た目を指定して、故人そっくりな人形を作ってくれって。
 気に入らなければ壊して、また作り直させて……何度も何度も、同じことを繰り返してる」

 銀の眼が、幽鬼のように微かに輝く。
 それはまさしく死者の眼差しであったと言えよう。暗がりから未練たらしく見据えるのは、生前関わりのあった存在だ。

「おまえにもいるんでしょう? 作られた時から覚えている存在が。
 よかったね。その人は誰か知らないけれど……怪物みたいな見た目になった今も、ストームのことを待ってくれてるよ。
 子どもを殺して、私の花壇をぶっ壊した罪人が帰ってきて喜ぶ人が世界のどこかにいるんだよ。ねえ、もっと嬉しそうにしたらどうなの」

 ブラザーは、まるで夢見ているようだった。
 ストームの知っている感覚で言う、暖かくて雲に包まれているような夢。夜の間にしか見られない泡沫。
 ストームは木彫りのシューズを履いているように舞う花が、この学園中を犯さぬようにつま先の前に立ちはだかる。
 彼に話題を振られたロゼットが語るのを背中で聴きながら。


 ロゼットは、言葉を続けた。続ける程に、熱を、恨みを、情けなさを帯びてゆく。惨めだ。と言っているようだった。

「……えぇ。本当に。反吐が出る。」

 幼子がキャンパスいっぱいに描いたようなカラフルな薬。母の温もり。生前、伏せたあの写真。
 全てはヒトであった時に全て終わった話だ。もう空洞の愛具に母を重ね追いかける事も必要ない。死んでまで、自身を望んでくれなくていい。
 だって生前、ストームは実母を剥製にしようとしていたのだから。愛しい母。美しい母。厳しい母。そのどれもが大好きだった。そして同時に手に入れたかった。でも、手に入れる事は出来なかった。フラッシュバックした中に母は居なかったから。写真の中の母は、母とは言えない。母はヒトでなければ意味が無い。そして、自分自身もヒトでなければ意味が無い。
 
 だから、ロゼットの言う通りに嬉しそうに笑ってやった。

「ブラザー、ジブンは貴方様が羨ましいです。
 生まれた時からずっとずぅっとドールなのでしょ? 何のしがらみもなくて。自由で。いつまでも美しい。
 ドールであるご自身に罪を着せてファッションショーをなさって居るのは勿体無いくらい。」

 ストームは両腕を夜空に仰いだ。自由の白鳥の彼がどうして、生前というしがらみが付いて回る自身らと同じ土俵におりてこようとするのかは分からない。ストームには死神の背後には大きくて立派な翼が見えるのだ。
 逃げるのにはうってつけの空っぽの身体。その美しさを彼は知らない。

「ブラザー。貴方様は独りなんですよ。
 家族だと証明出来る家族も居ないのでしょう? 他人を構って他人の罪まで精算する必要なんてないじゃないですか。

 貴方様に、包丁は似合いませんよ。」

 なら、知ってもらわないと。
 ストームはなんの躊躇もなく、彼の手に握られた包丁へ手を伸ばすだろう。

《Brother》
「ふふ、ジョークにしてはお粗末じゃない?
 友だちを二度も殺した僕の、どこが羨ましいっていうの」

 白鳥の羽は、さぞ美しいのだろう。
 銀の瞳が罪を語るのを、なんの感情もなく聞いていた。ブラザーはどうしようもない欠陥品で、最初からずっとナニカが壊れている。それは直ることなく、 壊れた箇所ばかりが増えて、そうして今の彼が出来上がった。正規品とはとても呼べない、頭のおかしな愛の亡霊。くすくすと肩を震わせて上品に笑う姿は、憎らしいほど愛されるために精巧だ。詰めた間合いを、太く逞しい腕が裂く。

