葛藤は止まない。
恐怖は塗り潰せない。
言葉は取り消せない。
もう手放したい。
破裂してしまう前に、
お嬢さん、風船はいかが?
【 - DoLL;s M0√aT0RiuM - 】
Chapter 2 『風船をどうぞ、Betrayer』
──お披露目の長い晩が明けた。
楽しげなオーケストラは遠ざかり、仮初の平穏が日の出と共にあなた方へ差し込む。
目覚めたあなた方のあいだに、優しい月明かりを落としていたあのドールの姿はない。彼女は胸一杯の祝福を抱えて、お披露目という栄光の舞台へ旅立っていったのだから。
その身は八つ裂きにされているのかもしれない。
その身は焔に焼かれているのかもしれない。
だが人形に過ぎないあなた方にその末路は決して知らされる事はなく、喪失の痛みがじわりと胸を満たすのを噛み締めるばかりだ。
トイボックスは永遠に、このサイクルを続けていく。
成長して、旅立ち、居なくなって、新たな人形が用意される。
犠牲を見送り、終わりの時を待ち焦がれ、操り人形のように──
ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。ずっと……。
「みんな、おはよう。今日もいい天気だね、きっとこの日差しはアストレアの明るい未来を後押ししているに違いないな。
またこのクラスは少し寂しくなるけれど、心配は要らない。別れがあるならば、それは出会いにも紐付くものだ。
──そう、今日はみんなに大事な話があるんだ。久し振りに、このオミクロンクラスに新しい仲間がやってくることになった。」
食事の席に立ち、先生は甘やかな微笑みを浮かべて告げた。
そんな彼の目線は、ダイニングルームの入り口へと向けられる。「入っておいで」と彼が声を掛けると、木製扉がそっと淑やかに開かれた。
「──ねえ、大丈夫? 歩ける? 入っちゃうから……ね。」
寮の廊下から風のように流れ込んできたのは、柔らかな少女の声だった。
鮮烈な赤毛を編み込んだ、真っ白な肌に熟したラズベリー色の瞳が特徴的な、大人しそうなドールが扉の前に立っている。彼女はもう一人の少女の腕を引いて、靴音を鳴らしながら先生の隣に立った。
「皆さん、初めまして。デュオクラスに在籍していたグレーテルと言います。少し事情があってこのクラスにお邪魔させてもらうことになりました。」
あるドールにとっては見覚えのある、グレーテルという少女は朗らかに微笑んだ。はきはきと理想的なスピーチを述べる口は絡まることがない。
「でもわたし、お披露目に出ることを諦めていません。皆さんと一緒に頑張っていけたら嬉しいです。……よろしく、ね。えへへ……」
照れくさそうにはにかみながら、人当たりよく話す彼女は──以前とは見違えるようだった。
「……ねえ、ねえってば。ご挨拶しないといけないんじゃない? あなた、エーナドールなんでしょう?」
そしてグレーテルは、傍らに立つもう一人の少女を見遣った。グレーテルの手に引かれて、無気力に歩み出たドールは、艶めく黒髪を陰鬱そうに垂らして、地下室の暗がりのように目元を陰らせていた。
エーナクラスからやってきた少女──ウェンディは口を閉ざしたまま一向に開く気配がない。
コミカルに困った顔をしたグレーテルの肩に手を置いて、「大丈夫だよ、グレーテル。」と声を掛けた先生は、ウェンディの後ろに立って微笑む。
「彼女はエーナクラスに在籍したウェンディという子だ。本当は昨晩のお披露目に出る予定だったが、不慮の事故で怪我を負ってしまってね。臨時の処置として、オミクロンクラスに置くことになったんだ。
故あって塞ぎ込んでしまっているのだけれど……仲良くしてあげてくれ。」
先生からの紹介を受けても、ウェンディはにこりともしなければ、顔を上げてあなた方の誰とも目を合わせることがない。ヴァイオレットの瞳はまるで呵責に渦巻き、悪夢を見続けているように見えた。
それに対し、隣に立つグレーテルはその背に背負っていた雨雲がすっきり晴れ渡ったかのように快活だった。にこにこと愛想よくあなた方を見回して、未来への希望をその瞳に萌している。
何かあったのだろうということは、彼女達を知る者にとっては一目瞭然であった。
──そして、もう一人。二人の少女の後ろから、軽やかなリズムを踏んで背の高い女性がダイニングルームへ踏み入る。
シルバーダイヤモンドの粒を散りばめたように光り輝く銀糸を高く結い上げ、なびかせながら。穏やかそうな女性はウェンディの後ろに立って、あなた方を見回し、優しく目元を和らげた。
「こんにちは、オミクロンクラスの皆さん。私はジゼルといいます。エーナクラスの先生をしています。……フェリシアは、久し振りね。会えて嬉しいわ。
どうしてエーナクラスの先生がここに来たのか……分からなくて不安がる必要はないわ。少し事情があってね、デイビッド先生がこのトイボックスを暫く離れることになったの。私はその間、オミクロンクラスの皆にお勉強を教えるために来たのよ。」
「……そうなんだ。突然のことで戸惑わせてしまうかもしれないけれど、仕事の為にこの寮を空けないといけなくなってね。その間、みんなは彼女に困ったことがあったら相談してほしい。」
──どうやら、デイビッドは数日後、この場所を離れるらしかった。つまりジゼル先生は、暫くの間あなた方の一番近くで面倒を見る存在になる……ということらしい。
「皆さんと仲良くなれると嬉しいわ。よろしくね。」
ジゼルは優しい慈愛の笑みを浮かべる──トイボックスを預かる、管理者の一人として。
このクラスは、ひと時、目まぐるしく変貌を遂げるらしい。
ジゼルの母としての統治を前に、あなた方はきちんと“今まで通りに”、水面下で、このトイボックスの陰謀に抗い、あるいは真実を追い求めなくてはならない。
──“トイボックスの永遠のサイクル”を突き崩す為に。
ADVENTURE