 白鳥の羽は外界を知らない。
 作り物の箱庭で生まれた、無価値で無意味な無垢の人形。


 だからこそ。
 このちいさな、地獄のような楽園が、彼の全てになってしまったのだ。


「君たちは……君は、お披露目を見に行った。あまつさえ、ラプンツェルを見捨てた。オリジナルと同じように、あの子を傷つけた。

 分かって、ストーム。
 君は罪を犯した。でもそれは、今この瞬間に清算される。
 これほど喜ばしいこと、他にないでしょう?」


 包丁を握る。ブラザーは避けない。伸ばされるストームの腕に向けて、刃先を構える。言うなれば聖母のような微笑みを浮かべて、傲慢な貴方の“■■”は真っ直ぐそちらを見ている。

 トゥリアモデルのやわな攻撃。テーセラの元プリマドール様ならば、その華奢な手首を、枯れた花の茎が如く手折ることなんて造作もない。
 しかしながら、ブラザーに危害を加えるということがどういうことか、貴方が考えない筈がない。害されたブラザーが先生と接触した際に何を言うかなんて、かの会話上手な王子様でも予想できないのだ。


「家族はいるよ。証明も出来るさ。

 ───僕は『brother』。
 君の“おにいちゃん”。


 家族の罪は、僕が清算してあげないと」


 にっこり。
 底なしの愛と優しさを詰め込んで、空っぽの体で白鳥は笑う。清く美しいその羽を自ら赤くして、ブラザーはやっと“綺麗”になれる。

 月の光を刀身に反射させて、小賢しい目眩しと共に握った包丁を突き出した。ブラザーの体にストームの手が触れるのならば、ブラザーは躊躇うことなくソレに突き刺す。

 最早、対話は意味を成さない。
 果てに果てたこの異常者を見捨てるしか、もうあなた方に道はない。


 赤薔薇は間に合うだろうか。
 貴女は決別しなければならない。何より憎む罪人のために、いつか過日の花を辿った“兄”の微笑みを、この場で燃やし尽くしてしまわなければならない。



 そうすることがブラザーの救いになるかは、もう誰にも分からない。

《Rosetta》
 トゥリアドールは、愛し愛されるために生まれたドールだ。
 エーナのような話術を持たず、デュオほどの叡智も持たず、テーセラのように強い肉体も持ち得ない。
 脆い肉体と聡い目で、所有者を悦ばせることを期待された空気人形。
 如何なる激情を抱こうと、器用なだけの手先では爪痕を残すのが精々なのだ。──その手に、武器さえなければ。
 ロゼットは優秀なカウンセラーだった。話を聞き、仕草を見、相手の状態を鑑みて適当な対処をする。
 今回も、そうだった。包丁を持ったブラザーが、躁状態の人間のように振る舞うのを異常だと断じていた。
 仮にストームを殺してやりたいほど憎んでいても、ブラザーがそのまま刺し殺してしまえばいいと思っていても。加害行為をやめさせるため、その身体は動いた。
 お披露目の話が出た段階で、車椅子の位置をずらした。直進しても、テーセラドールにぶつからない位置に。
 「清算」という言葉を耳にする頃には、不恰好な乗り物は前進を始めていた。

「“おにいちゃん”は、そんなことしないよ……!」

 車輪をひたすら動かして、ブラザーの傍へ。少しでも近付こうと、ロゼットは相手を見据えている。
 刃物を持った相手に突進する、なんて馬鹿なことは流石にしない。
 ただ、持っていた膝掛けをブラザーの顔に投げつけた。怨嗟に染まった、その視界を遮ろうとしたのだ。
 この程度で相手が怯むとは思っていない。ただ、ストームが何かするのなら、予備動作を確認させないだけの時間は稼ぎたかったのだ。

 ブラザーが羨ましい。ジョークでもなんでもない。
 ジョークなのならストームは道化師になりさがってしまうじゃないか。笑えもしない。泣きもしない。無表情な道化師は世界には必要とされない。
 無論、母親にも。

「殺した? 死んだの間違いでしょう?
 殺すというのはこの真っ白な手に、真っ赤なヴェールを浴びるということですよ。」

 手に向かってくる刃を手の甲で退け、手首を掴む。同じボーイモデル。近い年齢。しかし、トゥリアの手はテーセラの手に比べると何倍も小さくそして柔らかかった。
 やはり、包丁なんか似合わない。

「要りませんよ兄なんて。」

 そう告げた瞬間、斜め後ろから黒い物体が飛んできた。視界の隅で捉えた影を避ける。それは毛布だった。一瞬の認識。それを逃すはずがない。
 ストームは反社会性パーソナリティ障害。
 ストームはテーセラの元プリマドール。
 強大な力をネジの外れたドールが持ってしまった時。果たしてどうなるだろうか。

「友人でしょう? ジブンと貴方様は。
 ねぇ。“ブラザー”。」

 ストームはブラザーの手から包丁をひったくった。くるりと回し、すぐさま刃を月下美人の花弁のような頭に向けるだろう。

《Brother》
「殺した。
 僕が……いや、僕“ら”が、見殺しにしたんだよ。

 僕の友だちは、君じゃないもの」


 ストームの手が手首に触れる。
 ブラザーはその瞬間を狙っていたかのように、刃を振り下ろした。
 月光の妨害は、ブランケットによって阻止されている。視界が遮られる時間なんて無視して、ただひたすらに刃を突き立てた。

 上手くいくと、本当に彼自身思っていたのだろうか。様子こそおかしいが態度に異変は無かったのだ、ヤケを起こしていたとは思えない。であれば何か、策があったのだろうか。
 答えは、“そう”だった。ブラザーはストームが包丁を奪おうとしたとき、足を大きく後ろに下げてそのまま───……。


 ……するり。
 実力差というものは、実に単純で。
 ブラザーが緻密に策を練って実行するよりも、咄嗟にとったストームの行動の方が早かった。

 包丁は蝶のように、可憐に軽やかに、ブラザーの手を離れる。


「────ッ、触らないで!!!!!!!」


 なにが逆鱗に触れたのか?
 瞬間、ブラザーは烈火の如く叫んだ。

 取り上げられた包丁目掛け、乱暴に手を伸ばす。体がよろめくほどに勢いはあり、ストームとの距離は殆ど0にまで近づいた。甘い、人を惑わす香りがぐっと漂う。けれど、ストームは惑わされない。包丁との距離は縮まらない。投げられたブランケットはブラザーの肩のあたりにかかり、テラスの風を受け場違いに優雅に揺れている。


「アラジンとっ、同じなのッ!!!!
 あの子と、同じ、なの!!!!!!」


 ……なにが、逆鱗に触れたのか?
 非弱なトゥリアモデルでは、テーセラの腕力にも身長にも敵うはずがない。それでもブラザーはつま先をピンと立たせて、包丁に手を伸ばし続けた。
 そんな彼を他所に、ストームは手早く手際良く、包丁を持ち替えてしまう。空っぽの頭に、刃が向けられた。


「返して、返して、返して、返して─────!!!!」


 銀が光る。
 ものの数秒で行われた形勢逆転。

 されど、星屑の人形は止まらない。 

 病的に何かを繰り返して、向けられた包丁に伸ばした手を振る。手首、ヒトで言うのなら、動脈の位置。何も顧みない人型の狂気は、ただひたすらに包丁を奪おうとしている。この至近距離では、暴れる柔らかなトゥリアドールに傷が出来るのは明確だ。被害を被るのは、間違いなくストームらである。


 まさに厄災。
 愛と執着の眩い劣等星は、壊れた光を溢れさせている。

 凶器を奪って、おしまい。
 大抵はそれで解決する。自身を肯定するための道具がなくなってしまえば、脆いから。
 あっという間に手に転がり込んできた包丁を向けて、チェックメイト。
 
 何度も言う。ブラザーは普通じゃない。

 そこまで呆気なく終わるわけはなく、諦め悪く包丁に手を伸ばしてくる。彼とストームの身長差は少ない。手を伸ばせば柄に触れることは簡単だ。
 ふんわり、誘惑する甘い香りがストームを包んできた。噎せ返る甘味。アイツと似た匂い。まるでクスリのような匂い。押し返しても見えない手が抱き込んで来ようとする。
 ストームはすぐさま包丁を持った手を高々にあげ、手首を下から上にスナップすると空中へ包丁を放る。青銀の輝きが、クルクル。宙を舞った。投げたのは自身の少し後ろ。柄と刃の部分が頻繁に入れ替わる。ストームは包丁をつかもうと自身の身体に乗りかかろうとするブラザーの身体を抑え、後方に手を伸ばす。
くるくる。ストームの手に収まったのは、柄の方。
 曲芸を披露し、ブラザーを凶器から遠ざけた。

 あまりの諦めの悪さにストームはロゼットの方向を見た。彼女がここで起こったことのどの程度を話すか、知った事では無い。対話能力もなければ、頭も足りず、包容力もない。ただのテーセラドールに出来ることはなんだろうか。

「貴方様、疲れてるのですよ。」


 ストームはトゥリアの身体を知っている。
 嫌という程触れてきた。
 どのくらい柔らかいか。脆いのか。
 髪がブラシに少し引っかかれば痛いよと笑う。小さな身体を抱きかかえれば、苦しいと。爪を少しでも立てれば名前を呼んで。そして決まって……愛を囁く。
 そうそれは、触れた瞬間にその場所から崩壊してしまう星々。一夜の春夢であり、泡沫。
 欠けてしまっても、強く柔らかいアメジストを纏った星。何にも縛られない星。奇麗だ。
 首の後ろを筋力調節で何とかひび割れる一歩手前を狙って。

 ドス──

 眠って。

《Brother》
 暴れて、暴れて、暴れて。
 その果てに、何があるのだろう。
 生まれ変わって、綺麗になって、その先になにがあるだろう。


 ブラザーには分からない。
 彼にとって、この狭い箱庭が全てだから。
 繰り返されるだけの運命の中に、幸せを見出してしまったから。


「アラ────」


 包丁が舞う。
 紳士の優雅な曲芸を見る余裕など、ブラザーにはなかった。けれども、刀身の銀の輝きが夜空に映えて、まるで星のようで。口から、愛おしい友人の名前がまあるい響きで落ちる。

 同時に、ストームの手も落とされる。

 ごくごく弱い力であれど、全てが脆いブラザーにとっては充分だった。ぐらりと脳が大きく揺れて、四肢の先端から力が抜けていく。長いまつ毛がゆっくり落ちて、毒々しいアメジストを包んだ。くたりとストームにもたれかかる体はあまりに華奢で、先程まで暴れ狂っていたとはとても思えない。細枝のような手足を垂らし、今はただ、小鳥のような寝息をたてている。

 ブラザーの肩にかかっていたブランケットは風に浮かんで、テラスの冷たい床に落ちた。
 ガーデンテラスは、静かだった。

《Rosetta》
 踊っていた人形の動きが、変わる。 
 楽章が変わり、音楽が大きく変調するように。ブラザーの喉から、悲鳴のような怒号が絞り出された。
 アラジンとは、包丁を構えるようなドールなのだろうか。
 ミュゲイアが助けを求めた相手は、本当に今のブラザーと“同じ”なのだろうか。
 先ほどまでの優美さは、その肢体のどこにもなくなっている。
 手脚をじたばたと動かして、狂気と夢想を彷徨うそれは、憐れと言うより他にない。
 彼はディアとよく似た、けれど種類の異なる愛で駆動する化け物なのだ。
 ストームがこちらを見た理由は、あまり想像ができない。その視線が無関心であったかも、軽蔑であったかも、ロゼットにはよく分からない。

「……膝掛け、返してもらえるかな。剥き出しのまま帰ったら、みんなびっくりしちゃうから」

 もしも、ブラザーが気絶したのであれば。彼女はそう口にして、ストームへ居心地の悪そうな視線を向けるだろう。

 一瞬にして脱力したブラザーを片手で受け止めた。
 ストームは溜息をつき目を細める。ちぐはぐな双眸が、美しく眠る姫を見下ろす色は慈悲に満ちて刃のよう。
 一瞬にして得た静けさに浸る。

「……真っ白な人生を(インク)で汚さずに済んで、良かったね。」

 純白のヴェールを被った、なんの傷もない耳にそう囁いた。内緒話をするように、ストームの声はどこか幼い。
 “おとうと”に救われたブラザーは、相当気分が良いだろうな。奇麗な寝顔には、腹の底から祝福を与えたい。可哀想な“あに”をそのまま放っておくほど残酷な“おとうと”にはなれないから。

 ストームは背中に隠したナイフを高々に掲げた。

 くるりと柄を回し、青白い光を下に向ける。

 月光がよく反射した。
 目が開けられないほどの輝きがロゼットの瞳を襲ったかもしれない。

 バイバイ、ブラザー。


 友人になれなかった、

 “おとうと”からのプレゼント。





 ストームの腕は降ろされた。
 だらりと脱力するように、青白い光が奇麗な弧を描く。

「こちらをお願い致します。」

 ロゼットに柄の部分を向けて──

 彼女に包丁を預けると、ブランケットの下に隠すように手で頼む。そしてブラザーの身体を少し屈ませると、そのまま膝の下に腕を入れ持ち上げた。
 本当に眠りの姫になってしまったように、ストームの腕の中でブラザーは眠っている。
 そのまま、冷たい床に放り出されたブランケットを回収し、ロゼットに手渡せばそのまま寮へ帰ろうとするはずだ。

 背中でドアを押して開け放ち、車椅子の彼女が出やすいようにすれば一瞥だけし、先にその場を後にするだろう。

《Rosetta》
 息を呑む。
 ストームの握った刃が、銀の髪を赤で汚すと思ったから。
 その前にブラザーの首に彼の手が当たった時も、トゥリアドールがそのままへし折れてしまうかと恐れてしまったのだ。

「……ありがとう。あなたがブラザーを殺さなくて、よかったと思うよ」

 一瞬躊躇してから、ロゼットは包丁を受け取った。
 他のドールに見られたらどう言おうか考えたが、それよりも早く帰ることが先決だろう。
 包丁とお腹をブランケットで隠して、彼女は花壇を振り返る。
 刃物を振り回したり、無理矢理昏倒させたり。あんなに暴れていたのに、花たちは依然変わりない。
 ──あの人は、私たちがどうなっても何も思わないのかな。
 そんなことを、ふと考える。
 ストームの依頼者も、ロゼットの友達も。もしふたりがここで壊されても、偽物が壊れたところで何も気にしないのだろうか。
 それは、何だか寂しい気がした。
 車椅子を動かして、赤薔薇はガーデンテラスに背を向ける。そのままカラカラ音を立て、学園を後にするだろう。

【学生寮1F ダイニングルーム】

Sophia
Storm

 寮に斜日の光が差し込んだ。人工的で、欠けることも一切ない美しい光は、部屋の中にダイヤモンドダストを映し出した。
 ティータイムが終わり、食器を片し終えてしまえば手持ち無沙汰になってしまう。手を擦り、首筋をなぞった。こんな状況下で、のびのびティータイムを過ごすドールなんて少ないだろう。彼女もそのうちの一人だった。

 ぴちゃん……ぴちゃん……。

 桶に溜めた水に雫が落ちる音が、キッチンによく反響した。先程濡れたまま触れてしまったから、首筋に水が付着し雫を作って重力のまま駆け抜けていく。
 ストームは蛇口を強く締め、水を払った。ハンカチを取りだし水滴にひとつ残さぬように拭き取ってゆく。
 彼女は何処にいるだろう。
 乾いた床に革靴を歩ませればいい音が鳴った。

 足は自然と、さらにダイヤモンドダストが輝く場所に向かっていった。案の定、彼女はそこに居た。


「アッサムでもお淹れしましょうか?」

 光に照らされ、その髪は黄金に輝いていた。真っ青なアクアマリンは物思いに耽ている。ひと席空いた途端、もう随分集まる事すら無くなっていたそこで、誇りを被った三席と彼女は座っていた。
 ストームはヘテロクロミアを伏せながら、伺いを立てた。四席が埋まっていた時の日常を再現するように。

《Sophia》
 窓から差し込む光を浴びて、埃を被った椅子は、すこしだけ暖かくなっていた。
 かつて、四人で利用していた場所。一席だけ積もった埃を払ってやれば、それは宙に舞って光を反射して輝く。あの頃よりも、輝きは少ない。
 もう誰も使わない残りの二席は、かびたような匂いがする。

「結構。遅かったわね、バトラー。」

 女王様は頬杖をついて、窓辺をぼんやり眺めたままで、のんびりと答えた。善くも悪くも、どこまでも、日常であった。

「……それで。何を見聞きしてきたの?」

 けれども我々は、日常は浸るようなものではないと気付いてしまった。モラトリアムなんてものは、どこにも存在しないと気付いてしまったのだ。

 夕日に照らされた彼女は、やっぱり女王様のよう。一瞬にして与えられた役割を全うするのは、彼の完璧なプログラム。
 日常に陶酔するのは、楽しかった。
 もう酔えないし、もう戻れない。
 カビの匂いを放ち始めた椅子が彼が戻るのを拒んでいる。
 安心してください。もうそこには戻らない。
 忠順なる彼は、頬杖をつく彼女の横に立つ。

「何を……崩れてゆく様々な物を。」

 友情もアイ情も、記憶も。面白いくらいにボロボロ。例えるなら砂浜に作った砂の城。少し波を被ったくらいで跡形もなく崩壊する。
 ドールズ自体、作り物だからだろうか。あまりに呆気なく崩れていったもの達を思い返す瞳は諦めている。ソフィアも恐らくほとんど同じ景色を見てきたのだろう。

「それから。あの日はソフィアの意思を勝手に解釈し、口に出してしまってすみませんでした。
 どういったお考えをお持ちでも良いのですが、ジブン達が足枷になるようでしたら切り捨てていただいた方が懸命かと。」

 あの日。デイビッドを送った日。
 鮮明に思い出せるのは、張り裂けんばかりに叫ぶソフィアの姿。よく回る舌で嘆いたあの姿だ。賢く、カリスマ性もある。けれど彼女もただの少女である事を、はっきり分からされた。だから……。

 持ちすぎた希望の断捨離をしよう。

《Sophia》
「……そう。偶然ねえ。あたしも、崩してきたところ。」

 平べったい声は、宛先もなく地面に落ちる。無感動であった。独りっきりでジェンガでもするような無感情であった。
ああ、もうわたしたち、少年少女じゃいられない。
 女王様も猟奇犯も、痛いほどそれを知ったのだ。なにより、ちいさい存在であったのだ。
 理解してしまった。

「……何、急に。どいつもこいつも……頭でも打っちゃっの?」

 どういう意図であれ、彼の謝罪は心からのものである。この男の言葉はいつだって嘘に塗れていたはずなのに、今回ばかりは言葉の全てが本心なのだ。今回もまた、気味が悪いな、とソフィアは思った。
 そうして、猟奇犯へと向き直る。ヘテロクロミアを貫く沈んだ瑠璃の瞳は、暗く蒼く輝いて。孤高の魔女であると云うには、あまりにその瞳は雄弁であった。
そうして。

「あのね。あんた、今更逃げられると思ってるの。もう手遅れよ、残念。海底まで沈んでもらうから。」

 さも当然であるといった風に。あの『傲慢な女王様』がそこにいる。あなたの、目の前に。

「あたしね、何も変わってないわよ。諦めてなんてない。希望も捨ててない。だって、このままじゃ追われないもの。
 ──トイボックスを潰す。あたしが。絶対に。あの『化け物』どもも全員殺す。たとえどれだけ痛くとも。苦しくとも。腕が、足がちぎれても。肺が潰れても。コアが狂っても。


 あたし達、ずっと友達よ。せめてあたし達だけは終わっちゃいけない。あんたとあたしがどんな奴でも、友達。
 だから、ね。
 一人じゃ無理だもの。わかるでしょ。
 逃がさないから。ね?」

 嗚呼、なんと云うことだろう! もはや少女は、魔女などという高尚な存在ではなくなっていた。今の姿はまるで、地の底から這い蹲る虫のような、墓より這い寄る亡者のような醜さではあるまいか!
 ソフィアの地獄の奥底でこだまするのは、どす黒い怨嗟のみであるようだ。
 変わってしまった。
 輝かしい王座を降りてしまった。
 優美なるクイーンの姿は、もうどこにもいやしない。

 少女はいつの間にか、頼りない椅子から立ち上がってあなたの大きな片手を両手で包み込んでいることだろう。それを拒まれないことは確かである。
 そうしてただ、愛らしく微笑んでいる。

 ストーム。ちいさな猟奇犯。あなたは、毒虫に林檎を投げるだろうか?

 突き刺す蒼色に、瑠璃色が混ざった。
 冗談だろう。目を瞬かせる。
 次の瞬間には、女王様の大演説が始まろうとしていた。

「………」

 逃げられない逃がさないの脅し文句は、序章に過ぎない。なんて傲慢な態度だろうか。まるで、共に歩まなければ打首にする。そんな気迫を宿していた。
 じゃあなんだ。死んだら二度殺されてしまうのだろうか。

 女王様は続けた。

 堰を切って、舌をくるくる。ドロドロとしたおよそキレイとは言えない友情の押しつけ。ここにある全ての本が証人になる程の高々な声で。ハッピーエンドで終わる物語全てにインクをぶちまけてしまいそうな勢いの怨嗟だ。
 女王様なんて高尚なものじゃない。
 魔女なんて生易しいものじゃない。
 なんだ、彼女は呪怨そのものじゃないか。
 それもこびりついて祓えそうにもない。

 精巧な顔立ちいっぱいに黒で塗りつぶした表情で、にぃと幼く嗤う。簡単に片手を捕まれた。

「熱烈なフレンドコールを送ってくださったところ申し訳ございませんが、それではまた崩れますよ。
 トイボックスを壊す。それはジブンも同じです。化け物達を殺す。それも結構。
 ですが、“面倒見の良すぎる”貴方様はどこまで出来るでしょうか?
 行く先々で常に選択を迫られるでしょうね。例えば、ジゼル先生を陥れる一歩手前でリリィが助けを求めるかもしれない。ここを壊す時、何人ものドールを犠牲にしなければ壊せない可能性もあります。
 ここを壊す事でもう二度と目覚めることの出来ないドールも。貴方様に良き選択が出来るとは思えません。

 ……それともいっその事、トイボックスごと心中でも致しますか?」


 可愛らしい笑みを浮かべる呪怨の彼女へ、猟奇犯のヘテロクロミアは冷ややかな色を落とした。朝と夜に灰色の重たい雲がかかる。
 猟奇犯に林檎を投げ付けるなんて、慈悲の心と進行なんて持ち合わせているだろうか。嬉々として発酵した林檎を齧って啜りながら、ナイフを投げつけるだろう。

 だって、ストームはそういう欠陥だもん。

「全てを棄てる気で居るならイエスと言ってください。」

 ソフィアの手を取ると、ぐいりと斜め後ろに引く。彼女の小さな背では背伸びをしてようやく腕を引っ張る痛みが和らぐはずだ。必然的にチラつく瑠璃色を宿した蒼とヘテロクロミアは、銃弾一発程の距離まで近付いた。
 丸呑みするには十分な距離。藍色のカーテンから、獲物を見詰める。


 あなたが答えるべきは、イエス──
 その一言を猟奇犯は待った。

《Sophia》
「……っ、ふふ……」

 嗤った。██がまた。
 不吉な呪いのように。
 心を捨てた人のなりぞこないが、また。

「あんた、何か勘違いしてるわ。だって……。

 あたし、みんなの親でもなければ……お姉ちゃんでもないのよ。」

 ハッキリと、そう言った。
 人らしい顔をかなぐり捨てた、哀れな蟲。

「あたしの目的は、あたし達をこんな目に遭わせてのうのうと笑っている『奴ら』……『先生』への復讐。自分の為の復讐。それより優先しないといけないものなんて、存在しない。
 大体あたし、助けを求められた所で出来ることなんてないもの。あたしと違って身体が資本のテーセラ様ならお解りなんじゃなくて?」

 厳しく冷たく、けれど優しい女王様は、もう偽物の空の彼方。それでも少女の微笑みは、四人でささやかな茶会を楽しんだあの頃と変わりないものだ。

「答えはね、残念。半分はノーかな。
 奴らの全てを壊せるなら、打ち砕けるなら、死んだって構わないけれど。でも、最期の吠え面は拝みたいじゃない! 死ぬのはぜーんぶ壊してやった後。ねえ、それって心中って言うかしら?

 簡単にあんたの勝手なセリフに頷くあたしなんて、あんただって見たくないくせに。ふふ。納得行かなくたって地獄まで付き合って貰うけど。」

 色違いの二対の宝玉を埋める陶器の肌は、白く美しく。片頬に指を滑らせれば、やっぱり少し冷たくて、溶けてしまいそうだなあ、と思った。
 別に腕は特別痛いわけではないけれど、背伸びに疲れてしまった様子で、肩を竦めて。

「……それにしても。いい加減レディの扱いは学んだ方が良いんじゃないかしら、紳士様。」

 幼い笑い声。渇いている。
 透き通っているようで、淀んだ陶器の内側。
 今、トイボックスにいるほとんどのドール達からの憧れを浴びた仮面が剥ぎ取られた。まるで無理矢理取り付けられた制御装置を殴り捨てて、姿を現したのは蠱惑な少女。
 友として。いいや、親友を名乗っていたあの時の勝気な笑みをそのままに。
 
 ある時は姉として、またある時は母のような存在として。それらを全て棄てられると言うらしい!
 なんて、なんて感動的だろうか。
 この少女モデルは全てを棄ててまで、この場所を壊したいと願っている。元プリマドール以外、他のオミクロンドールを見る目は慈愛に満ちていたはずなのに。
 そのソフィアが、彼等を見棄ててまでも、ここを壊したいと。そう言っている。

「……傲慢。」

 吐き出した言葉は彼女を言語化するのには模範解答だった。まるで腹の底からズルズル引き出されたような、暗がりと鉄の温度を持っている声色と共に目を細める。
 猟奇犯の顔に浮き出されたのは嬉々とした色?
 それとも、幻滅した色?
 蔑みと高揚は調和を生む感情と成り得るだろうか。

「紳士として振舞った方が、『ソフィアには』都合がいいのでしょうか?」

 さらに高く彼女の華奢な腕を引き上げた。彼らを隔てるのは一膜の空気の壁のみとなる距離までに、近づいていく。
 邪悪な魔女を吊り下げて、猟奇犯は何を思うかな。
 くらくら、瞳孔の揺らぐ瞳の奥で鏡のように彼女を映し出せば朝と夜が混ざり合う。
 にっこり、笑顔を向けてやった。

 それから。
 彼女の手を空中で手放す。



 彼女がよろければ、すぐに支えるだろう。



「良いように使えばいい。ともだちですからね。

 シブンの稼働期限以内の。」

《Sophia》
 思いは届かない。理想は実現しない。願いは叶わない。昼夜を灯す猟奇犯の、その手に吊るされた魔女の瞳に嵌るのは歪なビー玉。

 傲慢。その刃は魔女の心臓に突き刺さって、口の中は鉄の香りで満たされる。この小さな身体中を巡る痛みも、きっと裁きの炎と比べれば生ぬるいものなんだろう。

 言葉はない。ともだちを見つめているのだと言うのに、目付きは敵意を孕んでいるようなものだ。じとりと睨みつけて、自分のテリトリーへ寄せ付けない。濁ったビー玉は蛇の眼のよう。
 ようやく、あなたの力の抜けた手元から滑り落ちて、重力の感覚が通常通りになって。もつれた足は、ちいさな身体をあなたの腕の中へと押しやった。それがたまらなく不快だった。

「……ともだちの扱い方が下手ね。無粋な男。」

 身代わりに悪態だけを置き去りにして、紳士様の腕からするりと抜け出した。影を背負ったまつ毛は伏せられたまま、少しも揺れやしない。
 これ以上話すことなんてない。そんな顔で、

「またね。」

 ぽつり。呪いは取り残された。